ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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 ここ最近日本語の表記方法について、あれこれ考えてた。
 つまり正字正仮名、新字新仮名のお話だ。
 今回はブログ訪問者向けというより、正字正仮名推進派の方たち向けに書いているので、
概論やよくあるいざこざ等の背景は省略してます。

 このブログに正字正仮名についての話を書こうと思ったのは、
ツイッターで影夢櫻(@keinozi)氏とお話したのがキッカケだった。


六、七年前は正字正かなに随分否定的だったのが、ここまで考えが改まったってのは、そりゃ啓蒙のおかげだろうに。と思う。


頓首頓首。


ま、結局新字現代仮名遣だから、妙に敵視されてるような気がしちゃうんですけどね^^;(被害妄想だと信じたい)


ぶっちゃけ敵視對象は強行したお上なんで、そこのズレはあるなあと。政策を進めるなら進めるで、混亂とかに賴らずに眞面に進めてくれ的な。


ええ、ええ。こう、賛否様々な意見を参考にしたりブラッシュアップしたりして、まったく興味をもたない人(否定的ですらない人)にも親しみが持てる方向で進んでいったらなと。むしろそこをどうするか真面目に考えないとこれ以上の進展は望めない気も……。言うは易し。


そこはまあ、我々も反省してをります。なので、近頃は議論には餘り參加せず、假名遣ではどう書くのか的な疑問の方に重點を置いてゐます。


個人的に要望を申せばキーボード入力で現代仮名遣いで打ち込んだものを歴史的仮名遣いに変換するソフトが欲しいです。漢字は開かない派の意見が強いのは分かりますが、かな多めを好む人もいるわけですし。「昭和」と「唱和」で書き方が違うと開いて間違ってると困りますし。


あー、字音の扱ひですか。「せうわ」と「しやうわ」ですね。この邊りになると、字音は正確で無くてもいゝ派もそれなりにゐます。筆頭として丸山才一が擧げられますね。和語と漢語の基準は別で良い的な態度もあります。なので、その邊りには現時點では答へに窮します。


色々複雑なんすねえ。なんと言いましょうか、実際に触れられる、実際に使えるようにして、興味持てるようなものが欲しいなあと(先のはその一例でした)。中学生向けに「旧仮名遣いに変換して文字打てるソフト(アプリ)」なんてあればウケそう。啓蒙は若人の教育からですしw


それならば「契沖」なんて云ふソフトがあるらしいですよ。しかし敎育の場ならば、近代文學は正字正假名文だったと云ふ事實を弘めた方が樂かなあとも思ってをります。古文とは異なり口語文もありますから。






 ――と、ここまでツイッターで意見を交わしていたのだが、どうもすれ違いをしているような心地がした。
自分の意見の半分も伝わってないし、逆に@keinozi氏の意見を反映せず自分の意見だけ言っている自分がいる。
(字数と主張したい欲相まって、唐突にキーボード入力の話をし始める自分自身。なんとも気味が悪い)

 これ以上ツイッターでちまちまやっているのは、自身の精神衛生上よろしくないと思ったので、
ブログに自分自身の考えを述べつつ、身勝手な提案をしたいと思う。
 ツイッターはコミュニケーションツールではなく、情報発信ツールだ。
議論なんていう高度なコミュニケーションには不向きなのだ!
http://dairexia.com/twitter-not-sns/


 自分の要点は、正字正仮名に無関心な人たちへの導入部分をどう作るか、というものである。
 キーボード入力のくだりも「旧仮名遣いに変換して文字打てるソフト(アプリ)」の発案も、
導入部分にできそうなものの提案だ。
 一応補足しておくと、自分はアンチ正字正仮名でも、正字正仮名推進派でもない。
どちらを用いるべきか、そうでないか、そういう話は論点ではない。
 自身の立場を言い表すとすれば、売れないアイドルをトップアイドルにしようと考えるプロデューサーだろうか。
人々に対し、いかに正字正仮名に好印象を持たせるか、である。
実際に使うかは個々人次第である。


    「敎育の場ならば、近代文學は正字正假名文だったと云ふ事實を弘めた方が樂かなあとも思ってをります。
    古文とは異なり口語文もありますから」


 氏の意見は実にその通りだと思う。
間違いは何一つ言っていない。
 ただ、それをそのまま誠実に伝えたとして、正字正仮名がトップアイドルに立てるだろうか。


 現在、多くの人が正字正仮名と初めて出会うのは古文漢文の授業だろう。
一般的視点から見れば英語と双璧をなす「外国語」という印象を持つ。
経験談を申すと、私は塾の講師から「古文は外国語だ」と教えられた。
講師本意の言い分で、そちらの方が読解や問題解説がしやすい。

 古文は古文でも母国語であるのは無論である。
ただ今自分が話しているのは、正字正仮名だ。
 夏目漱石の『こヽろ』も本来は正字正仮名で書かれている。
しかし、教科書に載っている『こヽろ』は新字新仮名だ。
 ここに正字正仮名推進派とアンチ正字正仮名派・無関心派を隔つ断絶がある。


 推進派の論点は常に以下の一点だ。

 ・「正字正仮名≠古文≒外国語」ではなく「正字正仮名=日本の文字(古文も現代語も表せる正当な字・仮名)」である。

 人によって若干の揺らぎはあるだろうが、
(新字新仮名より)正字正仮名が正しい、という考えは一貫しているだろう。
 その通りなのだ。
私は彼らにすっかり啓蒙されてしまっているので、合理的にも歴史的にも正しいことはよく理解できている。
長所も知っている。
正字という立場上、新字(俗字・略字)にも寛容でいられることも知っている。


 しかしながら、どうしても推進派から距離を置いてしまう自分がいる。
 正字正仮名のことをあれこれ考えたのは、自身のフォロワー同士がツイッターで論を展開していたからである。
平行線上のまま、一向に交じろうとしない。
その様子を見て、私は以下のようにつぶやいた。
(自身の勝手な考えなので、リプライ等はしていない。のち特定されたが)


あの人たちは「今のものは根本的に間違ってるから撤回して元通りにしなくちゃならない」と主張していて、この人たちは「確かに根本的に間違っているのかもしれないけど、変わってしまったものを元通りにするときの体力や影響を考えると、もっと慎重にならなくちゃならない」と主張している。


合理的にも歴史的にも考えれば元通りになることがいいのだけれども、合理的なモノを現実世界に慣用としてでも持ってくるとなるとこれは一種の社会変革になる。マイナンバーですら動揺する我々がそれを慣用的にでも使うよう軌道修正することになったら、どうなるのだろう。


「それに変革をしなくても社会は現に成り立っている。成り立ってしまっている」それだから世の中はなかなか動かないし、つまるところ「そのもの自体は右翼的であるのに、それを取り戻すことは左翼的」というなんだかよくワカラン状態になってるんだ。


だから右の人たちの多くからすれば、なんだか敬遠したくなる話題だし、そもそもそれに携わる人が「暴力革命的」に感じるんだろうな。曰く我々は合理的に考えない人々のようなので、定義的な暴力革命ではなく、雰囲気的ななんとなくの言葉を使った暴力革命なのな。


だからその人々が自身のことを左でないと言っても、もはやイメージとしてはそうとしか見えない。雰囲気を好む我々には、右も左も大して変わりはない。自分だけでなくより知識もあって深く考えられる人ですら、その人々の考えに否定的になってしまう。


急進的に考えて我々をぽいと置いて啓蒙しようとすると、恐れを感じて否定的になる。正しいのは分かるけど受け付けなくなる。西洋的な啓蒙ではなく、日本的な扇動の方がよっぽど世の中は動く。なら西洋ロジックを頭で練りつつ日本的扇動で自身の意見をじとりじとりと動かす方がよっぽど現実的でないか。






 正字正仮名が浸透していくには、どういうスタンスで臨めばいいのか。
私なりに考えた結果のツイートである。
アイドルとして売り出すその子自身の素質には文句がないのに、素質だけ伝えてもまったく売れない。
プロデューサーはどういう態度でアイドルを売りこめばいいのか。

 啓蒙という名の直球では難しい(停滞してしまっている)のであれば、
扇動という変化球で攻めてみたほうがいいのではないか。
(語弊を生みやすい「扇動」という語を使ってしまったことに若干の後悔がある。
要は人々の求める場所を攻めると言った意味合いだ。
供給者本意ではなく、需要者本意で人々を誘導する、というイメージ)


 一連のツイートに対し、ありがたいことに野嵜氏からの引用リプライを頂いた。
 野嵜氏は正字正仮名推進派の一人である。



これ、「世の中を動かしたい」と云ふのが正かな派の希望なら妥當な忠告なのだけれども、正かな派の人間は寧ろ「西洋的な啓蒙」を目指してゐる。


日本人は明治以來、近代化・西歐化を目指してゐる、と云ふのが話の前提。日本人の近代化・西歐化、と云ふ目標は、全ての日本人が受容れてゐる筈。


国語改革は、さう云ふ日本人の目的に、果して本當にかなつてゐる事なのか、と、正かな派の人間は疑問を呈してゐるわけだ。


だが、根本的に、日本人の近代化・西歐化と云ふ目標に、反撥する人がゐて、さう云つた人々が国語改革を「容認する」と云ふ、日本的な甚だ日本的な態度をとつてしまつてゐる。それでは大目標に達するのは無理だらう、とこちらは指摘してゐる。


世の中が動いたところで、人々の頭の中が變らないのでは、何の意味もない。


これは、人の頭の中が変わったところで、世の中が動いていなければ何の意味もない、と云ふ發想と、根本的に對立する。


しかし、「世の中が動かなければ何の意味もない」と云ふ發想は、古くから日本人が持つてゐる發想であり、「人の頭の中が變らないと何の意味もない」と云ふのは、ヨーロッパ的――或はキリスト教的――な發想なのである。






 私は野嵜氏を数年間フォローしているので、一連のツイートが氏の哲学に基づいていることは容易に理解できた。
 氏の知識量、経験量の豊富さは重々承知している。
その上で恐れながら自論を述べさせていただく。


 日本的な態度(「世の中が動かなければ何の意味もない」と云ふ發想)をとっていては
大目標に達するのは無理であるから「正かな派の人間は寧ろ『西洋的な啓蒙』を目指してゐる」。

もしその言葉のまま意味を取るのであれば、正字正仮名を表舞台に戻すことよりもまず、
日本人の啓蒙を先に行う必要があるのではないか。

 日本の大衆が他の文化の教えを根本から理解したことが果たしてあるだろうか。
大陸から伝わった仏教は、長い時を経て鎌倉仏教として大衆に広まった。
その一方で儒教の考え方は浸透しなかった。
大衆にとって小難しいことへの無理解、無関心は遺伝子レベルである。
(それは日々日本人を嘆く氏が一番ご存知のはずだ)

 「世の中が動かなければ何の意味もない」
……つまるところ、日本的発想はいつだって後手に回る。
明日明後日の生活に支障が出るという危機感が迫ってこなければ、対応は先回りになる。
だからこそ人々は新字新仮名を容認できるのだし、明日明後日の生活に支障は出ないから使うのである。
(危機感が「迫ってくる」というのが肝で、
「明日相模湾に大津波が襲ってくる」と誰かが叫んだとしても
「リアス式でもないし、来てもそんな大きいもんじゃないだろう」という意識が強ければ、
自然対応は鈍くなる。
感情的に迫りくるものがなければ大衆の対応はずいぶん穏やかなのである)


 その大衆に対して、どう正字正仮名をアプローチするのか。
それがプロデューサーの腕の見せ所なのではないだろうか。

 もしも啓蒙というアプローチをとるのであれば、
短くとも半世紀(二世代。親からの教育によって悪影響が出ないようにするため)は啓蒙を行い、
日本的発想から脱却した人々を養成する必要がある。

「人の頭の中が變らないと何の意味もない」と人々のことを嘆くことができる人間を育成しなければ、
新字新仮名を改めようという世論には傾かない。
暴力的な革命でもしない限り、人々の啓蒙が「完了」するまで、正字正仮名が表舞台に立つことはないだろう。



 しかし、正字正仮名が表舞台に立つための道筋は、啓蒙だけではない。
というより、啓蒙された人々が噛み砕き、発想を転換させ、日本の風土に適したものに組み替えることは可能である。

 おそらく仏教もそうして広まったのだろう。
親鸞の「他力本願」を真に理解している人は少ないが、浄土真宗門徒は一千万人を超える。
本題から逸れるので詳しくは述べないが、
「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に往ける」という分かりやすさが魅力となり、受け容れられたのだ。


 正字正仮名ももっと分かりやすく、魅力的に映るものになれば、支持者はきっと増える。
 入口はなるべく広く、誰でも受け入れられるようなものでなくてはいけない。
入りやすく、親しみやすく、究めやすいものだ。

 たとえ話をする。私は中学時代、同年代の子とはちょっと違うものを求めていた。
タッキー&翼やORANGE RANGEが流行ってるなか、
独りジャズを聴き、久石譲を聴いた(久石譲ってところが中学生っぽい)。
ガンダムSEEDが叫ばれてる中「∀」を観た。
自分だけにしか分からない文字「Rαluwθco」を作ってみたりもした。
机の引き出しのなかには「Rαluwθco」の変換表が大切に保管されている。

 そうした「他人とは違う」を求める人にとって「正字正仮名」はまさにアーサー王物語だ。
知ってるけれども詳しく読んだことはない、しかし歴史が物言う確固たる王道である。
ただ使うだけで正統性を主張でき、優越欲も満たすことができる。

 そして、そうした思い出が(一部分は黒歴史となるだろうが)正字正仮名への
負のイメージ(授業・戦争)を払拭するきっかけにも成り得るし、
将来的に正字正仮名推進派の人々を増加させることもできる。
なにより自発的に触れること、読むこと、使うことが
正字正仮名理解への第一歩である。
小難しいことは、小難しいことを理解できる人が理解する。
理解できない人には、発想を組み替えて、分かりやすく魅力的に伝える。
日本人なりに咀嚼した啓蒙だと私は思う。


 無論、中学生でも簡単に扱える環境整備は推進者たちの役割である。
知識がなくとも使用可能で、パソコンやスマホで容易に変換が可能なことが大前提だ。
まずは親近感である。
野球をするにはまずボールと友達になることである。

 その少し見える位置に正字正仮名のより深い世界を据えて、
その奥深き趣味の世界へ導くことができたら、喜ばしいことではないか。
 以上は中学生をターゲットにした一例であったが、
魅力の伝え方は、正字正仮名を本当に魅力に思っている方々
(そして真実に魅力を発信できる方々)であれば、いくらでも出てくるものだろう。

 正字正仮名を推し進めるにあたって反対意見が出るのは当然だ。
特にこの現状をひっくり返そうとしているのであれば、その力の分だけ反発も強くなる。
それに対してどう対応することが、推進派の全体が良い方へ導くのだろうか。

 彼らが注目すべきは相手は誰なのか、
戦って得るものは何なのか、
誠実に正統性を訴え続けることに生産性があるのか、
開放的か、
閉鎖的か、
人は何を求めているのか、
人々を引き寄せるために何が必要か、
卑屈になって躍起になっていないか、
傍から主張の押し付けを見て魅力を感じるか、
常に変化し続けているか。
 その必要があるか。

 私はあくまで外部の人間なので分かり兼ねるが、
外部だからこそその情熱の強さがひしひしと感じられる。
我々は実に単純で実に複雑だと思う。
今後も他人事ながら、正字正仮名が広まっていくのを実感できる日を待っている。

 結論が不明瞭で申し訳ない。以上。


 あと蛇足。 
      ↓

 以前正字正仮名でツイッターをやってたら、
現実の知り合いに「あまりになってない。目に毒。目障り。出直せ」と言われたので、
まあなんというか、革新的な変換ツールは欲しいです。

 「しょうわ」と打ち込むと漢字変換の他に
「せうわ(昭和)」「しやうわ(唱和)」みたいに
正仮名変換(なんの漢字なのかも分かる。「Microsoft IME スタンダード」の「標準辞書」みたいな感じ)が出来たら、
執筆勢としても助かるかもしれないです。
(今後のことも考えると、新字新仮名で打ち込む感覚で正字正仮名打ち込めるほうが使う気が起きる)

 一度でいいから正字正仮名でラノベっぽいの書きて平地人を戦慄せしめたい。

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