ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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2013/2/15起稿

うわ言ステップ

原稿用紙30枚 いつだったろう、家の庭で砂遊びをしなくなったのは。小学時代は飽きずによくやっていた。中学生のときも無性に砂いじりがしたくなったことがあって、庭に大穴を開けたことがあった。
「でも、今はもうしやしないな。庭なんて単なる風景さ。自転車を取りに行くときの通り道でしかない。錆びついたカゴに目が行くことはあるけど、庭木に目が行くことなんてないもんな。でも、そんなの珍しいことじゃあない。そんな風景、誰だって一つや二つ持ってるはずさ」
 頂上まですぐだ。バスロータリー脇の公衆便所で用を足し、念入りに手を洗った。いや、清めたと言ったほうがいいだろう。ハンカチを持ってないから、濡れた手をリュックサックの肩ベルトで拭いた。リュックの中に入っている「それ」がずしりと揺れた。
「こんなオフシーズンの駐車場なのに、車が七台も止まっている。桜はまだつぼみじゃあないか。物好きだな。その中でも一番の物好きはこの俺だろうがな。しかし、桜、桜ねえ。俺にとっちゃあ満開の桜なんて天敵だ。早く散ってくれりゃあいい。いや、いっそつぼみのまま落ちてしまえ」
 頂上へ続く丸太と土の階段を一歩踏みしめたところで俺は立ち止まった。階段の先の青空を見ると、懐かしい光景がよみがえる。
「小学のとき、ここから頂上まで駆けのぼって、どちらが先にてっぺんに着くのか競争したもんだなあ。ヨーイ、の合図で階段を見上げると、この空と雲と、そしてレストハウスだ」
 懐かしくなって思わず顔が歪む。
「競争なんて、もうそんな馬鹿をやる歳でもないか。……あいつら、今何やってんだろうなあ。ヨシオは同じ高校だから、就職するってのは知ってるけど、地元の奴らとは基本会ってなかったもんなあ。桜が咲けば、皆知らない場所で新芽を膨らませて。『あいつ』だってついに高嶺の花になっちまうんだろうさ。……いや待て。競争なんてやらない? 俺は言った。確かに言った。それは嘘だ。俺たちは競争している。そして、現に俺はつい数週間前まで人生最大の競争に巻き込まれていたんだ」
 そんな思考がよぎると、途端にこの階段が苛立たしく思えてきた。
「ああそうさ、競争なんて馬鹿げてるさ! だから『あいつ』は高嶺の花で、俺は湿気た地べたで枯れゆく苔なんだ!」
 ストッキングの引っかかっている幹に蹴りを入れた。心にずしりと重みが加わった。
 この山は湘南平と呼ばれている。神奈川県の相模湾岸にひょっこりと盛り上がった岡だ。「湘南」は観光地化されているので、比較的なじみのある言葉だろう。「江ノ島」も湘南の地域内にある。湘南平は湘南西端の地にある。頂上は皿みたいに平たくて公園になっている。階段をのぼり終える。コンクリート造りのレストハウスが目の前に建っていた。そこの展望台を見ると、カップルが三組海を眺めていた。
「おや、指をさしてる。何を指してるのか? 見なくても分かる。どうせ江ノ島だ。自慢のマイカーで行ってきたんだろう。この山は春夏秋冬カップルの楽園だな。堕落園かもしれない。どちらにせよ、俺は今日、ここがそういう園だから来たんだ。いいか、嘲笑するだけじゃいかん。『やるべきこと』を忘れるな」
 リュックの「それ」の感触を確かめ、歩く。レストハウスを過ぎ、芝生の向こうの鉄骨製の塔を睨む。まるで東京タワーの偽造品のようなこの塔は、地元ではテレビ塔と呼ばれている。湘南タワーではない。
「レストハウスからテレビ塔まで、この山は全部庭みたいなもんだった。でも、今日からは違う。もうおさらばだ」
 広場の枯れた芝の上を通過する。朽ちたベンチと桜の木の間で立ち止まった。テレビ塔へ繋がる鉄板の階段がある。大人が二人、寄り添って歩ける幅だ。実に計画的に作られたものである。
 泥にまみれた朱色の蹴込み板に落書きがされていた。「ゆかりプレシャス」とマジックペンで書かれている。しかも一段ずつ間を空けて四ヶ所に。
「precious……フム、中学じゃ習わないような単語、覚えているじゃあないか。その賢い頭で『ゆかり』を大切にする気持ちを表現したつもりなんだろう。くそ、こうなりゃディスク・グラインダーを持ってくるべきだった。鉄板ごと切り抜いて自分の部屋にでも飾っておきたい」
 もちろんお金がないのでそんな高価な工具買えるわけがないのだが。
 階段をのぼりきると、塔の中ほどにある展望スペースに到着する。注意書き看板に総勢十五組のカップルの名前がひしめきあっていた。これは、カップルがデートの一環で書いたものなのだろうか。それとも地元の真剣十代がカップルの名を創作して、即興じみた芸術に走っているのか。少なくともこの落書きから芸術家は創出されないだろう。
 テレビ塔の展望スペースには天井から床まで一面に落書きがされている。
「天下無双、SEXしたい、FACK、ドマラッポ……こりゃなんだ、側にミッキーって書かれているのに、ちっともネズミの絵をしてないじゃないか。こんなテーマパーク、数分いるだけで反吐が出る……文字通り」
 しかし、この塔のおそろしさはこの落書き群ではない。展望スペースには、落下防止の金網が張り巡らされている。その網目という網目に南京錠がかかっていた。ここからの展望はまさに劣悪だ。レストハウスからよりも壮観な関東平野を見渡せられる絶好の立地にあるのだが、この南京錠群のせいで閉塞的な印象を抱く。
「芋虫……いや、これはアカホシテントウの幼虫だな。奴らが樹枝に群がって、蛹になる様に似ている。小学のとき見たんだ。思い出しただけで鳥肌ものだよ」
 物心がついたときにはすでに南京錠のはめられたテレビ塔の記憶が刻まれていた。聞いた話だと、恋人同士の名前を書いた南京錠を金網に施錠して鍵を捨てると、永遠にその恋は続くらしい。よくあるまやかしだ。間近にある錠をちらと見る。丸文字で書かれた日付は三年前の七月七日だった。その隣に、同じカップルの南京錠がかかっている。日付は三年前の八月七日。さらにその脇にはその一ヶ月後の日付が書かれた南京錠がかかっている。しかし、それ以降はどこを探しても見つからなかった。
「ざまあみやがれ。よし、気に入った。まずはこいつをターゲットにしてやろう」
 心の中でつぶやいて、リュックをおろした。ファスナーを開き、「それ」を取り出した。全長四百六十五ミリのボルトクリッパーだ。直径八ミリの硬線を切断することが可能である。周囲を見渡し、南京錠のツルの部分に刃を当てて息を吸う。そして歯を食いしばってそれを切断しようと試みた。南京錠は呆気なく簡単に切れた。ツルは真鍮製で、真鍮は加工が容易な合金である。つまりそれだけ容易に切ることができるというわけだ。
「どうせ、ぶつっと切れる関係だったんだ。悪く思うな」
 成仏しろよ。そう心に念じて壊れた南京錠をリュックに放った。
 黙々と作業を続ける。二、三個は塔の外に落ちてしまったが、五十センチ四方の南京錠を全て撤去することができた。それでも全体からすればほんの一部分にすぎない。錠を繋げることができそうな場所には必ず十や二十繋がっているのだ。一体どれだけの呪縛がこの塔に繋がっているのだろう。そう思うと、途端に自分の行動がむなしく思えてきた。
 それと同じくして、テレビ塔をのぼる足音と、おちゃらけた話し声と笑い声が聞こえてきた。
「カップルが来やがったか」
 俺は無意識のうちにボルトクリッパーをリュックにしまい、それを担ごうとしたが、思った以上に重たかった。カップルの視線が突き刺さる。
「想いは重い」
 下らない洒落に溜息をし、階段を下った。
「自暴自棄になってる。それくらい分かってるさ。不合格通知が届いてもう何日だろう。十一日だ。呆気ないものさ。赤門前の掲示板に行かなくても郵便屋さんが届けてくれる。大層ドラマチックな瞬間さ。浪人生活が糊付けされてやってくるんだもんな。
 ……いや、免れる術自体はあった。滑り止め……W大学にでも行きゃ良かったんだ。でもそんなの俺が許さん。今までの努力が無駄になるだろうし、就職にだって……。いや、違う。そんな理由じゃない。周囲の期待に応えたかったんだ。甘んじたら申し訳が立たないだろう。……いや、違う、違うんだ。そうじゃない。本当は分かってるんだ。T大学じゃないとダメなんだ。『あいつ』がいるんだ、いるはずなんだ……鵠沼が」
 中学時代、俺に好きな人ができた。髪は黒くて長くて、それをいつも紅色のリボンで結わえていた。活発な女の子で、クラスを牽引する一方、あまり身の内を語らないミステリアスさも持ち合わせていた。鼻の背のそばかすがコンプレックスのようだったが、それがあったから彼女が身近に思えた。そうして引き寄せられるように彼女のとりこになってしまったのである。
 クラスが一緒だったから話すこともあったし、異性の中では比較的仲がよかった。彼女が体育祭実行委員に立候補したので、俺もその役職に就き、体育祭の相談と銘打って彼女とお喋りしたものである。
「……でも、頭が良すぎて、だから俺は苦労して、それで果たせなかったんだ。鵠沼はS高校へ進学。県で一位か二位のランクを誇る公立校……眩しいねえ。T大合格者の大量生産工場……対して俺はどうだ。そんな脳みそがないもんで、平凡な進学校さ」
 鵠沼に告白できぬまま卒業したその日、俺はT大で彼女と再会することを決心したのであった。
「それがこの有様さ……。恋を引きずったまま人生を棒に振りつつある愚かな男だ。短い人生だ。鵠沼なら現役でT大へ行ける。鵠沼だってそれを狙ってるに違いないさ、だから俺も、三年間……三年間! 全てを、何もかもを勉学に注いできたはずだったんだ!」
 そしてこの有様さ。思考がループしている。止めようと思っても、脳にブレーキレバーはない。
「もうやだ。もう勘弁。もう誰も来るな。隔離した生活を送りたいよ……むなしいだろう? 閉めっぱなしで、明かりもないんだ……幸せだ。そうだ、幸せだ。幸せな奴ら、全員失せりゃあいいのさ。子供も、大人に連れ添われてコンクリートの密室に入ってな、窒素ガスを充満させるんだ。夢と希望のあるうちに死ねばいい……膝を抱えて、俺は餓死をする」
 広場に出るとすっかり興が冷めてしまっていた。だから左脇のベンチに「彼女」がいることに気付かず、反応が遅くなった。
 そうだ、彼女がいるのだ。
黙々と何かを書いている。なぜかベンチに座っているのだ。そして彼女が顔を上げる寸前になってやっと回れ右をしてテレビ塔の階段を踏んだ。
「立ち止まれ」
 背後からの声に、俺は呪文をかけられたように立ち止まった。
「君はマルやんだね?」
 その声は三年ぶりだった。その愛称で呼ばれるのも三年ぶりだった。今、親に次に聞きたくない声――鵠沼の声だ。
 俺はどう返せばいいのか分からなくて、片足を踏板に乗せたままの格好で静止していた。
「返事をし給え。ん? もしくは顔を見せ給え」
 彼女は抑揚を利かせて言った。そういえば中学時代、鵠沼は演劇部だったのを思い出す。よく通る声だ。
 イエチガイマスヒトチガイデショウ。鼻をつまんでそう言って階段を駆けのぼろうかと思った矢先、テレビ塔から先程のカップルが階段を降りてくるのを見た。反射的に踵を返すと、目の前で鵠沼が進路を塞いでいた。目を細め、口を歪めて笑っている。悪人の顔だ。かと思うと、昔を懐かしむようなやわらかい笑みを洩らした。
「ああ、やっぱマルやんだ」
 鵠沼が言う。束ねた長い茶髪が、さら、と揺れる。艶のあるリボンが、ふ、とたなびく。その風で蝋燭の灯が消えてしまいそうだ。あれほど魅了した鵠沼の黒は、過去のものとなっていた。
 彼女は私服だった。鵠沼と会うときは常に制服だったのだ。うすら蒼いジーンズにエメラルド色のトレンチコート、黄色いチェックのマフラー。胸にノートを抱いている。ライフのシンフォニーだ。
「なっつかしいなあ。本当に、こんな人のいないところで会えるなんて思ってもみなかった。マルやん。うう、マルやんって呼ぶのも三年ぶりだ! ああでもなんか、中学の頃なんてガキんちょで、ずっと昔のことみたいに思ってたけどさ、違うね。マルやんと会ったら、つい半年前の話みたい。ほら、覚えてるよ。クラス対抗リレー。私がトップランナーで、マルやんがその次。バトンパスの練習やりこんだよね。息、ぴったりだったなあ」
 俺はまだこの状況を呑み込んではいなかった。なぜここに鵠沼がいるのか……いや、なぜ鵠沼のことを考えていたら本人が現れてきたのか?
「おなか、へっこんだんじゃない?」
 言うが早いか、何の前触れもなしに俺の腹をさすってきた。俺は身をよじることすらできなかった。
「鵠沼は……」
 俺は口を開いていた。開いてみて、数日人と言葉を交わしていないことに気付いた。
「鵠沼だね」
「そうだよ、鵠沼だよ」
 と彼女は言って、一瞬だけ間が生まれた。その間がたまらなく酷だった。
「マルやん、今誰かと一緒?」
 彼女はまるで明日の天気を訊くような口ぶりで尋ねてきた。でも俺を誘っているようで、耳がくすぐったくなる。卑怯だ。突然現れてきて、すっかり別人みたいなのに、変わったとこは外見だけなのが不自然で、それなのにすぐ鵠沼だと気付いた俺がいて、動揺して、一方鵠沼はちっとも動揺することなく声をかけてくる。そうだ、彼女の血液型はB型なのだ。マイペースの血が流れているのだ。受け答えようにも声が詰まって言葉にならない発声をする。鵠沼はそれを「誰とも一緒じゃない」と読み取ったらしい。
「何してんの?」
 南京錠を切りまくっていた。そんなこと、馬鹿正直に言えるわけもない。
「別に……さ、散歩さ」
 声の調整が上手くいかなくて、大声を出してしまう。テレビ塔から降りてきたカップルがさっと俺を見た。鵠沼も俺のことを見ていた。じっくり見つめ、そして頷いた。
「じゃあ、ちょっと協力してくれない?」
 少しの猜疑も不審も抱くことなく、彼女は言った。足から腰に掛けての力が抜けていく。これではまるで
「何かのアプローチか何かだな」
「うむ。被写体になってもらいたく」
「えっ」
 鵠沼に心を読まれたような気がしたが、どうやら思っていたことが口に出ていたらしい。彼女はベンチに座ってノートを広げ、トレンチコートの胸ポケットから万年筆を取り出した。
「そこ立って」
 言われるがまま、ペンで指された場所に立つ。
「塔を見上げて……そうそう。あ、でもリュックが邪魔かな。リュックはこっちね」
 ベンチをとんとん叩く。俺は灰色のリュックサックをそこに置いた。
 ごしゃ、と南京錠が中で音を立てた。鵠沼の視線がリュックを貫く。
 やってしまった、と思った。もはや南京錠切断は俺の中で過去の産物となっていたのだ。こんなものを見られてしまったら、なんて思われるだろう。変人だと思われるはずだ。そしたらもうおしまいだ。嫌われる。
「もしもーし」と鵠沼に声を掛けられて、我を取り戻した。
「イメージが消えないうちに、ほらほら」
 彼女はちっとも気に留めていないようであった。俺は息をついて広場に立ち、見慣れた赤いテレビ塔を見上げた。
「そのままね」
 そう言って彼女はペンを走らせた。膝からつま先にかけるラインを眺めて、ふくらはぎの輪郭と柔肌を想像した。視線が合いそうになって塔を見つめることにした。すっかり小さい建造物になっちまっている。それは俺が成長したからだろうか。こんな俺でも、身体は育っているらしい。塔はちっぽけで古びている。塗装はちっとも剥げていないはずなのに
 風が冷たく、耳たぶと手先から体温が奪われていく。今までずっと歩き通しだったし、興奮状態でもあったので気にならなかったのだが、こう何も動けないとなると身体は刻一刻と冷えていく。
「嗚呼惨め也。流浪の人、生きる事難し……。吾心を曝け出すが如く。裸より恥ずかしき事哉」
「何か言った?」
「いや」
 彼女はペンを動かしながら気のない返事をした。俺はとっさにそれを否定する。
「そういえばさ」
 鵠沼は何かを思い出したらしい。ペンを止め、天冠で俺を指す。
「さっき塔を降りてくるとき、何か言ってたよね。三年間、全てをナントカだって」
「それは……」
 少し気が遠のくが、歯を食いしばって耐える。
「聞こえてたのか?」
「うわ言みたいだったから、何言ってんだかさっぱりだったけどね。マルやんさ、なんか疲れてるっしょ?」
 もう返事をする気力もなかった。聞かれていたのだ。鵠沼は俺の思考を読んだんじゃない。俺が自ら思考を垂れ流していたのだ。そんな自覚はなかった。他人との関わりを断った生活を続けていたから、大切な何かを保つためにセルフコミュニケーションを図っていたのだろう。
 しかしどこまで聞かれていた? 好意を抱いていることを知っているのか? 「三年間、全てを」のくだりで、俺は何を口走っていた? 混乱している。思い出せない。
「ああ、そっか」
 ペンで頬をつついて思考していた鵠沼が何かを閃いたようであった。
「受験終わったばかりだもんね。ずっとずっと息詰まりっぱでストレス溜まりっぱだったもんね。疲れて当然当然。あー、それで今日はストレス発散のピクニックか!」
「まあ……そんなもん、か」
 言ってみて確かにその通りだった。ストレス発散。その通りだ。
「受験、どうだった? 落ちた?」
 彼女にとっては冗句のようであった。笑顔は晴れやかで、いかにも共有したい喜びを抱えていた。
 俺は塔を見上げながら言った。雀が飛んでいた。
「落ちた」
「落ちた?」
「落ちた」
 鵠沼はペンのキャップを閉めた。そして、おそるおそる訊いてくる。
「え、ちょっと、どこ志望だったの」
「T大」
「T大! T大って、あのT大?」
「まあ」
「そっか……。んー、よく受ける気になったなあ」
 彼女は感心していた。俺は違和感を覚えた。何かがおかしい。そう思えてならなかった。俺そのものが崩れ落ちるほどの、知ってはならない真実がうごめいているような。
 それでも聞かなくちゃいけないことだった。
「くく、鵠沼は――」
 声が上ずり、語調が強くなって、早口になるのを抑えることはできなかった。恥じらいを脱ぎ捨て、「アンパン」愛好家の脳みそみたいに萎縮した勇気を振りだして、ついに言った。
「じゅく、受験どうだった?」
「え、私?」
 それから間を置いて、言った。
「受かったよ」
「ど、どこに?」
「それは――」
 鵠沼は俺の質問に答えくれた。それは地元にある平凡な私立大学の名だった。
 湘南平の頂上にはたくさんの桜が植わっている。どれもくすんだ茶色の枝だけで、花も葉もない。他の木は崖に生える杉だけで、その先端が僅かに見えた。あとは空と巻層雲しかない。
「どうしてまた、そんな……だって鵠沼は頭が良くて、俺なんかよりずっと……行っててほしかった、T大に……鵠沼なら受かる、受かるに決まってる。でないと、俺の三年間は何だったんだって、で……」
 独り言が止まらなかった。鵠沼が何か言っているようだった。俺を励ましているのだろう。きっとそうだ。でもそれでは根本的に何も変わらない。むしろ逆効果だ。
「鵠沼は」
 俺はなるべく呼吸を整えながら問いかける。
「T大に行こうとは思わなかったのか?」
「T大ねえ」
 溜め息のような息を吐きながら彼女は呟いた。
「凄いとこだけど、堅苦しそうなイメージだし……」
 それはあまりにも軽々しい意見だった。少なくとも俺にはそう感じられた。鵠沼は昔からラフな人だった。柔軟な生き様が格好よく映った。しかし、やるときはやる。だから高校だって一番いいところへ進んだはずなのだ。大学だって……。
 俺にとってはT大だけが大学だった。他の大学は眼中になかった。鵠沼はT大に入るから鵠沼なのだ。そうでない鵠沼なんて……。そんなことを思考する俺がたまらなく嫌いだ。
「だから、行かなかったって言うのか? 堅苦しそうだから……。それだけなら、早慶上智とか、MARCHとか、もっと他にもあるじゃないか。それをどうして、どうして――」
「好きだからだよ」
 一言に一蹴された。俺の精神はふっとばされて、そのまま大の字になっていた。
「私ね、書くのが好きなんだ。小説。高二のときに友達に誘われて面白半分に書いてみたら、世界がばっと広がってさ。内側からだよ。授業みたいに、世界が外側からやってきて、ああやっぱ世界は広いんだなあって思うんじゃなくて、私が世界を広げてるの。いやあ、あの感覚ね。勉強で知ったこともそうじゃないことも、一気に爆発して宇宙になるんだよね。だからもっともっと書きたくなって、その手助けをしてくれるような大学に行きたくなるじゃん。それでここにしようってね。オープンキャンパス行ったら、ケッテイ! ビビビ! だよ。……そんなワケで、今ラフスケッチしてましてですね。まあ、スケッチって言っても、極めて一次元的なスケッチなわけだけど」
 かなわない。
 鵠沼は俺の前を常に進んでいた。A地点にいる鵠沼に追いつきそうだと思ったら、彼女はすでにB地点にいるのだ。俺はいつまでたっても追いつくことができないのだ。隣り合って歩けると妄想していた俺が馬鹿野郎だったのだ。
 俺はどうにかして彼女に抗おうとしたが、結局何も言えないままだった。惨めで。もう泣きたいくらいだった。
「これ、何入ってんの?」
 鵠沼はベンチに置かれたものを指した。それはごしゃりと音を立てたものであった。俺は恐怖した。彼女はどこまで知っている? 俺はいつから見られていた? うわ言を言いながら歩いていることにすら気付かなかったのだ。尾行されていても能天気で歩いていられるはずだ。
「南京錠」
「南京錠?」
「そうだ」
「お願いごとでもするの?」
「違う」
「あ、お願いごとしたあとなんだね。そこから降りてきたんだし」
「違う」
「それじゃあなんなの?」
「……そんなの、決まってるさ!」
 とぼけている鵠沼を見ていたら、思わず怒鳴ってしまった。大股で歩き、リュックを引っ掴むと、強引にこじ開けた。中にはボルトクリッパーとツルが切断された南京錠が転がっていた。南京錠の一つ一つに、マジックペンやサインペンで文字や絵が描かれていた。
「俺は小さい男だ。こんなことをして浮かれて、そして逃げて、自己嫌悪して……」
「疲れてるんだよ、マルやんは」
「疲れてる? そう見えるか? 俺にはその感覚が分からない。なあ鵠沼、教えてくれよ。俺はどうすればいい? 将来を教えてくれよ。何にも見えないんだ。灰色なんだよ。俺は大学へ何しに行くんだ? 俺は何のために生きている……」
 俺はリュックを抱きしめてうずくまった。まるで子供の駄々っ子だ。十八の男がやることじゃない。やることじゃないことくらい分かってる。鵠沼の視線が突き刺さって心が痛いのも分かる。それでもリュックから離れることができなかった。もはや幻想に満ちた思い出に縋り付くしかなかったのだ。
「私たちもお願いごと、してみようよ」
 俺は顔を上げた。「え」と発音するの口のまま鵠沼を見た。
 彼女は髪を束ねるリボンに親指と人差し指を添えた。秒速七センチのスピードでそれをほどいていく。紅の蝶々の輪っかが小さくなって、そしてリボンは一本のサテンの紐となり、髪の毛がふわさと広がった。
「お願いを籠めたリボンを結んでさ、誰かがそれをほどいたとき、その願いが叶うんだよ」
「そんな都市伝説……あったっけか」
「即興ですよ、即興。この私を舐めてもらっちゃあ困りますなあ」
 鵠沼はなぜか自慢げだった。
「ほら、立て立て」
 足に感覚がないまま、俺はぼんやりと立ちあがった。塔の階段の幅はあまり広いわけじゃない。大人が二人、寄り添って歩ける程度の幅しかない。そう、今まさに奇跡が起きている。俺たちは隣り合って歩いているのだ!
 いや、これは彼女のはかりごとでしかない。並んで歩いていながら、俺を見下しているのだ。あるいは同情をしているのかもしれない。無様な俺を哀れんで、女神の手を差し伸べているのだ。しかし、そんなことを鵠沼がするだろうか。ただ自分がやりたいからそうしているのかもしれない。リボンを結ぶ、という閃きを提案して、湧き起こる形容しがたい情動を共有したがっているのだ。
「く、くげっ」
「なあに」
 問おうとしたことがあったが、なかなか口から出てこない。そうして戸惑ううちに忘却する。胸に前に下がる茶色い髪を見た。
「髪、それ」
「お、訊いてくれたね。友達のすすめなんだけど、どうだろう、似合うかい」
「いや、……あ」
 今度は洩れてしまった。ちっとも制御が利かないから俺はうわ言をするのだろう。鵠沼は伏し目がちにして、肩に垂れた髪を撫でた。
 彼女は今、何を思っているのだろうか。
「独り言でも洩らしてくれたらいいんだが」
 ちょっとした願望を考えたが、あまりにも下らない妄想だった。溜め息が出てしまう。俺たちは、互いが肩を寄せ合わせるよう計画的に作られた階段をのぼる。「ゆかりプレシャス」と落書きされたステップを踏みつける……。
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