ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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 つまるところの、平凡な昼下がりってもんだ。般にゃーの家の庭を掃く雑用に専念できる。こんなのどかな午後は久しくなかった。
 俺にちょっかいを出すヒワイドリやヤイカガシは、変態どもの集う岩屋の基地にいる。定期的な会合とやらがあるようだが、知ったこっちゃない。鬼子も留守である。田中の住む世界に行って、鬼退治をしている。これも日常的なものになってしまった。少なくとも、この数週間で、鬼子の日課になってしまったことに今更文句をつけることもないだろう。
「あとね、あとね、この前のお話のつづき、きかせて!」
「ふふ、こにったら物好きね。この前は……貧乏な町娘のお百が、街道の一本桜で、殿様の子に恋に落ちたところだったかしら」
「とってもいいむーどになったけど、その想い人さんが江戸へ奉公にでかけちゃうとこまできいたよ!」
 そして、小日本と般にゃーは縁側でのんびりと雑談をしている。
 本当に、何事もない、穏やかな日だ。
「白狐爺こと、みんな忘れちまってんのかよ……」
 誰にも聞こえないくらい小さな声で、俺は呟いた。
 白狐の村で、俺と鬼子は悪しき鬼どもに負けた。そのとき、白狐爺が己の気力を犠牲にして鬼たちを祓ってくれなければ、こうして雑用すらできなかっただろう。
 力を使い果たした白狐爺は今もなお療養中であった。せめて白狐爺が回復するまであの村に留まりたかったが、般にゃーの命が来て、紅葉山まで引き返したのだった。俺は心配だった。
 ――鬼が来たら、わたしがこの村とおじいちゃんを守ります。
 弓を携えたシロがそう言っていた。その声は震えていた。弓はかたかた音を立てていた。心配なのは、あいつだって同じなのだ。いや、あの場所にいた誰もが、不安を抱えていた。少なくともそのときは。
「――そして、一つ約束をしたの。もしお百が、毎日欠かさず恋歌を……お百は歌が上手だったのよね……桜の下で詠んでくれたら、貴女を決して忘れない、と。お百は毎日毎日、その人の無事を祈り、想いを籠めて詠んだわ。雨の日も、風の日も。お百は献身的だったの。でも想い人は、江戸で多忙な日々を送り、いつの間にかお百のことを忘れてしまったの」
「かわいそう……」
 それがこの有様だ。何もない一日。誰も彼もが悠々自適に過ごしている。
 白狐爺は何のために俺たちを助けたんだっけか?
「奉公が終わって、国に帰ることになったその日も、お百は恋歌を詠んだわ。想い人が、一本桜の脇を過ぎようとしたとき、ちょうどその歌声を耳にしたの」
 般にゃーの語りは続いていた。
「そして、想い人は全てを思い出し、お百の元へ駆け出し、ひざまずくの。『ああ、私はなんて過ちをしてしまったのだ! お百、私は今の今まですっかり君のことを忘れていた! 君の全てを、私を恋い慕ってくれていたことを! しかしお百、この国へ帰ってきたのは、結婚するためなのだ。君を置いて、私は嫁へ貰われるのだ! 許しておくれ、こんな私を、許しておくれ!』『百合姫様、いいのです、思い出しさえしてくだされば。私はそれだけで幸せ』うら若き二人の女子は、手を合わせ、指を絡ませるの。『お百、せめて今宵だけでも、逢瀬のひとときを……』そう言って、百合姫はお百と口を重ね――」
「って、ちょっと待ったああ!」
 思わず叫んでしまった。俺の不安を一気に吹っ飛ばすくらい強烈な話をしていることにようやく気付いた。
「あら、わんこは百合話、ニガテなのかしら?」
 般にゃーはいたずらっぽい笑みをもらしている。ユリバナシ? なんだか知らんが、どこか背徳的な香りのする言葉だ。
「わんわん、大声だすのは『オトナノタシナミ』じゃないよ」
 小日本にたしなめられる。というか、その言葉はどこで覚えたんだ。
「こんな話を聞いて、小日本に悪い影響が出たらどうするんだよ」
「あら、ならチチドリが攻めでチチメンチョウが受けの話に変える?」
「なんだよそれ! わけわかんねえよ!」
 どういうことか、背筋に嫌な汗が流れる。聞いてはいけないと本能が警告しているようだ。
 般にゃーはため息を洩らし、草履を履いて立ち上がった。そして、胸元から煙管を取り出し、吹かしはじめた。
「興が醒めたわ。今日の話はこれでおしまい。こに、恨むならわんこを恨みなさい」
「わんわんのせいだー」
「なんでそうなるんだよ……」
 般にゃーが気分屋なのは今に始まったことじゃない。だから俺は半ば諦めて、庭掃除を再開しようとした。
 普通だったらそうするのだが、今日は少しだけ様子が変だった。
「今日はひげがぴりぴりして落ち着かないの。嫌な気分ね」
 般にゃーの視線が泳いでいた。いや、何かを指し示しているように見える。そして、俺に合図を送っているようでもあった。
 そのとき、般にゃーはその手に持っていた煙管を、紅葉の幹目がけて素早く投げつけた。それは真一直線に飛び、突き刺さった。
 その幹に人陰が見えた。
「何者なの。名乗りなさい」
 般にゃーの一言で空気が張りつめた。鳥の声も風の音も聞こえない。沈黙が続く。姿の見えない睨み合いが続いた。
 突如幹の陰から火焔が吹き出た。
 侵入者の攻撃――そう認識するよりも早く、身体は行動に移っていた。火焔の熱気と交錯し、馳せた。
 やることは決まっている。幹から顔を出す相手に、気合を籠めた鉄拳を喰らわせる。まさかここまで来ているとはつゆも思うまい。駆けながら拳を引き絞る。
「んー、花粉症かな?」
 それは不意のことだった。幹から無防備の相手が現れた。目を細め、鼻をこする女性は、やけに露出の多い、褐色の肌をしている。俺はとっさに攻撃の態勢を解いた、が、全速力の足は少しも止まらない。体勢を崩しながら、距離は詰まり、そして――。
 奴の胸の中に顔をうずめていた。
「おー、わんこったら、そんなに会いたかったのか。よしよし」
 耳元で囁かれ、頭を撫でられる。身震いがして、俺は瞬時に四歩下がった。
「な、なんだよ邪主眠(ジャスミン)! いきなり出てくんなよ!」
「いきなりって……。わんこが先に飛び出てきたんだよ?」
 邪主眠は俺の言っていることを理解していないようだ。奴は赤い眼を点にして、緑色の髪をぽりぽりと掻いていた。そうやって腕をあげられると、豊満な胸囲がより強調されるから、目のやり場に困る。
「じゃあ、どうして俺たちに攻撃したんだよ!」
「攻撃? さっきのくしゃみのこと?」
 くしゃみ? 疑問を繰り返そうとしたところで、木陰から少年が現れた。
「邪主眠ったら、すすきの花粉にやられちゃったみたいでさ、くしゃみするたびに火を吹くから、何度火事になりかけたことか……」
 その少年の顔には、明らかな疲労が伺える。頭襟、烏を思わせる黒髪、山伏衣裳、分厚い書物を脇に抱え、高下駄を履いている。見違えるわけがない、風太郎だ。
「それどころか、茶屋があると勝手に食べちゃうから、道中切り詰めても切り詰めても……」
「この腕念珠、風太郎に買ってもらったんだ!」
 風太郎の苦労話をよそにして、邪主眠は真新しい腕珠を見せつけた。これは風太郎に同情せざるを得ない。
「わんわん、このひとたち、だれー?」
 小日本がやってきて俺の袴を掴んだ。不満げな顔を浮かべている。
「そうか、小日本は知らなかったよな」
 小日本は頷いた。悪い奴らじゃないから、すぐに仲良くなれるだろう。
「こいつらは、俺の知り合いだ」
 小日本の顔が、ぱっと輝いた。


 犬地蔵師匠の村で暮らしていたころ、一匹狼のように見栄を張って、独りきりであった。少なくとも、寄り添ってくる奴らを無視して、独りであろうと努めていた。それでもなお俺に近付く物好きがいた。それが邪主眠と風太郎だった。
 邪主眠は、数年前にひょっこり姿を現した天竺の鬼神だ。ここでの鬼神というのはつまり、鬼とも神ともとれる、程度の意味で、荒々しい神という意味ではない。異国の神さまなんてどっちつかずなもんだ。俺がどんなに拒絶しても、奴はちっとも気にすることなくちょっかいを出してくる。これが腐れ縁というやつだろう。
 風太郎は天狗一族の少年で、邪主眠の近所に住んでいる。俺たちは知らぬ間に村中を探検するほどの仲になっていた。いわゆる幼なじみというやつだ。いつだって俺が先頭で、風太郎は背中にいた。歳が近く、性格が対になっていて、補い合える関係だったから今まで一緒にいられたのかもしれない。俺は先に行動するのに対し、風太郎は先に思考する。風太郎は饒舌だが、俺はそれほどしゃべらない。
「心の鬼の探究、それはある種、自分自身の心の探究でもあるんです」
 屋敷の中で、風太郎はお茶を手にしながら言った。軽い自己紹介のはずだったのだが、いつの間にか心の鬼の話になっている。奴は心の鬼を熱心に研究する変わり者でもあった。幼い頃から聞かされているから、もううんざりである。
「その姿を見て、瞬時に特性を理解しなくては、無防備な心に付け込まれてしまいます。姿かたち、知性、口癖……そういう観点を統合して、あとは勘に頼らざるを得ないんですけど、鬼のある程度の特性なら、一目で判断できるようになりました。例えばヒワイドリ。数多の乳を平等に愛する色欲系の鬼で、その数はごまんといる。人間の三大欲求はご存知ですよね? すなわち食欲・睡眠欲・性欲です」
「はんにゃー、せーよくってなあに?」
「大人になったらわかるわよ」
 小日本の問いかけに、般にゃーは平然と答えた。
「むー……。こに、早く『オトナ』になりたいなあ……」
 大人にならないでくれ、と切に願う俺がいる。
 風太郎の演説は、二人の問答を無視して続いていた。
「これらの欲求から生じる心の鬼、たとえば痩せたい願望があるにもかかわらず暴食に走らせる餓鬼(かつき)、布団のぬくもりに誘われて惰眠を誘う布団羊鬼(ふとんのようき)、そしてヒワイドリや押栗鼠鬼(おしりすきー)……そういった鬼たちは単純でわかりやすいから、その数も非常に多い。そして、亜種もあります。本来どんな乳でもいいはずなのに、ある一人に執着するヒワイドリがいたっておかしくない。何しろ心の鬼は全て解明されたわけじゃないですからね。欲求から生じる鬼がいる一方、怒りや恨み、虚勢高慢、罵詈雑言。そういった感情から発生する鬼は多種多様で、まさに十人十色否十鬼十色百鬼百色。同じ鬼なんていないと言っても過言ではなく、つまり――」
「その話、まだ続くの?」
 般にゃーはすっかり呆れていて、紅葉饅頭をかじっていた。小日本はうとうとと頭をゆらゆらさせ、邪主眠は般にゃーの二又尻尾を興味深げに眺めていた。
「す、すみません! 鬼閑獣(きかんじゅう)が憑いちゃったみたいですね」
 心の鬼で冗句を言う輩を、奴以外に見たことがない。しばらく見ない間に、ずいぶんな通になったようであった。
「ま、その知識は評価するわ。わんこも見習ったらどう?」
「んなこと――」
「いえ、僕は全然ですよ。わんこに敵うのはこの雑学と空を飛べるくらいですし……」
 反論しようとしたところで風太郎が謙遜の言葉を述べた。おかげで俺はすっかり何も言えなくなってしまい、自棄になってお茶を一気に飲み干した。舌が火傷するほど熱かっだが、何食わぬ顔をする。
「ところで般にゃーサマ」
 咳払いをし、風太郎が問いかけた。
「般にゃー、でいいわ」
「恐れながら……般にゃー、僕たちを何の目的で呼んだんですか?」
「あー、そういえば、犬地蔵のジッチャンはなんも言ってなかったねー。ただ、般にゃーのとこへ行けって」
 邪主眠が饅頭を頬張りながら言った。
 すっかり忘れていたが、確かに気になる。村からこの山まで、結構な日数を歩かなくちゃいけない。遊びに来るだけではあまりにも遠い。般にゃーのことだ、師匠に理由を言わずに二人を寄越したのだろう。
「邪主眠は風太郎の護衛のために来させたの。風太郎、貴方に重要な役目を与えるわ。いい? わんこの御供をなさい」
 一刻の沈黙が流れた。驚愕のためというより、疑問を孕んだ沈黙だった。転寝から覚めた小日本が、きょろきょろと辺りを見渡した。
「なあ般にゃー、俺は鬼子の供をしているつもりだ。供が供を持っちまっていいのか?」
 再び静寂が続いた。小日本が心配そうに俺と般にゃーを交互に見ていた。般にゃーは眼鏡を上げると、おもむろに立ち上がった。そして、縁側から庭に降り、再び煙管を取り出した。人差し指に火を燈し、煙管に火を点けると、一口吸い、大きく息を吐き出した。霞のような紫煙が浮かび、そして消えた。紅葉の一葉がさらりと落ちた。
「わんこ、貴方は旅に出るの。鬼子の元を離れて、風太郎と一緒に国を巡るのよ」
「な……」
 言葉を詰まらせた。あまりに突然のことで、どう切り返せばいいのか分からなくなってしまった。そもそも、頭の中でちゃんと整理できておらず、何一つまとまってすらいない。
「き、聞いてねえよ、そんなの!」
 だからその程度のことしか言えなかった。
「そりゃ、今初めて話したんだから」
 般にゃーは至極当然と言った風に返した。
「道中苦しんでいる人間がいたら助けるの。それが貴方への課題よ」
「人間を助ける? 冗談じゃねえ」
 人間はただ鬼子を畏れ、苦しめるだけの存在だ。その真実が頭の中を駆け巡っている。でも、思考は止まったままだ。
「神が人を愛さなければ、だれが人を愛すのよ。貴方は半人前にしろ、愛す側なの。立場をわきまえなさい。ちょっとは感謝されるようになってから私の前に現れることね」
「んなこと言われたったって」
 般にゃーの一言一言が突き刺さって、じわりと胸と顔が熱くなった。立場ってなんだよ、愛するってなんだよ。そんなの、俺には分かんねえよ。人間は人間を愛さないのかよ。それなら、人間の存在理由ってなんなんだよ。
 般にゃーは、何食わぬ顔で煙管を吸っていた。それが腹立たしくて仕方なかった。いっそ旅に出て、般にゃーを見返してやろうかとも思った。でもそれは般にゃーの思う壺だろうし、鬼子の元を離れることに、どうしようもない不安を覚えていた。
「こには、こにはやだよ!」
 小日本が精一杯の声を張り上げた。
「わんわんいなくなっちゃうの、や!」
「そうですよ、最近の鬼が強くなってることだって、般にゃーならご存知でしょう?」
 風太郎も般にゃーの意見には反対の姿勢であった。
「聞く話によれば、隊を組んで襲う鬼だっているそうじゃないですか。今、わんこを別行動させる必要があるんですか?」
「だからこそ、よ」
 般にゃーは煙を吹き散らして言った。
「わんこを旅に行かせるのは、緊急事態だからよ。今はまだ鬼子一人で互角に戦えるけどね、手に負えなくなる日がきっと来るわ。その前に底上げをしなくちゃ、私たちは死ぬしかない。私達はそういう綱の上に立っているの」
 底上げ、という言葉に俺は身震いがした。それは、俺がみんなの足を引っ張っているような、そんな響きを持つ言葉だった。俺を否定するような言葉。左遷。旅へ行かされるってことは、戦力外ってことなんじゃ。
「連携も大切よ。でもね、賢い相手は弱点を突いてくる。一度崩れた連携ほど哀れなものはない。間もなく卑劣な死がやってくるわ」
「でも、旅をしなくたって、鍛えられるし、連携だって……」
 傍から見れば、今の俺は目を覆いたくなるくらい悲愴な姿をしているのだろう。それでも、俺はここに留まりたかった。
「根本的なことを分かってないみたいね」
 訴えは容易く切り捨てられた。
「どうも最近、嫌な予感で髭がぴりぴりするのよ。強い邪気はちっとも感じないのだけど、例えばあの木の上とかね」
 俺は呆然としていて、般にゃーの言葉を聞き流してしまっていた。
 だから、煙草の煙を吹いた般にゃーが、不意に煙管を紅葉の幹に投げつけても、しばらくそれに気付かないままでいた。
 煙管の突き刺さった紅葉が勢いよく燃え上がった。それは焔の幻影であった。ようやく俺は事に気付いたのであった。
「出てきなさい、卑しい鬼よ!」
 叫ぶが早いか、燃え上がる紅葉から人型のものが落ちてきた。忍の服を着た者だった。体中に付いた幻影の火を払いのけているうちに、般にゃーが駆け出していた。忍は袖を払うのをやめ、手裏剣を般にゃーに投げつけると同時に左へ走り出した。般にゃーは手裏剣を掴みとり、投げ返す。直接忍にではなく、その進行を妨げるために奴の足元を狙い、それは突き刺さって烈火となった。忍は飛び退き、樹上に隠れた。
 紅葉山がざわめきだす。風が枝葉を揺らしているのだろうか。それともあの忍が風のように木々を伝っているのだろうか。奴は今、どこにいる?
「邪主眠は私の援護を。わんこはこにを守ってあげて」
「りょーかーい」
 邪主眠はのんびりと庭に降りると大きく伸びをした。胸が引き上げられ、大きさが強調される。
 一方俺は「戦力外」の言葉を追いやって、小日本を茶の間の隅にやり、その前に立ちはだかっていた。一切の攻撃も通させない。その心意気だった。
「風太郎、どうかしら、何か分かる?」
 風太郎は一呼吸の間に思案し、常に肌身離さず持っている書を開いた。そこにはありとあらゆる鬼の図が書かれていた。
「忍の鬼のようですから、身は素早く、多くの武器を駆使するはずです。心の鬼か、堕ちた神の鬼かは分からないですが、少なくとも戦い慣れてはいるはずです。邪気は薄いけど、気を抜かないほうがよさそうですね。むしろ強い邪気を隠していて、僕らを翻弄する気かもしれない。呪術に長けた鬼によくある型ですよ、これは!」
「御明察だな」
 部屋から女性の声がした。
 俺ははたと部屋を見渡した。今、この間にいるのは、俺と小日本と風太郎の三人だけだ。そして、それは明らかに小日本の声ではなかった。無邪気さはなく、研ぎ澄まされた理性を持った声だった。般にゃーのような間延びた印象はなく、きびきびとした鋭さを感じる。
 間違いない、敵だ。
 とっさに臨戦態勢に入るも、姿が見えない。さっきからどこに隠れている? そのくせ先の声はとても近くから聞こえた。
「まさか!」
 直感が天井を見上げさせた。奴は今まさに天井から落ちてくるところだった。音もなく畳に着地し、両股を大きく開いて重心を下げている。忍の姿だった。
 一瞬目が合ったような気がする。凛々しい釣り目は細く、額金に描かれた巨大な目がぎょろりと俺を貫いた。覆面から除く顔は、若々しい女性のものだった。その手に鞭のようなものが握られていた。それに気付いたころには俺の視界は失われていた。頭から伸びる雄々しい角が、残像として眼の裏側でちらついた。
 鞭で目を潰されたらしい。俺は、少しも反応することができなかった。
 今まで戦ってきた何よりも、速い敵だった。
 疾風がすぐ脇を過ぎた。
 小日本の短い悲鳴を、全身で感じた。俺はとっさに小日本を呼んだ。しかし反応はない。息すらも聞こえない。ただ、小日本の気配が刻々と遠のいていくことだけは分かった。
 黒とも白ともつかないまぶたの裏側で、小日本の残像を追った。平衡感覚がつかめず、足元がおぼつかない。縁側で足を踏み外し、鼻先から転んだ。痛みで頭の中が真っ白になる。鉄の味がする。
 小日本を負う手段は、空気の震えを捉えるこの身と、直感だけに限られていた。
 今の俺には、どういうわけか、それだけで充分であった。
 小日本は、今目の前にいる。
 俺にはその確信があった。
「今すぐ小日本を離せ、卑怯者」
 燃えるような怒りをたぎらせて、言った。
「卑怯者?」
 思った通りの場所から、聞き慣れぬ声がした。
「まさか、本気で言ってるわけではないな?」
 毛が逆立つような、冷徹さを思わせる声だった。
 何も見えないまま臨戦態勢に入った。でも今なら奴の攻撃を見切れるような気がした。理屈でない不思議な力のようなものが俺の周囲をうずまいていた。
「目的遂行のためには、使えるものは全て使う。地理を活用し、弱者を利用する。それをお前は卑怯と称すのか? そんなもの、武士道が創りだした幻想だ」
 しかし、奴はちっとも攻撃しないどころか、ほんの些細な攻撃の意欲すら感じ取れなかった。それなのに俺は一寸も動けなくなっている。
 俺の心の弱みを、もてあそぶように突いてくる。
「武士道を妄信するのは、全てを心得た剣士か、戦を知らぬ素人だな。貴方は――自分の至らなさを私のせいにしているだけだろう?」
 俺は、戦わずして負けていた。
「退きなさい、わんこ。奴はくないを持ってるわ。下手に動かないで頂戴」
 遠く背後から般にゃーの声がした。
「目的は何なの、答えなさい」
 般にゃーが侵入者に問いかけた。奴はしばらく沈黙を続けたあとで、こう口を開いた。
「……ぷりんとやらを、頂くつもりさ」
 このあと、あらゆる出来事が立て続けに起こった。
 最初に、前方から何かが跳びついてきて、俺に抱きついてきた。敵の不意打ちだと思って、やられた、と思った。そのまま俺は尻もちをついた。後頭部を地面にぶつけて、意識がもうろうとする。鼻をすする音がした。そして、今俺を抱きしめるのは、小日本なのだと理解した。
「まさか……いや、そんな」
 それから般にゃーの、戸惑いまじりの声がする。
「行けるはずがないわ。だって、貴女は『知らない』はずだもの」
 何が行けるはずがないのか、この状況で何が起こっているのかは分からない。しかし心当たりが全くないわけではない。
 紅葉山には「門」がある。
 田中の住む世界。紅葉石に触れ、「ある言葉」を唱えると行けるという。その「言葉」は俺だって知らない。向こうの世界はそれだけ秘匿的で禁忌的な世界なのだ。
 それなのに。

 ――いただきます。

 奴がこう呟いた途端、奴の気配は消え失せてしまった。
 しばらく俺は、何も考えられなかった。頭が揺らぐ。今まさに意識を失うところであった。
「わんわん、わんわん! こわかった、こわかったよお!」
 頬に温もりを感じた。
 それは涙だった。
 小日本、お前は、俺のために本気で泣いてくれているのか。
 俺は馬鹿野郎だ。
 馬鹿野郎だ……。
 そして、眠るように気を失った。


 ちらちら。ひらひら。
 いつの間にか、母上の膝を枕にして、まるくなっていた。
 ぽろぽろ。ふわふわ。
 子守唄が聞こえる。幼年の俺はとろんとしていた。母上の手が、とん、とん、と拍を刻んでいた。それにあわせて息をする。肺いっぱい春の空気に満たされた。
 薄目をあけて、母上のかおを見た。そのかおはぼやけてよく見えなかった。
 そうだ。俺は母上の記憶をもっていなかった。
 それなら、この唄はいったい誰が? 春の陽だまりのなか、ぼんやりとそのかおを眺めた。すると、すこしずつその輪郭がはっきりとしだす。
 子守唄をうたうのは、小日本だった。
 しかし、俺の知っている小日本ではなかった。俺よりも、鬼子よりも背の高い女性の姿をしていた。
 やさしくつむられた目の、やわらかいまつ毛の一本一本。口ずさむ唇はうるおいに満ちていて、引き締まっていた。
 そして、互いのかおのあいだに、豊満な胸があった。俺は赤子のように、その手をのばしていた。
 うすくひらいた小日本の目と俺の目があうと、小日本は音もなく微笑んだ――


 はっとして、大きく目を見開いた。
「わっ」
 目の前に小日本がいた。俺のよく知る、小柄な童女だ。夢かうつつか、その無垢な瞳から、じわりと涙が溜まりだした。
「わんわん、よかったぁ……!」
 小日本は泣き出した。その声を耳にして、ここが現実であることを理解した。俺はすっかり夢を見てしまっていたらしい。
 泣かしてばかりだ、と思う。
「憐れね、わんこ」
 脇の座布団に般にゃーが座っていた。はだけた着物から谷間が露出していて、思わず目を背けてしまった。
 般にゃーの隣には、向こうの世界から帰ってきた鬼子が座っていた。どこか沈んだ面持ちで俺を見ていた。鬼子のことだ、罪悪感を抱いているに違いない。邪主眠も風太郎も心配そうにしている。
「こにがいなかったら、誰が面倒を看たのかしら?」
 般にゃーの言葉には、呆れと安堵が混在していた。見えなかった目が見えるし、鼻の焼けるような痛みも引いていた。
 小日本の恋の素。その癒しの力によって、俺は急速に回復したのであった。
「わんこ、ごめんなさい、私がいれば、こんなことには……」
 鬼子は、色々と言葉を考えた挙句、そう言った。
 そりゃ自分がいない間に仲間の一人を人質にされ、もう一人が負傷したと聞けば、謝りたくなるのも分かる。鬼子がいたら、もしかしたら小日本が人質にされていなかったのかもしれない。
 でも、そういう問題じゃない。
 俺は俺を許せなかった。
 強くなりたい。これまでにないくらい切に、切に願った。鬼子を守るため、小日本を守るため……。守るだけじゃない。いつか必ず、あの鬼を倒してやる。
 だが俺は俺というものに自信が持てなくなっていた。打ちひしがれていた。何度も鬼と戦ってきたが、一度も勝てない。拳を交えることなく戦意を喪失してしまった。仲間を危ない目に遭わせている。
「般にゃー、俺、強くなれるのかな」
 そんな俺でも、まだ望みはあるのだろうか
「その見込みがなかったら、とっくに追い返してるわよ」
 般にゃーは、さも当然のように言った。
「安心して。貴方には素質がある。ただそれを充分に発揮できてないだけなのよ」
 般にゃーは決して、俺を見放しているわけではないのだ。
「強くなりなさい。そうしたらきっと、あなたの憧れる鬼子の本当の強さに気付くはずよ」
 いつの日か、白狐爺に言われたことがある。

 ――鬼子の道は鬼子のものであるし、お主の道はお主のものである。お主が鬼子の培った道の上で戦おうなど、それこそ宿世が許さぬというものじゃ。お主はお主の道を究めるが良い。そのためにも大いに悩みなさい。苦心して見つけだしたものこそ、真の生きる道じゃよ。

 その本意がなんとなく分かったような気がして、思わず感情がこみ上げる。何度も何度も目をこする。
 そして、決心した。
「俺、旅に出るよ」
 行く宛はない。ただ、今なら人間の生活をちゃんと見ることだってできるような気がする。すっかり零の状態になってしまったから、何だってできる。
 それに、俺には帰る場所があるのだから。
「風太郎、荷物は任せたぞ」
「やれやれ、わんこは荷物の管理が苦手だからね」
 風太郎は肩をすくめ、ため息をついた。まんざらでもないようだった。
「じゃ、おねーさんはしばらくここにいようかな。ここらへんの茶屋ちぇっくも済んでないし」
 邪主眠は相変わらず呑気であった。多分、この旅が終わって帰ってきても、邪主眠の性格は変わらないだろう。
 床から身を起こし、大きく伸びをした。
「あの……わんわん」
 目を赤く腫らした小日本に袖を引っ張られた。じっと見上げられた。
「こにはね、本当は、行ってほしくないの」
 その小さな訴えに、言葉が詰まる。
「でもね、わんわんが行きたいっていうなら、こに、ガマンする。だから――」
 それからその手を胸に置き、ゆっくりと目を閉じた。そして、その手を俺に差し出す。手のひらには桜色の鼻緒があった。
「恋の素と、こにのきもち、いーっぱい注いであげたから。ケガしちゃっても、これがあれば大丈夫だから、寂しくなっちゃっても、これがあれば大丈夫だから、だから……」

 かえってきてね。

 そう言って、小日本はまた泣いた。
 この涙を、最後にしてやる。もう二度と泣かせはしない。俺は誓いを心に刻みつけて、少女の涙をそっと拭った。

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