ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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 この日、アタシは悩んでいた。周囲からすればたいしたことのない話なんだろうけど、自分にとっては迷惑この上ない場面に遭遇してしまっていた。
「アンタに憑いた鬼、祓わしてくれへんか?」
 秋も宿題締切も間近に迫る八月末のどんよりとした日だった。近所の境内にある祖霊社、日本さんと出会った場所で、私は新たな出会いをしたのだった。とはいえ、今回のは街を歩いてたら道端アンケートの人につかまっちゃったくらいひどい出会いだけど。
 まずそのアンバランスな仮面が目に入る。四つ目の人面が彫られている。たぶん歩くとき頭がふらついて大変なんじゃないかって思うけど、さておいて次に着目してしまうのはその手に持つ三叉の矛と胴長のホームベースみたいな盾だ。ああ、確か隼人盾とかいうやつなんだろうけど、そいつに荒っぽい白ペンキで「ONI IS OUT!!!」と塗りたくられている。そんな装飾しちゃって大丈夫なのか?
 うん、なんかアフリカの先住民さんのコスプレイヤーに出くわしてしまったようだ。とはいえ、その肌は何十年も日の光を浴びていないんじゃないかって思うくらい白くて、指で弾いたら折れちゃいそうなくらい細い手足だった。髪も暗室で発芽した植物の葉っぱみたいに色素を失って白くなってしまっている。活動的なコスプレをした病弱少女。しかも、その背中には大きな黒い巻物……いや、本物かレプリカかは判別できないけど、ありゃどう見ても恵方巻きだね。いや別に今は節分でもなんでもないけど。
 そして尻尾に毛を生やした丸っこい赤小鬼と青小鬼を引き連れてるってオチ付きときた。
 何が「鬼を祓わしてくれへんか」だよ! 憑いてるのはそっちのほうじゃないか!
「あーすみません、アタシ間に合ってるんで」
「まーまー、石鹸付けたる。ウチ太っ腹やから、ティッシュも付けて月二千九百八十円でどや……って、新聞の勧誘ちゃうわ!」
 なんか、激しいデジャヴをを感じる。
「あのなあ、三文芝居しとるんやないで? 東西折衷とか求めへんから!」
 アタシも東西折衷なんて求めてない。今まで関西に行ったことなんてないけど、あっちはこんな人たちがたくさんいて、毎日がボケとツッコミなのだろうか。まったく、精神参っちゃうよ。いや、この子だけが特別なんだ。そう信じることにしよう。
「ウチは本気さかいに、アンタにゃ鬼がひそんどるで」
 うん、別に鬼の存在は否定しないさ。それだけでもアタシは他の人と比べて随分寛容だと思ってほしいくらいだ。でもこの人を信用しないのには二つ理由がある。
 一つ、日本さんのケガがよくなってからはほとんど毎日一緒に遊んでるけど、アタシの心にあるらしい鬼を感知して教えてくれたことはないし、アタシも鬼が憑いてるような、あの変な気持ちはちっとも感じない。
 二つ、人に鬼は祓えない。祓えるのは鬼子さんと神さまだけだ。よって、この真っ白くてげそげそした女の子はあやしい人物なのである可能性が高い。うん、そう、例えば中二病の患者さんだとかね。独断とハッタリでアタシに鬼があると判断を下しちゃって、勝手に勧告しちゃってるんだ。
 以上の考察により、導かれる選択肢は以下の通りだ。
 一、逃げる。
 二、逃げる。
 三、逃げる。
 四、逃げる。
 アタシは即断して、二の「逃げる」のカードを奪うようにして取った。
「じゃ、忙しいんで!」
「あ、ちょ、待てえ! 待てえゆーとるんやで!」
 待たない。こういう人が現れたら迷わず退けって兄貴が言ってた。幸運なことにここは祖霊社だ。二十メートルハードル走。ハードルはお賽銭箱で、ゴールは本殿の祠にある紅葉の小石だ。疾走し、跳躍する。今なら地区大会で優勝できる自信がある。紅葉石まであと少し。あそこに行けば――。
「た、田中さん、ごめんなさい、遅刻してしまいました!」
 目測二・五メートルメートルのところで新たな障害が出現した。
 危ない! なんて言えるヒマがあったら避けている。そのまま日本さんの懐に着地する姿勢をとった。とぼけた顔がアタシを捉えるとともに、二人重なって祠の前に倒れこんだ。紅葉色の着物から、深くて甘い香りが舞った。
「もう逃がさんで」
 草履を引きずり、じゃりじゃりと距離を詰められる。大股で歩いているのを見れば、せっかちな性格だってことがが窺える。彼女の前と後ろにそれぞれ赤と青の小鬼が短い足を動かしていて――なんてのんきに考えられる時間はないんだけど。
 立ち上がって日本さんの腕を引き、紅葉柄の背中をはたいてあげる。不思議と汚れはきれいに落ちて元通りになった。
「って、ちょい待ち」
 大きな四つ目の仮面をかぶった女の子の声が、突如として震えた。小刻みに揺れる人差し指がアタシを通り越して日本さんに定まっていく。
「ア、アンタ……鬼子やないか」
 まるで向こうの世界の人を見ているようだった。日本さんを見て、恐れを抱いている。心の底から、まさに日本さんこそが恐怖の根本であるかのような、そんな顔をしていた。
 次の瞬間、銀髪の女の子の目の色が変わった。リモコンでチャンネルを変えたみたいに、本当に一瞬で切り替わり、矛を突き出して駆け出した。
「ここで会ったが百年目ェ! 鬼子ぉ、この手でアンタを――」
「日本さん、あの子と知り合いなの?」
「さあ?」
 女の子が転んだ。いや、関西流ひな壇ズッコケを炸裂させたと称したほうが正しいだろう。こちらが言葉を失うほどの美しいフォルム、ストリームの転び方であった。砂煙まで見惚れてしまう。連れの鬼も絶妙なタイミングで転がる。まさに経験によってすべてを計算しつしているのであると言っても過言ではない。
「まてまてまてまて! なんかもー何からツッコんでええのかわからんわ! あのな、ウチの名前くらい、このお面見たらわかるやろ!」
 額に取り付けられた、頭一つ分はあるだろう仮面を指さす。
 そんな印象にしか残らないものを付けてるのに、記憶をいくら漁っても思い当たる節はなかった。日本さんも首を傾げている。
「どー見ても方相氏のナリやろが!」
「ほーそーし? プレゼントか何かを包むつもりなの?」
「そーそー、ウチ、キャラメル包みが得意なんやで。ラッピングなら任せとき……って、包装紙ちゃうねん! 方相氏! 紙ッ切れと一緒にせえへんといて!」
 ちょっとボケたところでこれだ。この子の思考回路はどうなってるんだろう。相当回転速いんだろうなあ。
「ウチは如月ついな! またの名を役小角の末裔、役追儺(えんのついな)や!」
「ちょ、またの名ってなんだよ!」
 そういう設定の芸名なら至極納得がいく。ファンにはならないけど。ごちゃごちゃと名前が飛び交ったけれど、脳内検索で検出される名前はなかった。
「役小角……」
 でも日本さんは何か心当たりがあるみたいだった。
「エンノオヅヌ?」
「ええ、古の時代、鬼や神さまを操ることができるほどの法力を備えていた呪術者の名前です」
「ふふん、さすがやな。天敵のこと、よー知っとるわあ」
 自称役追儺は得意気に三叉の矛の石突で地面を二、三度叩いた。
「でも、その血はずっと昔に途絶えてしまったと」
 その瞬間には自称役追儺は地面に突っ伏していた。スピーディでアクロバティックなコケである。
「絶えとらんわ! びんびんしとるさかい!」
 幾度となく転びまくってるせいで、戦う前から服は砂ぼこりにまみれてしまっていた。体を張っていることが見て取れる。
「アホも大概にしとき。ウチはホンキなんやで。鬼子くらいあっちゅー間にケチョンケチョンにしたるわ」
 なんというか、この必死さを見ると、初めて会ったときの日本さんを思い出す。あの時はまだ日本さんを鬼として見てなくて、単なるコスプレ少女だと思っていたんだっけた。
「あのさ」
 懐かしい。胸の奥で、小さく言葉を漏らす。
「君、本当に鬼を祓えるの?」
「トーゼンや! 役小角の末裔を甘く見んといて! 今から倒したるから目ェかっぽじってよう見とき!」
 自信の塊みたいな台詞を吐き、役追儺は矛を日本さんに向けて身構えた。
「あー、違う違う。そういうことじゃなくてさ、君、言ってたよね、アタシに鬼が憑いてるって」
「えっ! 田中さん、また憑いちゃったんですかっ?」
 自称方相氏の供述によれば、だけど。やっぱ日本さんの鬼的な感覚では心の鬼を感知してはくれないようだった。
「この通り、日本さんはアタシに鬼が憑いてることに気付いてないんだ。ここでアタシの鬼を祓うことができたら、いい牽制になると思わない?」
「アンタの思惑はわかっとるで。ウチが除霊の呪術を唱えとる間に鬼子が奇襲仕掛けるっちゅー成算やろ!」
 びしぃという擬態語が音になって飛び出るように、相方氏追儺は勢いよく指をさした。
「いえ、私はそんな卑怯な真似はしませんし、あなたがその気でないならば戦いたくありません」
 と言って日本さんは薙刀を祖霊社の脇に寝かした。追儺氏は歯ぎしりしながら日本さんを睨みつけるけど、返答は無言のみだった。
「アホらし、疑うばっかじゃアカンな。アンタの鬼、ウチの編み出した究極エクソシスムで倒したるわ!」
 三叉の矛を天高く掲げ、盾を地球の内核を貫いた。何やらぼそぼそと呟きながら円を描くように矛を振り、上段から突き落とすように刃を向ける。一点の動揺もない黄金色をした六つの眼差しがアタシの目と目の間に集中する。アタシを見ているんじゃない。アタシの中にある「何か」を見ているんだ。そう思う。
「覇ッ!」
 矛が眉間の寸前で停止する。アタシは反射すらできなかった。彼女の突きはただ空を貫通しただけで、アタシはどこも傷ついてはいない。でも、目に見えない「何か」がアタシの身体を通り抜けたような、そんな気がする。
 ……というのは、単なる気のせいだったのかもしれない。具体的にいえば、方相氏の役追儺と名乗る如月ついなの「究極エクソシスム」が、まるで中学生が意気込んじゃってカッコいい踊りを追求した結果、五年後に思い出してみると恥ずかしすぎてのた打ち回っちゃうような代物へと成り下がっちゃった系の「アレ」なのではないかと。
 時は止まっている。頭上のケヤキですら、葉の擦れる音をやめて、じっと役追儺を見下していた。
 目に見える変化は何一つとしてなかった。アタシの体にも寸分の異変は感じられない。
 役追儺の顔が引きつりだした。
「あ、あれ……? おっかしいなぁ」
 わけもなく三叉の刃を上下に振る。しかしそれもただの空振りに終わり、彼女は今、二死満塁で三球三振したばかりの八番ライトのポジションに立っていた。
「な、なんや! その『うわーこの子痛いわーマジ痛いわー』っちゅー視線はっ! きょ、今日は調子が悪いだけや! 決して鬼を倒せへんっちゅーことちゃうで! ええな、勘違いしーひんといてな! ここんとこ重要やから! 今日んトコはここまでにしたる! 命拾いしたな、鬼子! 次こそアンタを倒したるから、足洗おて待っとき!」
 日本さんに人差し指を突きさして、長々しい台詞を滑舌よく十秒というガトリングな早口で吐き捨てた。正直、鬼が祓えるかどうかより、こっちのほうが尊敬に値する。
 再び沈黙が訪れる。頭上のケヤキはもう呆れてしまったのか、無関心に葉っぱを揺らしている。
「って、そこ足やなくて首やろがっ! って、どっちかツッコまんかい! ウチぁピン芸人ちゃうねん! 方相氏やねん!」
 と、どう見てもヨシモトのピン芸人にしか見えない少女は今度こそ祖霊社を後にした。
「なんだったんだ、あの子……」
 二匹の鬼も見えなくなったところで、正直に現状の心持ちを漏らした。
「とりあえず、害はないみたいですけど」
 うーん、あの様子だと、性懲りもなく日本さんにちょっかい出してくるような気がしてならないような気がする。まあ、面白い子だし、どうせ日本さん相手じゃ敵わないんだろうから、むしろ個人的には歓迎なんだけどね。
「それじゃあ日本さん、邪魔が入ったけど、改めて心の鬼祓いに行こうか」
「そうですね。今日は五、六体祓いたいですね!」
 はは、相変わらず無邪気なクセに好戦的だよなあ。

   φ

「それじゃあ、日本さん、またね!」
「はい、今日もありがとうございました!」
 田中匠と日本鬼子の会話が終了した。
 日が暮れてもじめじめと肌にまとわりつく空気が離れない。もう九月も近いが、残暑は始まったばかりだ。この暑さはあと一ヶ月続くのだろうと田中匠は思考し、もう勘弁してほしいとうんざりした気持ちを生じさせた。それに加え、残った宿題の山を思い起こすと、私まで鈍々しい瀝青の湖に呑まれていく感情に侵される。
 日本鬼子が向こうの世界へ飛んでいく。ようやく私は呼吸を許されたような気がした。
 全く、願望を吸収せずに人間の心に宿ることがいかに至難であることか。私はまさに半殺しの目に遭ったまま生かされている。あの青狸大将の願望鬼が私を消滅させないよう力を送ってよこすのだ。まるで生きた心地がしない。
 今朝は祓われることを覚悟した。如月ついなだか役追儺だか判然としないままであるが、奴は私の存在に気付いていた。あのときは存在維持できる最低限の力しか放出していなかったにも拘らず、少女は確信をもって――少なくとも田中匠の五感と意思を介してでは――私の存在を見抜いていた。幸いその強大な霊力を活かしきれていないようであったから、私は今もなお田中匠に束縛されて密偵を続けられているのであるが。
 しかし現在の本務は田中匠の心に居座って日本鬼子の監視を行うことではない。こちらで天魔党の駒となる鬼を模索し、吟味し、取り憑いて操って人間共を混乱させることを主としている。日本鬼子の生態観測なんかより断然私を活かせる指令だ。私はただ願望を貪るように食い漁っていればいいのだ。これ以上楽な仕事はない。本能の赴くまま、存分に成長できるというものだ。
 宿主は祖霊社を出て八幡宮の中を歩いている。頭の中はいかにして効率よく宿題の山を崩していくかでいっぱいで、私の居場所はごくごく限られた空間であった。早く劣悪な環境から脱したい。願望を吸う私が願望を抱くとはなんと滑稽なことであろうか。
 しかしなりふり構ってはいられない。日本鬼子と別れた今から、田中匠の自宅の門を開けるまでが残された唯一の機会なのだ。日本鬼子がいる間は、他の鬼に憑いたとしても諸共斬られるのが関の山であるし、田中匠の家では鬼に憑くことができない。家というのはそれだけで結界の役割を果たしているのだ。だからこそこの道のり、神社から田中匠宅までの七分間、私は全ての感覚を五感に移行させ、外界に張り巡らす。
 この世界には神というものが少ない。神社の木々ですら、神が宿っていない。御神木に、絶命寸前の神が息んでいるのみである。これでは町の無格社の神はとうに堕ちたか死んだかしているのだろう。こんな世で人間がこうも平然と生きているのが不思議でならない。つまるところ、自然に宿る鬼もいない。鬼は人間の心に宿れる者のみが生き残って、あとは皆絶えてしまったのだと言っても過言ではない。
 人と会わなければ鬼にも会えない。しかし、日が暮れた細道に人間の姿はどこにもなかった。いっそ田中匠の願望を増幅させて一思いに暴れてやろうかとも思ったが、そんなことをしてどうなるわけでもない。かの日本鬼子に斬られてしまったら仕舞いであるし、伊達や酔狂で田中匠の感覚を介して日本鬼子を観察しているわけではない。生き残るためには、人間に憑いて暴れるより、鬼に憑いて身を守るしかないのだ。私と私の分身はそうして千歳を乗り越えてきた。
 切れかかった街灯に羽虫がたかっている。もう田中匠の家は間近であった。あの光を越えた先を右に折れてすぐ左の門をくぐってしまったら、私は田中匠が宿題を終えるまで鬼に憑く機会を失ってしまうのだ。これ以上の長居は私を発狂させる。田中匠の身体が街灯を抜けた。どうか、曲がった先に人間がいてほしい。この際鬼が憑いていなくても構わない。外出する人間であればそれで結構。社会の歯車にされて機械的に仕事をこなす人間が望ましい。頼む。私は願望を籠めた。
 だが道の先には誰もいなかった。鬼も神もいない闇だけが続いていた。
 田中匠が門に手をかける。こうなれば宿主の兄である田中巧に憑いてしまおうか。奴はこの宿主より動く。買い物にもよく出かける。そうすれば――
「田中さん」
 宿主の鼓膜が震え、外界からの信号を認知した。突然だった。つい先ほどまで人間の気配はどこにもなかったというのに。奴はどこから現れたというのか。
 田中匠はこの声に聴き覚えがあるようだったが、咄嗟に名前と顔を浮かべることができなかった。
 次に視覚が対象物を認識する。好き勝手に伸ばされたぼさぼさの髪の毛、彼岸花の髪留め、暗くてよく見えないが、たいそう疲れ果てた様子を醸し出す目のふち、しかし暗闇でも映える白く弱々しい肌。薄汚れたつぎはぎだらけの服は、どこか手術跡のように思われた。
 宿主の思考は夜明けの清流のように輝きを放ちだした。田中匠は一度この少女と会ったことがあるのだ。
「ああ、君は――」
 田中匠の喉が震える。が、途端に思考は固まる前の混凝土(こんくりいと)のような液体に変化した。私は為す術なく底なしの沼にはまっていく。
 田中匠は奴の名前を知らない。ただ熊のぬいぐるみを渡され、友達になっただけなのだ。よって私も奴の名を知らない。
 だが驚くべき事項はそれではない。
 奴は『人ならざる者』なのだ。
 なぜそうなのか、私にもわからない。宿主は奴を人間と見なして接しているから、具体的な情報は入手できない。しかし奴から発する気はどう見ても人が放てるようなものではなかった。ともかく神の去った世界に奴のような存在がいるのは、甚だ珍しい事態なのではないだろうか。しかし、これ以上驚喜すると宿主が私を関知しかねない。無心を装って奴の様子を舐めるように視てやろうではないか。
「田中さん、何してるの?」
「え、ああ、今まさに家の門を開けようとしてるんだよ」
「ここ、田中さんのおうちなの?」
「まあね。狭っ苦しいところだけど」
「そうなの……。あの、田中さん」
「なんだい?」
「あの、あした、田中さんとあそびたいな」
 その瞬間、田中匠の思考回路に「宿題」という二文字が八重束になって迫ってきた。もう一分一秒を争う事態になりつつあるのだ。
「あーごめん。しばらく遊べないかもしれない」
「そんな……」
「ご、ごめんね。アタシが今までサボってたせいなんだよ。締切……いや、うん、宿題早く片付けるからさ、そしたら一緒に遊ぼうよ」
「しゅくだい、いつ終わるの?」
「んー、く、九月明けには……」
「おそいよ、田中さん」
「ごめんっ! ホンットーに、いやマジで全力を尽くして必死にもがいてあがいて片付けるから! そうしたら、そうしたら遊ぼう! うん! 全力で遊ぼう!」
「ほんとう?」
「もちろん。この田中匠、心の底から誓ってあげましょう」
 心の底から黄金に輝く脂肪のようなものが膨れ上がった。誓いだ。その言葉が嘘ではないことが手に取るようにわかる。
「それじゃあ、これから缶詰になるけど、次日差しを浴びるときが来たら、よろしくお願いね」
 そう声を発して、田中は門を開けた。
 ごめんね、と後方に罪悪の感情を抱いて、門をくぐる。
 ようやく見つけた。奴は鴨だ。人ならざるもので、田中匠に近しく、温もりに飢えている。これ以上ないほどの立地条件ではないか。
 さらばだ田中匠。貴様の心は実に居心地の悪い場所であった。
 これから私は奴の心に乗り移る。願望の鉱山だ。苦行を強制されていたのだから、次は傍若無人に驕り昂ってやる。


 田中さんがあそんでくれないの……。
 奴の心は、タクラマカンのように、何もない荒んだ大地が広がっていた。砂の一粒一粒が孤独を象徴し、澄み渡った蒼天の先にある無数の星は皆田中匠を示していた。この宿主は願望の塊であった。鉱山のように屑が見当たらないのだ。
「貴様は田中匠を欲しているのだな」
 私は砂漠の中心で声を張り上げた。空間が動揺する。
「あなたはだあれ」
 貴様は心の中でそう返答した。
「私は願望鬼。貴様の願望を叶えてやろう。貴様の願望はなんだ?」
 田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい。
 貴様の望みが狂ったように迫り来る。私は御馳走を残さぬよう一口で喰った。混じりけのない、深い味わいが身の全体に沁み渡る。
 これはいい。青狸大将の脂身のように濃厚な馳走も良かったが、この宿主の濁らぬ情は何にも勝る。余計な着色がない分、純水のように通りがいいのだ。
 さあ、洗脳を始めよう。
「ふむ、ならば見方を変えてみようではないか。そもそも田中匠と遊ぶということは、田中匠の合意が必須であることにお気付きか。そう、田中匠が貴様の提案を拒み続ければ、永遠にその願望は果たされぬのだ。苦しいだろう? 辛いだろう? すさむだろう? だからこそ見方を変えるのだ。貴様はかつて田中匠にぬいぐるみを贈ったそうではないか。そうだ、あの綿の飛び出た熊のぬいぐるみだ。貴様は田中と出会うまで孤独であった。間違いないな? その時貴様の心を紛らわしたのはそのぬいぐるみであった、間違いないな? その頃は幸せだった。遊ぶ相手がいたのだからな。ぬいぐるみはいつまでも受身だ。感情を持たぬ。貴様が伸ばした指先を拒むことは決してない。ぬいぐるみは貴様に忠実だからな。何があっても背くことはしない。殺せと命ずれば殺し、死ねと命ずれば死ぬ。完全な下僕となる。貴様は心ゆくまで戯れるがよい。ぬいぐるみで遊ぶことに合意は無用だ。しかし、今そのぬいぐるみは田中匠が所有している。だが気にすることは何一つない。田中匠もぬいぐるみなのだ。田中と遊ぶのではない。田中で遊ぶのだ」
 宿主の砂漠から音を立てて気味悪い地衣類が生え出て、同時に幻覚的の茸がかしこから湧き出てきた。
 田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ。
 貴様の願望は爆発した。私はその爆風を残さず貪ろうと試みた。
 その欲望が仇となった。奴の願望が、私の想像以上に――いや、想像以上であるという想像はしていた。しかし私の想像はあまりにも卑小で夢のないものだったのだ――極大で、大宇宙を形成するまでになっていた。一日や二日で形成されるものではない。一個人に向けられる凄まじい飢渇を持ち合わさねば、これほど欲深い心の闇を生み出すことは不可能である。
 だが私は願望の吸収をやめなかった。いや、やめてはならなかった。ここで停止すれば、たちまち私は呑まれ掻き消されてしまう。生き延びるため、生きながらえるため、生存本能が絶叫しながら、私は死ぬために食っていた。
 呆れるほどの計算違いだ。私は観念した。私以上に欲深い存在はいないと思っていたが、上には上がいることを思い知った。
「綿抜鬼」
 私は貴様に名を付けた。ぬいぐるみで遊ぶ鬼と化した貴様にふさわしい名だ。
「はは、信じらんねえぜ!」
 綿抜鬼は急激に成長し、田中匠とほとんど変わらない背を獲得していた。つい先程まで幼年の姿をしていたくせに。
 もう私も限界だ。
 まあ、日本鬼子に斬られるよりかはまだましだろう。膨張しきった私は破裂した。
 しかし、私の破片もまた綿抜鬼の願望に呑まれ、宇宙の藻屑となり、ゼロとなった。

   φ

 たぁなかさぁん、あそびましょ。
 貴女の中身はなにいろかしら……?


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