ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
『囲い鍋』

2010/1/22ごろ書いた作品。約11500字。


高校時代の文芸同好会で

「お題小説作ろうずw作品の最初と最後を宮澤賢治の『雨ニモマケズ』の冒頭と末尾にすんのなww」

みたいなノリで作ったやつ。


ちょっとした伏線のようなものをちょいちょい付けようとして、

やがて発掘できなくなってしまったものが多々出てきてしまいましたが、

まあそれはそれで好きです。



後半のスピードはなかなか気に入ってたりする。

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ

 と、宮澤賢治先生は仰っていた。小学坊主だった当時の私はこの片仮名だらけの名作に感銘を受け、手記中の『ワタシ』の様な生活を高校一年の現在まで続けている。周囲から変な目で見られても屈しない。そうして高められてゆく精神が今後の生きる糧となっていくのだと、私は信じている。
「精神? 生きる糧? なーに言っちゃってんの?」
 だが、私の行く道を遮らんとする女がいる。
「赤瀬さんには、一生私の考えが理解出来ないだろう」
 赤瀬さん。高校で同じクラスになったお転婆な女である。
「ええそうね。アンタの考えなんてわかろうとも思わないわ! それより、自分のこと『私』って呼ぶのやめてくんない?」
 人との関わりを極力控えている私に、赤瀬さんは無理矢理に話し掛けてくるのだ。
「この自称は、私の尊敬する――」
「ハイハイ、宮ナントカさんの書いたナントカに影響されちゃってんでしょ? バッカみたい」
「ば――馬鹿とは何事か。人を馬鹿にするなど……」
「だってバカじゃない。アンタは世界が狭すぎんの。自分で何も考えないで、狭い世界のルールに従ってるだけ。そうじゃないの?」
 私は赤瀬さんに宮澤先生の事を馬鹿にされた様な気分がした。そして、私の中を駆け巡る血潮が黒く濁っていく様にも感じられた。
「赤瀬さんに先生の何が判るというのだ」
「さあ?」
 赤瀬さんは間髪を入れずに返答する。
「わかんないわよ。でもね、アンタみたいにすぐ近くにある世界に気付かないのは悲しいって思うだけよ」
「悲しい? 私が?」
「ま、気付かないんならそれはそれで幸せなんじゃないの?」
 終始しれっとした態度のままであった赤瀬さんは、要項を全て伝えきったからなのか、颯爽といつもの女子グループの輪に溶け込んでいった。
 ……私が悲しい? 取り残された私はその疑問に首を傾げた。どこが悲しいというのだ。あの日から積み重ねてきた努力、知識、経験。世界には努力も、知識も、経験も知らぬままに死んでゆく命があるのだ。その分私は教育を受けられる上に志望大学を決める『権利』さえも掌中にある。私の様な幸せ者は数える程しかいないだろうと思っている。だからこそ、私は幸せを無駄にせぬ様日々を送っているのだ。
 その為にも、家に帰るなり参考書を開くのであった。

********************

 翌日、身に凍みる寒さと風に屈服することなく学校に着く。教室は別段寒い訳でもないのに厚着をし、身を縮こめる男子生徒がちらほらいた。全く、男だというのにけしからん。
 周囲に呆れを覚えつつも、いつもの事だと諦め、鞄から筆記用具と英単語帳を拾い出す。
「今日は特に寒いわねー」
 どさり、と隣の机にスクールバックが品の無い音を立てて居座った。またあの女――赤瀬さんだ。ニット帽、マフラー、コートに手袋……。脱ぐ気配は更々無いらしい。
「あ、帽子取れとか思ったでしょ?」
 私の視線に気付いたのか、はたまた最初から話し掛けるつもりだったのか、赤瀬さんは私を見るなりそう言った。
「帽子だけではない。コートは脱ぎ、マフラーと手袋は外したまえ。室内なのだから」
「イヤよ。寒いじゃない」
 即答を寄越し、腕を擦る姿を見て、言葉よりも先に溜息が出てしまった。
「……先生は仰った。雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持て、と。然るに私達も健康体を維持する為に丈夫な体を持つ事位常識であろう」
「それはアンタの中での話でしょ? 冬は寒いの。寒いなら寒いなりに寒がるの。それが冬。ウィンター。わかる?」
 また馬鹿にされる。もううんざりだった。いつもいつも私を馬鹿にする。私だけならまだいい。相手にしなければそれで良いのだから。しかし、先生の思想をも貶す事に関しては私にとって最も許すまじき行為であった。
「もう、私と関わらないでくれ」
 私はそう言い放った。入学式から経つ事十ヶ月。およそ三百日間溜まりに溜まった心労は限界に達していた。
「貴女といると気苦労が絶えないのだ」
 それならばこうして辛苦が溜まる前に言えば良かった。始めから彼女を遠ざけておけば――。
「明日、ヒマでしょ?」
 私の忠告早々、赤瀬さんは私に問い掛ける。
「私と関わるなと言ったはずだ」
「そんなのどーでもいいから、明日ヒマなんでしょ?」
「だから――」
「ヒマなのね」
 強引に話を続ける。
「私に暇など無い。明日は休日だが、勉学は怠らんのだ」
 どうも調子が狂う。一応赤瀬さんの言い分も聞いておこうと話を合わせる事にした。すぐにでも会話を終わらせる気であったが。
「アンタ、塾通ってるんだっけ?」
「自学で十分だ」
「じゃ、明日は家で勉強してるだけってことでしょ? それがヒマだってゆーの」
「暇なものあるか」
 既に受験は始まっているというのに……と続けようとしたのだが、次の赤瀬さんの言葉に閉口せざるを得なかった。いや、語弊なく言うのならば開口したまま言葉が出なかった、と言った方が正しいだろう。
「明日、アンタのウチに行くから」
 その一口に、私の足の爪先から髪の毛の先端に電撃が迸った。私は痺れたまま一時停止したが、やがて仮死状態から醒めた蛙の様に口が動き出し、本来言うべき言葉とは違う短い言葉が喉の奥から飛ぶ。
「無理だ」
「どうして?」
 赤瀬さんは蛇の様に私に喰って掛った。
「そもそも、君は私の家を知らない」
「なら放課後アンタに付いてく」
「明日は家から一歩も外に出ぬぞ」
「アンタの親に入れさせてもらうわ」
「親は仕事でいない」
「え……」
 赤瀬さんは瞬間焦りか何かで頬を染めるが、すぐにそれでも行く、という様な事を言った。
「言っておくが、私は貴女を中に入れる気などこればかりも無いぞ」
「だったらアンタが観念するまで呼び続けるから。ずっとずっと、呼び続けるから」
 あくまで狙った獲物は逃がさぬのか、決意に溢れた眼で睨まれる。私はお手上げだった。
「……なら好きにするが良い。だが私は私を貫く」
 例え理に適っていなくとも、相手が相応の決意を抱くのならば私はそれをも超える決心をせねばならなかったのだ。
「上等ね」
 彼女はそう言い放つとようやく席に着いた。
 今日はこれきり話を持ち込まれることはなかった。しかし決意の通り、私が自宅のドアの鍵を閉めるまで、半径三メートル以上離れることはなかった。
「只今帰った」
 私は薄暗い廊下にそう告げた。大手企業の父は毎日帰りが遅く、朝は早い。母は西洋の特集記事を作ると言って今朝から取材に行っている。夕空が射り込んだ居間に明かりを点ける。テーブルに一万円札と置き手紙があった。
『これで好きな物を買ってね』
 今日は小遣いの日だった。私は手紙ごと一万円札をポケットに突っ込むと、食事前の勉強をするために二階へ上がった。

********************

 一人の夕食後、私は自室に戻って勉強を再開していた。しばらくして父が帰ってきたようだが、父は何も言わずに風呂に入っているのだろう。そして、何も告げずに寝室へ行き、眠るのだ。
「一度休憩しよう」
 明日になった事を時計で確認して私は独り言をぼやいた。余弦定理の発展問題の解答に赤丸を付けたところで伸びをする。椅子の背にもたれ、後頭部で手を組んで上体を反らした。丸まっていた背が伸び、骨が軋みを上げる。首を二、三度捻ったその時、一冊の本が目に入った。小学生の頃から大切に読んでいる先生の本であった。私は旧友に会った気分でその本を手に取り、ぱらぱらと頁をめくる。
 開き慣れた頁で私はめくるのを止めた。
 『雨ニモ負ケズ』から始まる、あの手記であった。

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラッテイル
  ……

 ここまで読んで、私は反射的に本を閉じた。随分見なかった友人に「お前は変わったな」と冷酷にかつ遠回しに真実を浴びせられた。
 途端に目眩がし、私は自覚する。私は駄目な人間だ。私は宮澤先生の様に欲が無い訳でも、怒らない訳でも、静かに笑っている訳でもない。いや寧ろ正反対の行いをしていた。高みを目指す為に学を究め、赤瀬さんやクラスの人々に対して憤りを感じ、常に仏教面をしていた。
 私は誰でもない、自ら先生の理性を冒涜していたのだ。
 目の前が遠くなり、暗くなってゆく。振り向くと遥か遠くに細い分かれ道があった。ああ、私はいつから道を逸れて歩いてしまったのだろうか。
 私の手は震えていた。為す術無き事態に、私は数学の上にこの本を置いて明かりを消す事位しか出来なかった。そして、今まで経験した事の無い眠気に襲われた私は吸い込まれるようにして布団に潜り込むのだった。

********************

 だが、どうしてか私は良く眠れなかった。心のどこか感じ得ない部分が眠りを妨げている様な気がした。その部位は、眠れば良い、眠ってしまえば良い、そうすれば万事は解決する、と言う私の中の一般論理が虚無であると異議を唱えている様であった。そして、どうしてか心の異論者は赤瀬さんの姿をしていた。
『明日、アンタのウチに行くから』
 脳に繰り返し響く。私は頭を抱え、唸りながら寝返りを打った。
 ……今からでも遅くは無いだろうか。今から先生の教えにまた沿ってゆけば先生の様な人間に成れるのだろうか。
 がたん、がたん。
 カーテンの奥から音がする。どうやら風が強いようで、雨戸が激しく揺れているらしい。自然さえも私の眠りを妨害するか。私は手始めに雨に動じぬ精神を養うため、心頭を滅却する事にした。無である事も考えず、ただ内に身を導いてゆく。内へ、内へ、内なる道へ――。
 少しずつ風が気にならなくなってきた。このまま眠ってしまおうと、更に内側を進んでゆく。
 ……て。
 風の代わりに、違う音が鼓膜を震わした。
 ……けて。
 気のせいだろうか? いや、気のせいではない。何かの勘違いか? いや、確かに耳にした。音というよりかは、何かの声であった。誰かの声が、ベランダから……。
「開けて!」
 まさか――! いやしかし、こんな時間に――? 驚愕と疑問に両側頭部を殴り付けられ、私は眼を大きくさせた。忍耐も正義も眠気や絶望と共に吹き飛び、己の探究本能のまま窓に飛びついた。あの音が……いや声が幻聴でも構わない、あわよくば本物であれと、その程度の期待であった。何しろ冷静な私が時と環境を材料に空想へ『でもどうせ』の信号を発しているのだ。
 カーテンを引き放ち、窓の錠を下ろそうとするが、絶望を知ったときとは違う理由で手が震え、上手く下ろせなかった。どうにかこうにか二重のガラスを開け終える。目の前にある、鈍い色をした波形の鉄板。この戸の先に……。
 錠を解除し、開ける。
「よかった、開いた!」
 赤瀬さんがいた。私は戸惑った。今この時に、赤瀬さんがいるという、この事実に対して戸惑いを隠しきれずにいた。どんな顔をしているのかは暗くてよく判らないが、赤瀬さんは身を小刻みに震わせていた。何故か彼女に似付く厚着姿ではなくパジャマ姿であった。そして、どういう訳か白い素足を露わにしている。
 私の抱いた素朴な疑問は、すぐに片が付く事になる。
「少し温めさせて。親とケンカしちゃってさ、寝てるフリして窓から出てきちゃった。ま、プチ家出みたいなもんね」
「上着も靴も履かずにか」
 私は呆れ、溜息を吐いた。苦笑いを浮かべる赤瀬さんを中に入れると、彼女は答えた。
「そっちの方が何かと便利だからいいかなーって」
「便利な訳あるか」
「あら、こうしてアンタの家に侵入できちゃったワケだけど?」
 私は赤面した。あれほど赤瀬さんを中に入れまいと思っていたはずだったのだが、今現在本人は私の家の、私の部屋にいる。
「夜討ちって結構効くのね」
 彼女の苦笑が悪戯な笑みに見えた。そんなもの考えもしないと言うと、だから夜討ちなのよと撥ね返された。夜討ちが幼稚と聞こえた私は感情が湧き出たが、その感情はやがて泥の沼に呑まれ、代わりの産物が生まれた。
「それはそうと、今何時だかわかる?」
 赤瀬さんは押し黙る私の思いを知ってか知らずか、そんなことを訊いてきた。私は枕元にある目覚まし時計を見て時刻を確認する。
「早く答えなさいよ」
 赤瀬さんは促すが、私は暫し目覚まし時計をぼんやり見つめていた。目覚まし時計に変な物が付いていた訳ではない。ただ、その時刻に驚いていたのだ。
「五時半、だ」
 知らぬ間に、私は眠っていたのだ。あの失墜と失望の中、のうのうと眠ってみせたのだ。人間というものはこうも楽観的であるものなのか。否、私が楽観的であるのだ。それは悪い事では無い。しかし、私には許せなかった。
「……アンタ、自転車ある?」
 一方赤瀬さんの方も何やら暗い声色であった。私と違い、やや焦りの色が濃いのだが。
「ある」
「二人乗りできる?」
 手短に答えると、赤瀬さんは咄嗟に縋り付いてきた。
「そんなものした事が無いし、するつもりも無い」
「そ、そうよね……アンタだもんね」
彼女はまともに溜息を吐く暇も無く続ける。
「じゃ、すぐ出発しよ!」
「待て、意味が――」
「見せたいものがあるの! 早く!」
 私も負けじと即答しようと試みたのだが、赤瀬さんは私の意見など聞いてはくれなかった。恐らく彼女の我儘に付き合わなければずっと亡霊の如く取り憑かれるのだろう。
「判った、赤瀬さんの行きたい所に行こう。だが、これだけは言わせてくれ」
「何よ、用ならとっとと言っちゃってよね」
「サンダルとジャンパー位は着ておきたまえ」
「あ……」
 ようやく彼女は自身の姿を思い出したようだった。その姿で再び外に出たら忽ち凍え死んでしまう事だろう。
「それじゃあついでに靴下と手袋とマフラーと帽子、それから耳当てもあったら貸して。あとサンダルじゃなくてスポーツシューズで」
 彼女は遠慮と言う言葉をご存知無い様であった。

********************

 私は甘い人間だと自覚せざるを得なかった。母が海外へ出掛けていなければここまででは無かったと思うのだが、結局私は赤瀬さんの注文した防寒具と靴を全て貸し出してしまったのだ。
 しんとした玄関から私達は暁の空へ飛び出した。二月といえば恐らく最も冷え込む時期だ。そしてこの時間帯が一日で最も冷え込む時間と言っても良いだろう。比較的温暖なこの地域であるが、連日氷点下が続いている。
 吐く息の全てが白に変換され、靄となって空気に漂った。その空気とやらは、どうも顔にぶつかると痛みを伴うらしい。眼を瞑っても瞼が氷点下の空気に晒され、凍ってしまいそうだった。
「運動不足、早く!」
 赤瀬さんが急かすが、曰く運動音痴の私は毎分一メートルずつ引き離されてゆくので精一杯であった。私は自他共に認める運動音痴で、彼女は女子でも屈指の脚力を持つ帰宅部のエースなのだ。しかも道のりは平坦ではなく、文字通り上り坂である。運動など殆ど行わない私にとって、この状況下一分間で一メートルしか引き離されていないというのは快挙の類に入る。もっとも、赤瀬さんは本気の十分の一程度のスピードしか出していないのだろうが。
 長い、長い上り坂は続く。この坂は俗に『心臓破りの坂』とも呼ばれている。一般人が歩ききるだけで息が上がってしまう事から名付けられたようだ。その坂を慢性の運動不足である私が駆け上っている。心臓は既に引き裂かれている様に感じられる。それほど私は疲弊しきっていた。
「あともう少し!」
 前方から彼女の声が聞こえた。辛うじて頭を坂に沿って見上げると、確かに坂の終わり――道と空との境界線――が見えた。
 しかし、私にはもう限界が来ていた。今来たのではなく、もう随分と昔の話になる。一歩進むのでさえ奇跡的であった。次の一歩で私は倒れてしまうかもしれない。これ程全力で走った事は無かった為、一秒先の未来も予測不可能であった。次の一歩、次の一歩――。私は、奇跡を何回も、何十回も味わった。そして――、
「おつかれ!」
 気が付くと、私は坂の終わりにある駐車場で大の字になっていた。赤瀬さんが私を覗き込むようにして笑みを漏らし、その背後に淡い青みがかった空が見える。
「アンタ、意外と根性あんのね。おかげで間に合ったわ」
 もう街灯の光に頼らなくとも赤瀬さんの表情が判る様になっていた。
「ほら、立ったほうが回復早いわよ」
 呼吸さえままならぬ私に赤瀬さんが手を差し伸べていた。
「む、そうなのか?」
 私は彼女の手を取った。走ったからなのか、赤瀬さんの手は真赤になり汗が細かく滲んでいた。
「アンタ、そういう知識はないのね」
 馬鹿にされるが、何故か気にならなかった。気になる程の余裕が無かった。赤瀬さんは私に構う余裕があるというのに。全く、だから私は自分の存在を否定したくなるのだ。
「ほら、深呼吸深呼吸」
 私は言われた通り深呼吸した。冷たい気流が気管に入り、私は噎せた。赤瀬さんに笑われたが、仕方が無いと思った。今度はゆっくりと息を吸う。冷えた空気が肺の中で少しずつ温まってゆく。この温もりは恐らく私の血を流れていた二酸化炭素なのだろう。複雑な心境で、温もりを吐きだした。
 しばらくして、ようやく呼吸が納まった。今、私は丘の頂にある駐車場に立っていた。一本の――どちらへ行っても下り坂の――道を挟んで住宅街が広がっていた。私が生まれる少し前に開発は終わり、所々寂れているようにも思えるし、単純に眠っているだけの様にも思える。
「こんな所に何があるというのだ」
 私は赤瀬さんに問うた。
「ここにはなーんもないわよ」
「無い……?」
 それならば、私達は何の為にここまで走ったのだろうか? しかし、赤瀬さんは首を横に振った。
「ここにはないけど、でもほら、あそこにはあるわ」
 赤瀬さんは私の向く方とは真逆を指差した。駐車場があり、金網があり、その下に私達の住む町があり、関東平野が広がり、その果てに生える微生物の様なビル群の頭上からこちらに伸びる幾筋もの雲があった。
「……空、か?」
「うーん、おしい」
 彼女の指先は空ではなく、正確には地と空の境を指していた。
「お日さまよ」
 赤瀬さんの人差し指の先を中心に、空は白くなっていた。もう星は役目を終え、輝きを失い、代わりにその巨大な空の光が少しずつ闇夜を掻き消していた。
 地平線に続く山脈の様な雲の輪郭は橙に……いや、私の眼には黄金に映った。
「ほら、もうそろそろだよ」
 赤瀬さんは私の腕を取り、フェンスまで連れていった。下は民家の屋根で、そこから丘を下る様に屋根が空との境界にまで続いていた。
「そろそろとは、どういう意味だ?」
「とぼけないでよ」
「いや、しかし……」
 赤瀬さんの方を見ると、彼女は慌てたように私の肩を叩き、そして地平線を思いきり指差した。
「ほら、見て見て! 早く早く!」
 そう急かさずとも……私はゆっくりと地平へと視線を移した。
「あ……」
 途端に私は言葉を失った。
 雲と大地の線上から、小豆より小さな光の種が現れた。
 それはどんなゼラチンよりも柔らかく、どんなルビーよりも光に輝き、どんな清水よりも透き通っていた。
 その光を見るのは初めてだった。同じ成分の光は見飽きるほど見たが、それは消炭とダイヤモンドの様に違っていた。
 光は私の身体の隅々を照らし、包み込み、そして過ぎ去ってゆく。
 いや、私だけではない。世界中がこの光に照らされているのだ。
 平野は一斉に目を覚まし、影が生まれ、金網にも、駐車ブロックにも、勿論私や赤瀬さんの後ろにも、うっすらと長い影が伸びる。
 筋雲に濃淡が生まれ、どの雲の先も僅かに赤く染まり、世界は幻想に包まれた。
 そして、前には黄金に輝く根源の珠がゆっくりと昇るのだった。
「ケンカ、したんだ」
 隣からの声に、私は横を向いた。赤瀬さんはじっと朝陽を見つめ、帽子とマフラーから垣間見える横顔は赤く染まっていた。
「夕ご飯さ、お母さんにお鍋がいいって言ったのにおでんが出てきちゃって、それで。バカみたいでしょ?」
 赤瀬さんは朝陽の先にある何かを見ている様だった。私の想像出来ない様な、先の先を。
「それでさ、お父さんがそんなのどっちでもいいだろって言って、お母さんが反論しちゃって……ほんと、どうでもいいことなのにさ。それから昔のこと言い草にして、収集つかなくさせちゃうの。バッカじゃないのって思うわよね? いつもお父さんが正論言うから、お母さん劣勢になるんだけどね、そうするとこっちに飛び火させようとするの。大体アンタは毎日夜遅くまでテレビ見て……って。ウンザリしちゃって、おフロ入ったらすぐ寝ちゃった。でも、ケンカはまだ続いてて、いつものことなんだけど、明日まで続いてたらって思うとやんなっちゃって……。部屋二階だからさ、窓から飛び降りちゃったの。あ、死にたかったわけじゃないよ? 逃げたかっただけ。寒くて、すぐ後悔しちゃったし、アンタの家知ってても部屋がどこにあるかまでは知らなかったし……」
 殆ど独り言の様なものだった。私は何も言い出せずに、ただ赤瀬さんの横顔を見つめていた。
「二人とも、まだケンカしてるのかな……?」
「今、少し羨ましく感じた」
 呟くと、遠くを見つめていた赤瀬さんが突然私の方を向いた。
「ハァ? 何言っちゃってんの? 今ので羨ましく感じる部分があるワケ?」
「大体、全部だ」
 私は正直に答えた。
「私は今まで、鍋もおでんも食べた覚えは無い」
「だからって羨ましい?」
「羨ましいとも。鍋もおでんも、一人で食べる様な料理では無いからな」
「え……?」
 彼女は理解出来ていない様であった。
「私は、家族揃って飯を食べた覚えが無いのだよ。父は朝早く出て夜遅くに帰る。母は度々出張でいなくなる。朝は作り置き、夜は自炊。だから、わざわざ鍋の様な物を作る意味が無いのだ」
「そっか……ごめん」
 赤瀬さんは俯いた。私は戸惑った。こんな彼女の姿を見た事が無かったからだ。私はどう言葉を掛ければ良いか迷った。
「だから、私は赤瀬さんが羨ましいと思った。特に今の生活に憂愁している訳では無い」
 言葉を選んだ結果、この一言を述べるに至った。
 太陽は昇ってゆく。私はこの風景を見た事が無かった。今までずっと、机にしがみ付き、勉学をすれば、耐えれば変わってゆくのだと躍起になって鉛筆を走らせていた。だが一歩外に出ただけで、教科書にも参考書にも載っておらず、ましてや学校の先生にも教わらない様なものを知る事が出来るのだ。そして、私という存在が如何に小さな存在であるのかを実感させられた。巨大なビルの一本一本ですらあの丸い光に包まれてしまっているというのに。
 赤瀬さんは、この事を昔から知っている様であった。最低でも、何も知らなかった私からはそう思えた。
「……アンタのほうが羨ましいわよ」
 赤瀬さんは俯いたままであった。
「どうしてそう思う?」
「アンタには意志があるじゃない。強い強い意志。まっすぐに成し遂げようって思える意志。よくはわかんないけど、なんにもないよりかはずっとずっとすごいと思う」
 赤瀬さんの語勢は弱かった。しかし、私にとっては酷く心に突き刺さる言葉だった。
「私に意志など無い……。もう、私にはどうしようもないのだ。私は、自身の行いに矛盾が生じていた。それに気付かぬまま今までを無下に過ごしていたのだよ。宮澤先生の様な人間を目指していたのに、いつの間にか先生の理念に背いてしまっていた……。もう、私は駄目なのかもしれないな」
 私は弱い人間だ。羨ましいと言われただけで簡単に他人に弱みを見せる人間なのだから。ちっぽけな人間だからこそ、この様なものを抱えるのだろう。心に開いた穴を埋めようとしてもがいている。
「……くっ」
 何かが聞こえた。ちょうど、赤瀬さんがいる所からだ。彼女は未だに俯いている。だが先程と違うのは、肩が小刻みに上下している点だ。
「……くく、ふ、ふふ」
 私は首を傾げた。そして、しばしその姿を眺め、ある仮説を打ち立てた。
「赤瀬さん、まさか、笑っている――」
「くっ、プーッ! あは、あははははははっ!」
 赤瀬さんが大声を出して笑った。その声は空にまで届き、吸い込まれていった。
「わ、笑うとは何事か。私は真剣なのだぞ」
「し、真剣って、アンタ、ホントにお母さんとお父さんのケンカくらいどーでもいいこと考えてるのね!」
 どうでもいい。その一言に、私の中の何かが溶け出してゆく様な気分を味わった。
「アンタさ、これ見て何感じたワケ?」
 赤瀬さんは親指で橙に輝く空と朝陽を指した。
「……美しいと、これ以上無い程感じた」
「でしょ? どーせアンタ、一度も日の出見たことなかったんじゃないの?」
「その通りだ」
「やっぱり。アンタはね、先生先生言ってるけど、素晴らしい考え持った人は宮崎さん以外にもたくさんいるのよ?」
「宮澤先生だ。それに、あの先生を超えるような先生はいない」
 言い返すと、赤瀬さんは盛大な溜息を吐いた。こんなに長い溜息を見るのは初めてだ。
「アンタねえ……。その人以外の本、読んでないんじゃないの?」
「読んだ覚えが無い」
 素直に答えると、赤瀬さんはぎらりと目を光らせ、私に迫ってきた。
「だからアンタの世界は狭いって言ってんの! いい? アンタは殻にこもってばっかで届くもんにも手伸ばしてないの! 私が引っ張りださなかったら、こんなきれいな日の出だって知らないままだったでしょ? 精神? 生きる糧? そんなもん知ったこっちゃないけど、こうして感動するほうがよっぽど人間らしいじゃない!」
 目と鼻の先に赤瀬さんがいた。前髪は目に掛らない程度、瞼は二重で大きい印象があり、眉を顰めて私を凝視している。唇は固く閉ざされ、頬は僅かに膨らんでいる。感情は、簡潔に区分するならば『怒』だろう。
「しかし……それならば、私の今まではどうすれば良い? ずっと慕ってきた先生の教えは……」
「不器用ねえ……。執着しなくていーの。今までやってきたことは続ければいいし、その中で宮崎さんの言ってることもちょびっと取り入れてみればいいじゃない。人間だもん。同じ人間にはなれないと思うし、だからこそアンタはアンタらしくすればいいと思うわ」
「私……らしく」
 先生の意見に固執し、気が付けばそれから脱却していた私。赤瀬さんに振り回され続けた私。朝陽を見て、感動を覚えた私。
 それが、私らしい私。
 それで良い。それで良いのだろうか。
 ……それでも良いのだろう。きっと、私の世界は戸の閉まった一室だけであったのだ。本来は、こんなにも明るく、広いのだ。世界というものは。
「ま、それはそれとして……」
 赤瀬さんは大きく背伸びをした。そして、再度面と向かって見つめられる。
「自分のこと『私』って呼ぶの、やめなさいよね」
 赤瀬さんは笑った。朝陽に輝いて、ふと私は赤瀬さんのその姿に感動を覚えた。彼女の白い息が私に降りかかる。私の胸の空洞に何かがひかれてゆく気持ちがした。赤瀬さんは笑顔のとても似合う人であった。
「……考えておこう」
 私はそう答えた。あら、素直ね、と意外そうな顔をされたが、私は特に変な心地はしなかった。
 赤瀬さんの言う通り、手を伸ばせば届く所に幸せはあるのだ。

********************

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  ヨクワライ
  決シテ泣カセズ
  イツモシズカニトナリニイル
  一日ニ玄米四合ト
  貴女ノツクッタ料理ヲタベ
  アラユルコトヲ
  マナビケイケンシテユキ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ丘ノ頂ノ
  小サナ家ニイテ
  東ニ大キナ都市アレバ
  行ッテ迫力ニコトバヲウシナイ
  西ニ緑アル山アレバ
  行ッテトリノ声ニ耳ヲ傾ケ
  南ニ広ガル海アレバ
  行ッテサザナミヲナガメメヲトジ
  北ニシロクツモルユキアレバ
  ヒエタテサキヲニギリシメテ
  ソトニトビダシテココロヲオドラセ
  ウチニイレバトモニナベヲカコンデ
  チイサナシアワセダケデイイカラ
  ホメラレナクテイイ
  アナタノエガオニツラレテワラウ
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ


終幕
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

じょがぁへのお便りは
  こちらからどうぞ。

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。