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ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。


 バイトを終えたその足で水の苑地まで走る。今日は久々に温かい夜で星がよく見えたのだが、そんなものを見る暇もなかった。
 時刻は八時半を過ぎていた。バイトが少し長引いてしまったのだ。親方に無理言って早めに上がらせてもらったのはいいのだが、それでも定刻に間に合うことなく、ようやく辿り着いたわけだ。
「遅いぞ、穂枝」
 大瀬崎を含めた全員が集まっていた。
 若い芝が生え、滝の音に包まれている公園のはずなのに、なぜか不気味な沈黙が立方体をした灯篭のようなものと一緒に芝の広場を囲んでいる。
 遅くなった、と詫びる。その時に暗がりから浮かんだ大瀬崎の格好を見て息を呑んだ。
 どうしてこいつ、サイクリングの格好をしているんだ? 赤と白が際立つ半袖のアタックジャージを着、黒のショーツを穿いている。パイロットのように脇で抱え持つものはヘルメット――ではなく、なぜかバスケットボールであった。
「おい、なんだよそのボールは」
 まさかそれを白渚に投げつけ、痛めつけるほどお前は卑怯な野郎じゃないだろうな?
「今から俺は、白渚慶二にバスケの決闘を申し込む!」
 鋭く突きつけられた大瀬崎の人差し指が白渚を貫いた。バスケ? てっきり殴り合いかと思ってたぞ。
「白渚には夕方伝えたとおり、勝ったら負けた奴に一度だけ絶対命令をする権利を得る、それでいいな?」
「もちろん。だから僕はここにいるんだよ」
 気さくな返事をする白渚。大瀬崎が勝ったのなら、今後も大室と仲良くしていくから干渉するな、という命令を白渚にするのだろう。そして、白渚が勝ったらオレたちは追放される格好の道具として用いられるのだろうな。
 しかし……その手段としてバスケをするだと? 確かに大瀬崎の運動神経からいえば優勢だろう。だが、白渚の腕に関しては未知数だ。正々堂々と勝負することにした大瀬崎には感心するが、白渚が元(あるいは現役)バスケ部だったとしたら、いくら大瀬崎でも勝てるかどうか怪しくなる。
 それを知ってか知らずか、大瀬崎は頷いた。
「ルールは二十五得点した方が勝ちってことと一チームの人数は二人ってこと以外は公式ルールに則る。これでいいな?」
 一対一だとほぼ追いかけっこ状態になり、三対三だと大室のいるチームがどうしても不利になるからだろう。白渚もその意味を理解したようで、伊東をチームに加える。
「俺は助っ人として穂枝を起用する!」
「いや、オレは遠慮しておく」
 オレはそう言うことに決めていた。
「な、なんでだよ! お前、寝返ったのかっ!」
 寝返ったって、この状況下、どうやれば白渚の味方になれるんだよ。
「そうじゃない。相手が伊東で味方がオレってのは相手が不利になるだろ?」
「別に統流っちがそっちでもいいよ?」
 独り言のように白渚が呟いた。
 この余裕、どこからやってきている? だが、オレにはもう一つの理由があるから試合に参加したくなかった。だから、理屈に適ったような屁理屈を言った。
「お前がよくても、大瀬崎はそんな卑怯なマネしたくないんじゃないのか?」
 チラ、と大瀬崎を見る。豆鉄砲を食らった鳩のようだったが、すぐに我に返った。
「そ、そうだな。男女ペアなら男女ペアで勝負だ。奏、頼む」
「なんで私が……」
 重そうな腰を上げるが、すぐに腕を伸ばし始める。満更嫌でもなさそうだ。きっと、奏は奏で、白渚の行動に疑問のようなものを抱いているからだ。そうでなかったら、あんな真剣な顔をしない。
 そして、オレたちは苑地の奥(神子元邸方面)にあるコートへ移動した。広場よりもさらに暗い場所で、ボールさえ追える状況じゃなかったが、大瀬崎は何も言わなかったし、他のみんなも同様だった。個々にストレッチやらシュートやらをしてウォーミングアップをすると、両チームはコートの真ん中に整列した。
「いいか、オレはバスケに詳しくないから、審判は互いの判断に任せるからな」
 ジャンプボールのボールを投げる役を任されたオレは、そう一言言った。それは本当のことだったが、審判をやらない理由としては不適切だな。
 そっとボールを夜空へと解き放つ。
 オレは、大室ともう一度話したかったのだ。
 少しだけでいい、一方的に話してしまうことになっても構わない。そのあとで白渚に怒られてもいい。それでも伝えたいことがあった。
 大室の方から白渚を説得できないものかと。
 試合は、ボールが大瀬崎の指先に触れ、一気に動き出した。落下地点に構えていた奏が白渚の脇を潜り抜ける。速攻を仕掛ける気だ。だが、伊東がスリーポイントラインで待ち受ける。奏は立ち止まってしまった。が、伊東の背後に潜んでいた大瀬崎がパスを求めている。ちらとその方向を見た。が、その『ちら』が命取りだった。奏がボールを投げた途端に伊東がそれを阻止したのだ。
「奏は正直者ですね」
 伊東は見えていたというのか? 闇夜の中だというのに……。
 それから伊東がお返しとばかりにコートを駆け抜ける。二人が後ろにいる今、コートは伊東の独壇場だった。ツーポイントエリアを過ぎる。そのままレイアップをすれば確実に入るところまで差し迫った……のだが、伊東は急停止した。そしてスリーポイントラインギリギリの場所に立つ白渚にパスを送る。伊東を追いかけていた二人は予想外の行動に対応できず、白渚のシュートを止めることはできない。無防備の白渚がそっとシュートを放った。入る。
「ナイシュー!」
「ありがとうございます」
 伊東と白渚がハイタッチする。
「まだまだこれからよ」
「おうっ!」
 奏からのボールを大瀬崎は受け取り、試合が再開された。
 三対〇。白渚のロングシュートと伊東のスピードとが相まって大瀬崎と奏はかなりの苦戦を要されることになるだろう。
 オレも観客席に戻るとするか。
 大室の隣に腰掛ける。大室はそわそわと白渚のあとを目で追いかけていた。
「大室は、白渚に勝ってもらいたいのか?」
 前触れなく言ったからか、大室は硬直した。だが、すぐに力を緩めると、首をふるふると『横に』振った。
「……お?」
 大室が首を横に振った? ということは、つまり否定をした、ということを表している。何に対して否定したのか、それは状況から考えるにオレの問いにというのが常識的に正しい。で、オレの問いというのは『白渚に勝ってもらいたいか』というものだ。つまり、それの否定というのは『白渚に勝ってもらいたくない』というわけで、言い換えれば『大瀬崎に勝ってほしい』ということになる。
 大室が、だぞ?
 白渚の彼女である大室が、どうして大瀬崎の勝利を望む?
 もしかしたら、大室はオレたちの知らないところで束縛されているのか? そして、大瀬崎に解放を望んでいるのか?
「白渚が負けるところをみたいのか?」
 遠回しに訊いてみるが、慣れないことはしないものだ。この言い方は少しひどいと思う。つか、遠回しになってないよな。
 ……ふるるっ。首を、今度は全力で横に振った。
 強い否定。じゃあどういうことだ? 大室は白渚に縛られているわけではない? 最悪縛られていても、大室はそれを酷としていない? なのに大瀬崎に勝ってほしいのかよ……。ワケがわからん。
「じゃあどうしたいんだよ」
 投げやりだった。
 どうせ大室は何も言わないんだろうからな。
 この謎も大室の心の中で渦巻いて、それで消え去っていくのだろう。
「……かも」
 さすがにイライラしてくる。大室の無口ぶりには。
 無口ぶりには……。
 ……ん?
 今、オレ以外の誰かの声がしたぞ。しかも、コートの掛け声のような強く鋭いものではない。ずっとやわらかく、あたたかく、そよ風で掻き消えてしまいそうな、小さな小さな声が、隣から聞こえた。
「トベルくんと、一緒にいたいから……かも」
 今度はちゃんと聞こえた。頭の中で何かが弾け飛び、オレはとっさに大室を見た。
 大室はすでにオレを見ていた。
「ケイジくんに負けてほしくないけど、トベルくんと会えなくなっちゃう……と思うから」
 もう一度。
 もう間違いはない。大室が、喋っている。オレ向けて、耳打ちもせずに、オレに喋りかけている!
「そう、か」
 オレは隠しきれない戸惑いを精一杯隠しつつ、相槌を打った。実を言うと、相槌しか打てなかった。言葉が出なかったんだ。
 やりきれずにコートへと視線を逃がした。伊東が大瀬崎のパスをカットをし、そのあとコートをぶった切るように駆け巡る。伊東の守りから攻めへの切り替えといい、重心といい、反射神経といい、他とはずば抜けて優れている。
 それなのに――、
「白渚君、パスです!」
 追いかける大瀬崎をあざむくかのようにバウンドさせて白渚にパスを送る。伊東はなぜかシュートを打たなかった。何度目だろうか、白渚のジャンプショットがゴールの枠にあたり、リバウンドを奏が受け取る。
 どうしてだ? 今のは伊東が打てば確実に入ったのに、どうして白渚にボールを送るんだ? 遠くからのシュートなんて必ず入るわけでもないのに……。
「うらぁ!」
 大瀬崎がレイアップを決める。これで六対六。同点だ。
 さて、こうしている間に、オレと大室の間では会話がないわけだ。でも、もうそれでもいいような気がした。
 話せたんだ。最後の最後で、オレは大室と話すことができたんだから。
「えと……えと、トベルくんは、どう、かも?」
 しかもあの大室は会話を続行させるのだ。つい数十秒前までは一言も口を開かなかった大室が、自らの意志で。
「ど、どっちが勝ってくれるといい……かな?」
 恐るおそる、傷口に触れるように。勇気がいるだろう。オレなら平然と聞けるようなことでも、大室にとっては好きな人に告白をするくらいの勇気が必要なはずだ。
 答えなきゃいけない。なんだか頭が麻痺しているようで、気の利いたことが言えないような感覚がするが、それでもだ。
「オ、オレか? オレもお前の友達をやっていきたいよ。だから、白渚には悪いけど大瀬崎が勝ってほしいな」
 奏がガッツポーズをしている。奏が得点を入れたようだ。
 大室がやわらかく微笑む。
「ともだち……」
 大室が呟いた。ゆっくりとしているが、オレのお袋のような間延びてはいない。癒しの呪文を耳にしているようだった。
「わたしね、ずっとずっとね、ひとりきりだった……と思うの」
 パスだ、シュートだ、という声に吹き飛ばされそうなほどの小声だったが、オレは一言一言を噛み締めるようにして聞いた。
「独りきり? 白渚は?」
「ケイジくんは特別……かも」
 かも、ねえ。
「わたしね、長い間、『ともだち』がいなかった……と思うの」
 大室は夜空を見上げていた。ちりばめられた星屑。星座は詳しくないのでわからないが、輝く星の一つひとつに名前が付けられてるんだろうな……。
「きっと、わたしがなんにも話さなかったから……かも」
 昔のことを思い出すようにして、そう言った。
 大室はよく喋っていた。意外ではあったが、話さないのと口数が少ないのは違うものなのかもしれない。
「だからね、昨日トベルくんが『ともだち』って言ってくれたの、うれしかった……かも」
 昨日……そうだ、大室がゴミを抱えていたあのときだ。言った、確かに言った。だが、何気すぎる。
『これからはオレを頼れよ。友達なんだから』
 こうは言ったが、注目すべきは前の一文だろ?
 気になって仕方がない。まあ、それ以上に気になることがあるワケだが。
「……かも?」
 さっきから不確かな断定ばかりじゃないか。
「う、ううんっ!」
 あわあわと手と首を横に振る大室がたどたどしくて少し笑える。
「うれしかった、とってもうれしかったよ……うん」
 次第にボリュームが絞られていく。でも、嬉しい気持ちはちゃんとあるのはわかった。どうやら言ったことを曖昧にするクセがあるようだ。あまり話し慣れておらず、自信がない表れなのだろうか。ま、特に気にしないようにするかな。
「あの、あのね、『ともだち』って言ってくれたの、トベルくんが二番目……のはず、かも」
「最初は伊東か?」
 ふるふると否定をする。
「中学生の時に知り合った子」
「へえ」
 大室の中学時代か……。白渚と付き合い始めたのが中二だって伊東が言ってたな。
 その伊東のチームが湧く。得点が入ったようだ。どうやら……白渚が二点決めたようだ。
「……トベルくん」
 また大室が話しかけてきた。
 大室って友達には積極的なのな。
「なんだ?」
「その……聞きたい、かな?」
「聞きたい?」
 少し考えてみる。
「最初の友達のことか?」
 ……こくん。正しかったみたいだ。
「そりゃ、言ってくれるんなら聞きたいけど、いいのか?」
 ……こくん。また頷く。
「トベルくんは『ともだち』だもん」
 大室は恥ずかしそうに笑った。いや、嬉しそう、の間違いだな。いつも、こんなきれいな笑顔を白渚に見せてるんだな、大室は。
「えと……あれはね、わたしが中学一年生だった頃のお話……かも」
 大室の話が始まる。


 大室に言わせれば、新しい環境に放られた人間は、出だしにつまずくと孤立してしまうらしい。特に大室のようなおとなしい子だと顕著に見られるのかもしれない。とにかく、大室は入学早々一人でいることが多かった。だが、孤独が好きなわけではなく、いつしか友達というものを作りたい、と思っていた。ただそれだけの勇気がなかっただけで。
 しかし、ついに声をかけることができず、また声をかけられることもなく、友達は一人もできずに夏休みを迎えてしまったのだった。
 そして、友達はそんな寂しい夏休みに出会うことになる。自由研究の材料を買いに行った帰りのことだった。暑さの残る夕方、大室は誰かが道端に倒れてしまっているのを見つけた。
 道端に人? そんなまさか、と普通の人ならまずウソだと疑うだろう。だが、ウソなんかじゃない。現にオレはその経験をしているんだからな。しかも、倒れていた理由が喘息だというのだから、オレの件よりよっぽと信憑性がある。
 喘息といえば今日の昼の光景が目に浮かぶわけだが、大室は当時から喘息を持っていたらしい。しかも頻繁に起こしていたため、スプレー式の吸入剤を携帯していたらしく、倒れていたその子の背中をさすりながら使わせてあげたそうだ。
「でも……その子が大人の人だったら、わたし、怖くて逃げてた……かも」
「へえ。それじゃあそいつは子どもだったのか」
 こくん、と頷く。
 その子は当時の大室とさほど年齢の変わらなさそうな、フリルのワンピースを着た金髪碧眼の女の子であった。
「って、ちょっと待て! 金髪碧眼って、外人さんかよ!」
 こくり、と大室は頷いた。
「とっても日本語がうまくて、きれいで、とってもお上品な子だった……かも」
「あー、そういうことじゃなくてだな……」
 大室の覚えたての英語ではどうすることもできず、徐々にカタコトな日本語を使うようになってしまい、最終的には黙り込んでしまった。
『日本語で大丈夫ですわよ』
 金髪の少女の一言に、大室は大きな安堵と驚愕を抱いたという。当時の大室は、西洋人が日本語を話す姿を想像できなかったのと、少女の日本語があまりにも流暢だったからだ。
 それから、喘息の話で盛り上がったそうだ。珍しい話題かもしれないが、友達が欲しかった大室と、異国の地で一人倒れていた少女にとって、打ち解けるには十分すぎる話題だった。
 それから、転んだときに擦ったのか、黒いワンピースが破れていることに気付いた大室は家に戻って修繕を親に頼んだ。
 その間、色々なお菓子を食べながらたくさんの話をした。何を話したかは忘れてしまったが、とても楽しかったことは思い出に残っている。
 少女の名前はミナトで、苗字は長くて忘れてしまったらしい。だが、ミナトが日本人とドイツ人のクォーターで、この夏に一人だけで祖母の住む日本へやってきたことを教えてくれた。
 なるほど、じゃあ大室の読んでいる本はドイツの本なのかもしれないな。
 ワンピースが直り、その日は別れた。
 それからミナトとよく会うようになった。通っていた小学校。通学路にある公園。図書館。大室の知っている場所を全部案内してあげた。
「ミナちゃんはね、とっても頭がよかったの。わたしの知らない世界をたくさん知ってて、わたしにも教えてくれた……と思うの」
 ミナトの語る話は世界の話だった。とりわけ未来の話で、どれもが新鮮かつ希望に溢れていた。
「未来、ね」
 オレが口を挟む。
「どうしたの……かな?」
「いや、まあ、なんだ。未来の世界の夢を見るんだ。同じ夢ばっか見るんだが、そのミナトって奴ならなんか知ってんのかなって」
 一度会ってみたい。なんてことを思った。
「知ってる……かも」
「え?」
「あっ! なんでもないっ……かも!」
 大きく首を横に振り、話を元に戻す。
 ミナトの話に感動した当時の大室は、ある日の夕食でその話を両親にした。
 すると、両親はそれぞれに言った。
『その子とあまり関わりを持たない方がいいわ』
『へんてこりんな考えがいずみにも染みついてしまったら大変だ!』
 きっと、親はそれを怪しい勧誘か何かと間違えてしまったのだろう。だが、まだ幼い大室はそんなことを理解できるわけもなく、必死に訴え続けた。言えば言うほど親の疑念が深まることも知らずに。
『お母さんもお父さんも信じてくれなかったです……』
 あくる日、大室はミナトも小声で言った。すると、ミナトは平然と答えてくれた。
『別に、誰が信じてほしい、だなんて言ったのかしら? わたくしの言ったお話は、この国特有のありがたき神様が仰せられたお言葉を載せた聖典を丸暗唱すれば救われるような新興宗教ではありませんのよ? そのような文化を否定するわけではありませんが、わたくしは神々の教えではなく事実を述べたまでですわ。信じるも信じないも貴女の勝手ですわよ』
 その言葉はとても自信に満ち溢れていたという。中一前後の女の子がすでに大人の事情、しかも異国の地のを知ってしまっているとはな……。
 ミナトには度々外せない用事があったが、その日以外はほぼ毎日二人で遊んでいた。大室は親に夏休みの宿題のため、というウソ――それが初めてだった――を吐いてまで会っていた。はしゃぎすぎて、ときには二人で喘息になってしまうこともあったが、大室は今まで感じたことのない至福の時であった。
 だが、そんな日々がいつまでも続くことは、なかった。
 ある真夏日のことだった。ミナトが突然喘息を起こし、公園で倒れてしまったのだ。
 すぐさまスプレーを渡すが、何度も使ったために薬はとうに切らしてしまっていた。慌てた大室は公衆電話から救急車を呼ぶことにした。
 背伸びをして受話器を取り、十円を入れる。
 だが、大室は知らなかったのだ。救急車はどこに掛ければやってくるのかを。無理もない。消防署に掛けなくちゃいけないだなんて、知識がなくちゃわかるはずがないだろうしな。電話を諦めて家まで戻り、家事をしている母親に助けを求めようとも思った。けれども、玄関の前で足がすくんでしまった。母親にミナトと遊んでいたことがバレてしまったら怒られる……。その恐怖に震えたのだ。
 どうしようもなく、せめて背中をさすってやるくらいは……と公園へと走った。
 しかし、そこにミナトの姿はなかった。
 誰かが助けてくれた……? いや、誘拐されたのでは……?
 さまざまな思考が頭を巡り、溶かしていく。
 脳内の鍋をかき混ぜていくうちに、カルメ焼きのように膨れ出来上がる後悔の気持ち。
「そのあと、わたしも喘息になった……と思うの」
 懸命に微笑む大室の顔には、今もなおその傷がわかるほどだった。
 それを最後に、ミナトと会うことはなかった。
 いつしか、別れが来る。
 別れがこれほどまで苦しいとは。
 息が詰まるほど、苦しい。
 こんなものはたくさんだ。味わいたくない。
 ならいっそ、友達なんていらない。
 言葉を交わすから、友達ができるんだ。
 それに、わたしは人に物事を伝えることができない。
 ミナトの話を親にしたとき、わかった。
 なら、もう言葉もいらない。
 人と話さない。
 だから、大室は無口になったのだった。
 それから『世界』を知ることができればミナトにもう一度会えるかもしれない。そう思った大室は『世界』を知るためにたくさんの本を読んだ。わからないことばかりだったから、授業も頑張って受けた。世界中の本を読み漁った。だが、どんなに優秀になっても、どんなに幅広い知識を得ようと、ミナトには会えない。だからもっと勉強をする。周り人は『世界』の話を信用してくれないから話さない。何も話さない。両親や先生も例外ではなかった。
 その状態をなんと呼ばれるのか大室は知っていた。
 大室は『孤独』の中を生きていた。
 すでにクラスから一目置かれ、ちょっかいを出されるのならまだしも、大室の場合は畏怖の目で見られてしまっていた。
 大室は寂しかった。本当の孤独の辛さを知ったから。
 誰かとの関わりが欲しい。だがもうそれは手遅れの話で、気付いたら二年生になっていた。大室の噂はもはや学校全体に広がっていた。一生わかり合える人になんて会えないんだ……そう、大室は絶望しかけていた。
「そんなときに、ケイジくんと出会ったの」
 大室が伊東にハイタッチする白渚をそっと見つめた。
「こんなわたしなのに、ケイジくんは気軽に話しかけてくれたの」
 だが、当時の大室はなかなか口を開けなかった。白渚が大室に気があると知っていながら、言葉を発することができなかったのだ。……いや、気があるからこそなのかもしれない。一言でも話したら仲良くなってしまう。仲良くなったら、別れが来てしまう。別れが怖かった。その恐怖に怯えていた。
「でもね、ケイジくん、言ってくれたの」
 それは、東から真赤な陽が顔を見せるように、ヒビ割れた大地に潤いがもたらされるように、大室の表情がふっとやわらかくなった。
「『僕は、大室のことが好きだ。ずっと、ずっとキミと一緒にいる。絶対キミを守ってあげる』って……」
 その告白で、大室は呪縛から解き放たれた。白渚となら、ずっとずっと一緒にいられる。この人なら、心の底から信頼できる、と。こうして二人は付き合い始めたのだった。
「わたしね、ケイジくんのことが好き、なんだと思う。こんなわたしのこと……大切にしてくれるから。たまにわたしばっかしになって見境なくなっちゃうこともあるけど……。でもね、とってもやさしくしてくれるの。あったかくて……」
 大室は胸元を手で覆うようにして囁いた。その手の平にはたくさんの思い出が込められていることだろう。
 ふと、オレの方を向く。
「わたし、トベルくんのことも好きかもっ!」
「なっ!」
 それは突然のことで、どうすればいいのか、何をすればいいのかわからなかった。全身が熱くなり、汗が噴き出る。
「こんなわたしに『ともだち』だって言ってくれたから……。頼ってもいいよって言ってくれたから……かも」
 ああ。
 そうだよな。そりゃそうだよな。もしやとは思ったが、そんなのありえないよな。大室が本当に大好きなのは、白渚だけなんだから。
 白渚は『彼氏』で、オレは『友達』なんだよな。
 ま、それはそれでいいと思うし、オレもそれが一番だと思う。
「でもね……」
 大室は、語りの最後に呟いた。
「わたしね、まだミナちゃんのこと思い出すと、怖くてたまらない……と思うの」
 ちらり、とオレを見つめる。暗くてよく見えないが、少しだけ目が潤んでいるような気がした。
「だから、まだ『ともだち』は一人だけ……かも」
 ははあ、なるほど。
「わたし、臆病だから……」
 だから、オレにミナトの話をしてくれたのか。
「もしかしたら、トベルくんも――」
「オレはいなくなったりしない」
 大室のために、そしてオレ自身のためにもそう決心する。
「ミナトのように、何も言わずに去ることはなんかしない。仮に離れることがあっても、ずっとずっと、オレはお前の友達だ。ミナトがお前に話してくれた話、オレは信じるよ。みんなも信じてくれるさ。だって、オレたちは、大切なお前の、頼れる友達なんだからな」
「あ……」
 漏れ出すような吐息。
 大室の瞼に星のような粒が溜まっていく。
「トベ……くん」
 そして、その粒は静かに滴り落ちた。


 そのとき、オレは何かを見たような気がする。
 一際明るく光る星と星の間――そこから何かがゆっくりと落ちてくる。
 花びらか? いや、違う。もっと大きい。
 それじゃあ木の葉か? いや、そんなに硬いものじゃない。
 あれは……そう、羽根だ。
 白い白い羽根。
 揺り籠に揺られるように、静かにオレの胸元にまで降りてきた。
 それに触れようとした。
 だが、指先が揺れた瞬間、それは細かな粒子となって弾けとんだ。


 ボールの跳ねる音がする。
 そして、歓声が上がる。ふと我に返った。どうやら決着がついたようだ。
 勝ったのは……勝ったのはどっちだ?
「よし!」
「やりましたね!」
 その声は、その声は……。
「キミの素早い動きがあったおかげだよ」
「いいえ、あたしは全部アシストでしたから……」
 勝ったのは、白渚と伊東だった。



第十七話『翁の瞳の奥底に眠る其方』に続く

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