ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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   ◆

「あっ」
 一矢はその音を聞いて顔を上げ、拝殿前の石段をおりた。江智加はその行動にきょとんとしたが、屋外スピーカーから聞こえるぷつぷつ鳴る音を耳にして、ぱっとその顔が明るくなった。
「からす!」
 それは夕方五時半を知らせるメロディが始まる合図だった。曲が始まると一矢と江智加は声を揃えて歌いだす。

   かぁらぁすぅ、なぜ泣くのぉ?

「からすのかってでしょお」
「あー、それちがう!」
 一矢が癖のある髪を揺らしておどけてみせると、江智加は頬をふくらませた。
「からすは山に七つの子がいるんだよ! だからなくんだよ!」
「かってはかってだもーん!」
 二人の言い争いは、二番が始まると同時に気を付けに切り替わり、合唱が再開された。

   かわいー、かぁわいぃとからすはなくのぉ
   かわいー、かぁわいぃとなくんだよぅ

   やぁまぁのぉ、ふぅるすへぇ、いてみてごぉらぁんー
   まあるいめぇをぉしーたーいーいーこぅだよぉ

 これは二人だけが知ってる遊び時間終了の儀式だった。儀式が終わったら後片付けをして、神社に手を合わせ、帰り道を並んで歩く。
「ぼくたち、からすと同い年なのかな」
 砂利をならしながら一矢はつぶやいた。
「どうして?」
「だってぼく七つだもん。えちかちゃんも七つ。からすも七つ。なんか、へんなの」
 江智加は賽銭箱の脇に荷物を置いた。ビニールでできたオレンジのボール、竹の柄の虫取り網、それから透明プラスチックの虫かごだ。虫かごの中にはツチイナゴ一匹と葛の葉が少々入っている。昼過ぎに捕まえたクロアゲハは全部逃がしてしまった。
「それじゃあからすは、えちかたちのためにないてるの?」
 江智加の問いかけに、一矢は少しの間メガネの留め金をいじって考えた。
「わかんない」
「からすはなんで、かわいいっていってるのにないてるの?」
「わかんない」
「いちや、なーんもわかんないんだ!」
「えちかちゃんだって、あたまはいいのに、なーんもわかんないんだね!」
 江智加はまた顔をしかめる。風が夕方特有の涼しいものに変わった。神社の周りを囲うブナ林がガサガサと音を立てた。
「ねえ、早くおまいり、しようよぅ」
 江智加は石段の上で二三度跳ねた。
「わかってるって」
 一矢は階段を一段とばしでのぼって江智加の右に立った。二人一緒に鈴緒をしゃんしゃん揺らして手を二度たたく。
「あしたもいっしょにあそべますように!」
 たすん。
 お願いごとを言い終えたと同時に、二人の背後に何かが落ちた。生肉の塊が叩き落されたような音だった。江智加は手を合わせたまま一矢の顔を見た。その顔は引きつっていた。口がぽかりと開いている。少女も同様だった。二人は無言で頷いて、一緒に振り返った。
 拝殿と鳥居のちょうど真ん中あたり、苔生した石畳の上にそれはあった。まっ黒い、もさもさした何か。動いている。少年は小さな悲鳴を上げて江智加の背に隠れた。
「あ」
 江智加にはそれが鳥の影のように見えて、声を洩らした。一矢は身を縮ませた。少女は構わずに石段をおりた。
「あぶないよ」
 一矢の声があまりにも小さく弱々しかったので、江智加は聞こえないふりをして歩いていった。黒いものの前でしゃがみこむ。
 それは黒曜石のような色と艶の羽を光らせて石畳の上にたたずんでいた。桃色の口を見せ、目は深い瑠璃色をしている。
「からす、からすの子だよ!」
「からす?」
 石段の上にいる一矢は首をかしげて腕を組んだ。
「からす、からす……なぜからす?」
 その問いかけに少女はにんまりと笑った。
「からすからす、なぞなぞからす……」
 江智加は呪文のようにもぞもぞ唱えて、それから「あ」と声を洩らした。
「この子、ケガしてる!」
 拝殿前にいた一矢が駆けてくる。カラスの左胸の羽根は抜け落ちていて、赤くなった鳥肌が露わになっていた。
「おちちゃって、ケガしちゃったんだ」
 一矢の憶測に江智加は頷き、じっくりカラスの子を眺めた。歌にあるとおり、まあるい目をしていた。少女は胸の高鳴りを覚えた。ずっとその顔を眺めていたくなった。
「かわいそう」
 カラスを抱こうと手を伸ばす。カラスはおとなしく江智加の胸に収まった。かすかに震えていた。少女はじっと黒光りする翼を眺め、そして意を決したように一矢を見た。
「ねえ、この子たすけらんないかな?」
「たすける?」
「うん。だって、こんなにかわいいんだもん。ケガがなおるまで……かったり、とか」
「でも、えちかちゃんち、どうぶつかえないんでしょ?」
「うん。うち、アパートだから……」
 木々の揺れる音が大きくなる。少女は風の音が好きではなかった。心を許したら連れ去られそうな囁きに聞こえるのだ。そんななか、カラスの子は羽毛をかすかになびかせながら少年少女を交互に見た。
 ある案が江智加の心に浮かんだ。
「いちやのおうちなら、だいじょうぶでしょ?」
「え?」
「そうだよ、いちやのおうちで見ればいいんだよ!」
「まってよ。おとうさんとおかあさんにきいてみないと、わかんないよ」
「へーきへーき。えちかもてつだうから。えさやりでしょ、おそうじでしょ、それから……おさんぽ!」
「でもぅ」
 江智加にとって、一矢は自分自身だった。怖がりなくせに見栄っ張りで、朝に弱い。でも必ず朝ごはんを食べて学校へ行く。歯磨き粉はメロン味が好き。それくらい一矢のことを何でも知っていた。だから江智加の頼みを断れないことも、よく知っていたのだ。
「いちや、おねがい」
 少年はしばらくの間、うんうん唸りながらカラスとにらめっこしていた。十数秒後、顔を上げる。少女と目があったとき、少年はちょっぴり男らしい顔をしていた。
「うん、やってみる」
 江智加は一矢にカラスを受け渡した。

   烏 なぜ啼くの
   烏は山に
   可愛い七つの
   子があるからよ

   可愛 可愛と
   烏は啼くの
   可愛 可愛と
   啼くんだよ

   山の古巣へ
   行つて見て御覧
   丸い眼をした
   いい子だよ

   ◆

 こんこん。おはよー、こんこん。
 江智加の朝は、いつもこの音で始まる。五月の陽光がカーテン越しに注いでいる。目をこする。布団の中のぬくもりから脱するのは非常に困難ではあるけれども、毎朝の日課を疎かにすることはできない。なぜなら彼女にとってこれは彼との長く深いつながりを示す一つの根拠であるからだ。
 白いカーテンを開けた。
「おはよう、ナツ。待っててね」
 窓の先、ベランダに黒光りするカラスがたたずんでいた。時折くちばしで窓ガラスをつつく。
「はい、おはよーだぞ、おはよー」
 江智加が窓を開けると、カラスのナツは黒い目をくりくりさせて言った。
「今日は声変わりする前の一矢の声かあ。本日の運勢大吉なり」
 江智加はベッドの下に置いてある「ナツの」と書かれた木箱を取り出した。絵の具で模様が描かれているが、中身はミールワームと雑穀と夕飯の残りを混ぜこねたものである。
「うん、いまいくー」
 ナツはいただきますのかわりにそう言って箱に顔を突っ込んだ。
 カラスは人の言葉をしゃべる。九官鳥のように、教えれば話すようになるのだ。
 ナツは幼馴染だ。メスだから可愛い名前にしようと「ナツ」にした。「かわいいななつのこ」の「ナツ」だ。二人で遊びに出かけると、ひょこひょこはねて付いてきた。鷹狩のようにナツを腕に載せ、クヌギにひっついて鳴くセミをハンティングする遊びもした。いたずらをしたらちゃんと叱る。
 ナツは一矢か江智加以外の人間から与えられた餌は食べない。二人とその他の顔をちゃんと識別できるのだ。それだけじゃない、と江智加は思っている。ナツは言葉をちゃんと理解できると信じていた。長話をすると相槌を打つように首を上下させるのだ。だからそのうち自然な会話が成立するのではないかと、彼女はちょっぴり期待しているのであった。
 江智加はぼさぼさの長い黒髪を掻いた。机の上の置時計は六時三分をさしている。それを確認して窓の外の街並みをぼんやり眺める。
「あいつ、いつから起きてんだろ」
 夜になると一矢はナツを自分の部屋に入れ、朝が来ると窓を開けてナツを放す。だから一矢が起きていなければ、こうしてナツが江智加の元へ来ることもないのだ。
「ナツさん、聞いてくださいよ。わたくし江智加はですね、中三になってもう二ヶ月が経とうとしてるのに、なんとまだ四回しか一矢と会って話をしてないんですよ」
 黙々と餌をついばんでいる間、江智加はよく一矢のことを語りかける。
「その点あんたはいいよね、毎日会えてるんだもん。先生羨ましいぞ。な、ナツ」
「ナツはナツだよ、はーるでーすよー」
「おうっと」
 江智加は思わず声を洩らしてしまった。今のフレーズは初めて聞いたものだったからだ。今度は声変わりを終えた一矢の声だった。
「あいつ、何教えてんだよ……」
 苦笑交じりに言うが、動揺を隠しきれずに指をつねった。声変わりした一矢の声を聞くと、どうも慣れなくて戸惑ってしまうのだ。
 ナツはきょろきょろと部屋を見渡した。瓦屋根の上を飛ぶ二羽のスズメの声を聞くと、江智加に向かって小さく啼き、黒い翼をはためかして飛び立っていった。
「カラスが啼いたら支度しよっと」
 江智加は空の木箱を持って部屋を出た。


「いってきまあす」
 誰もいない三〇一号室に一声かけて靴を履く。弟はバスケの朝練があるから一時間前に出かけた。父も母も数十分前に出勤している。例の日課で彼女は早くに起きるため、全員分の朝食と弁当を作って送り出すのだ。結果、料理のレパートリーが増え、腕も上がった。江智加の父など、愛娘江智加のうまい弁当だと職場で言いふらしたために、エチカ弁当は昼の風物詩となってしまったらしい。そんなのちっとも嬉しくなかった。
(一矢にあげたらなんて言うかねえ)
 そんなことを思って、馬鹿な妄想だと笑う。
(練餌をやったほうが喜ぶか。あの鳥頭め)
 腕時計は八時八分三十秒をさす。一矢はこの前後に家を出ることが多いのだ。
 一矢の家は中学への道を歩いて二分半のところにある。奇遇を演出するには最高の立地にあり、江智加は日々この幸せを噛みしめながら登校している。
 会えるか会えないか、というのは重要ではない。一矢に関してあれこれ考えられるこの時間と空間が至高なのである。
 そういった諸々を頭に浮かべていたのだが、ふと目前の光景を見て立ち止まってしまった。
 生ゴミが散らかっていた。電柱にいるカラスが素知らぬ顔をしていた。カラス除けネットが隅にうずくまり、一矢の家の隣に住む大村夫人が箒を持りまわして威嚇していた。
「あんのカラス! いい加減にして頂戴!」
 江智加はこういう光景をたびたび目撃する。最近また多くなった。
(ああ、たぶんゴミの掃除が済んだら、また一矢のおうちにけしかけるんだろうな)
 そんなことを客観的に考えている自分自身が嫌で嫌で仕方がなかった。
(ナツは関係ないですよって大村さんに言っておいたほうがいいのかな。ああでもそんなの聞くような人じゃないもんなあ。なら、先々月越してきた朝花さんが、ゴミにネットをかけずに捨てちゃってるから、カラスがいたずらするんですって言えばいいのかな……)
 そんなことを思いながら、彼女はその場を通り過ぎた。言ったところで口実にならない口実を立てて一矢の母に説教するのだ。
(私って無責任な人間だなあ)
 結局学校に着くまで一矢に会うことはなかった。席についてスケジュール帳を開く。今日の日付に「ナラズ」と記入する。あと六つたまれば今月は全て「ナラズ」で埋め尽くされる。スケジュール帳を閉じて冷ややかな息をついた。
 日課だけをこなしている。目的のための日課なのか、日課そのものが目的なのか。
(一矢がカラスを飼うようになったのは、私のせいだっていうのに……)
 七年前、ケガをしていたナツを一矢に渡してしまったあの日のことを後悔することがある。二人は十四になっていた。中学三年生である。一矢は人生の半分をナツに捧げていた。
(どうしてケガが治っても野生に返さなかったんだろ)
 小二の秋に訊いたら「ひみつ」と返事された。やけに重々しい口ぶりだったので江智加も言及できなかった。
 せわしない教室の雑踏。他クラスの生徒も大勢いる。江智加のクラスは自由時間に人が密集するのだ。男子が多い。女子もちらほらと。でも一矢はいない。隣のクラスの中央の席。この前ちらと覗いたとき、寄りつく人は誰もいなかった。
(カラスを飼ってるから嫌がられてるんだ。本当は全部私が背負わなくちゃいけないものだったのに)
 いちやのおうちなら、だいじょうぶでしょ?
 その一言で一矢の人生を狂わせてしまったことに気付いたのは、中学一年の春であった。
「ナツは私が拾ったんだから」
 カラスを拾ったことで不潔だと罵られていた一矢を見て、他人のふりをしきれず、そう言ったのだった。口にしてやっと、カラスの世話を一矢に任せたのが江智加自身であることを思い出したのである。
 一矢を擁護した江智加は「カラス女」とからかわれた。一矢の苦痛を少しでも背負えるのなら、と男子からの言葉を黙って受け容れた。しかし「カラス女」の暴言は一度きりだった。いつしか「カラスの命を守った優しい女の子」になり、彼女の人気はより高まった。
 その後、一矢は表立っていじめられることは少なくなったが、一矢と他者、一矢と江智加の溝は埋まらぬまま、今に至るのである。
 江智加は何とか一矢に謝りたかった。だからチャンスを作ろうと朝の日課を怠らず、登校時間を調整している。
 しかし、
「エチカ、ニュースだよ! バスケのアカガワ先パイ、エチカのこと好きなんだって!」
 ホームルームのチャイムと同時に駆け込んできた江智加の悪友・アズがうわずった調子で話をぶちこんできた。
 江智加の周りにはいつだって他人がいた。
「よう知らんけど、告られても断るよ、私」
「うはー、さすが我らの女神エチカ! もったいない! てかずりぃぞ、フッた奴全員よこせや。くう、逆ハーレム構築してえぜ……」
 江智加は愛想笑いでこれに応じた。
 他人がいるから、一矢に話しかけるきっかけを掴めずにいる――それは言い訳だと江智加は知っていた。きっかけなんて必要ない。今すぐ一矢の教室へ行き、謝罪すればいい。それができないのは勇気がないからだ。一矢に謝って、恨まれでもしたら、絶交されたら……江智加の七年間、いや一矢と出会ってからの日々がすべて真っ白になってしまうのではないか。江智加にとってそれが何よりも恐ろしかった。器の浅い人間であることを自覚したくなかったのだ。
 一年もたたないうちに受験が始まる。受験勉強を始めたら、それを理由に謝罪を先延ばしするように思えた。そうなって、中学を卒業したら、二度と会えないのではないか。焦りと恐怖と不安と憧れとが彼女を襲う。心の準備なんて一向に整う気配をみせない。
 この春進級してから、一矢のことで悶々とすることが多くなった。ここまで放っておけないのは、きっと一矢が見栄っ張りなくせに怖がりなことを知っていて、心配だからなのだと勝手に理由付けしたところで、ようやく担任の先生が教室のドアを開けた。


 おなかが痛いということにして部活を休んだ。新入生指導が忙しいからか、部長と顧問の先生はしかめっ面をしたが、ホルンを吹ける気分ではなかった。
 団地の隅にある公園のベンチに腰掛けた。数名の小学生の男の子と女の子がかくれんぼをしている。江智加はその光景を眺めながら息をつき、空を見上げた。日は西へ傾き、空はその時間帯特有の薄い色をしていた。
(よくやったなあ、かくれんぼ。あれって、ずっと見つからなかったら、どう終わらせるんだっけ)
 団地の隙間の雲は無関心に西へ流れる。公園の隅に生えるクヌギの下で子供たちがしゃがんで地面を観察している。
(見つかりませんって、おにが降参すればいいんだっけ。なんかみっともないよなあ)
「もおいいかぁい?」
「まぁだだよぅ」
(その掛け声で、大体の場所がわかっちゃうんだよね)
 そんなことを思いながら、江智加はなぜ自分がここにいるのか不思議に思った。
(そうだ、確か一矢をさがして……)
 そこまで思ったところで、自嘲する。
(そんな言い訳をして、一人でのんびりしたいだけ、か。今まで一度も一矢を発見したことなんてないしね。そうそう、ただ疲れちゃったから一人でいるんだ。誰も本当の私を知ろうとしてないのに知ったつもりだから……)
「もおいいかぁい?」
「もおいいよぅ」
 かつ。
 ベンチに小石が当たったような、そんな音がした。それは江智加の右脇から聞こえた。江智加はちらと尻目に見た。
「いちかけいちはいちや!」
 それは、江智加の声で語りかけてきた。ほほえみかけると、相席の親友はくちばしを二度噛み鳴らして応じた。
「ナツ、覚えてるんだ、それ」
 掛け算を習ったばかりの頃覚えさせた言葉であった。当時江智加は掛け算をネタにして一矢をいじって遊んでいたのだ。江智加も忘れていた言葉を、ナツはずっと覚えていた。顔が赤くなる。それを紛らわすように指をつねり、それからナツを撫でた。ナツの羽毛はさらさらしていて、触り心地がいい。
「それは私の言葉。あんたの言葉じゃない」
 突然ナツは団地と反対の方面を見た。そこには小さな山があった。色鮮やかな新興住宅街で、江智加と一矢の家はそのふもとにある。山の中腹、山で唯一木々に覆われている箇所が彼女の目に映った。
 ナツは一度江智加の顔を見上げた。まるい目は黒い水晶の透明さをたたえていた。前を見据え、翼を広げて飛び立つ。団地の日陰から抜け出したナツが西日に照らされた。凛とした啼き声が公園にまで届いた。
(カラスはなぜなくんだろう……)
 その答えがはっと思い浮かんだ途端、それはあらゆるものごとを絡めながら、彼女の全身を怒濤の勢いで駆け巡った。朝、ナツが起こしにきてくれたことや、登校中生ごみが散らかっていたことや、授業中あらゆる感情をはらみながら一矢のことを考え続けていたことや、部活を休んで公園で呆けていたことやそこで子供たちがかくれんぼをしていたことやナツが隣にとまったことや山へ飛んでいったことやその他諸々が江智加の頭をぐわぐわ揺れ動かし、胸をぎゅるぎゅる締め付けた。
(もう、今日しかない)
 江智加はスクールバッグを担いで、一歩踏み出していた。


 中学生になって一度もこの神社に来ることはなかった。自宅からは近いが、通学路とは反対方向で、加えて山の斜面がきついのだ。
 彼女はこの空間を、侵してはならない聖域なのだという認識を無意識の中に宿していた。境内の真ん中で立ち止まり、湿気を帯びた石敷をちらと見て、避けるように大股で過ぎ去った。拝殿の赤いトタン屋根には冬から残る枯葉がたまり、壁板はカビを帯びて黒ずみ、端の板は剥がれて中が見えていた。
 江智加の記憶にある神社は、もう少しきれいだった。
(思い出の中じゃきれいなだけで、元からこんなだったのかも)
 見えないものに身構えている自分を笑い、賽銭箱の前の石段を二つのぼった。
 ブナ林からカラスの啼き声がした。その声がやけに大きくて、近くて、江智加はその方を見た。黒光りする塊が江智加めがけて滑空してくる。心臓が高鳴り、気道が遮断され、息が止まる。悲鳴なんて上がらない。江智加は石段に尻をついた。黒い塊は翼を二度はためかし、スカートと白いニーソックスに挟まれたやわらかい肉の上に降りたった。
「ああ、江智加か」
 林から声がした。
 江智加は指をきゅっとつねる。
「ナツが飛ぶから、何事かと思ったよ」
「なにしてんの、そんなとこで」
「虫とり」
「はいはい、ナツの胃袋が虫かごなんですね」
 あまりにも予定通りの返答だったのと、それを予想できた自分に江智加は呆れた。
 一矢だった。癖のある髪と度の強いメガネ。すこし大人びた唇。やはり、一矢だ。
「ナツさ、いつも迷惑かけてない?」
 いきなりの一言に、江智加の顔が固まった。
「声、覚えて帰ってくるんだよ」
 朝の日課のことを秘密にしていたわけではないが、言う必要もないと思って黙っていたのだ。江智加はナツの翼を撫でた。心の中で、ばか、と呟いて。
 少し、気が楽になったような気がした。
 風が湿気を含んできた。木々が揺れる。この音に恐れを抱かなくなって、心地よく耳を傾けることができるようになったのは、いつ頃だったろうか。
「逃がそうとか、思わなかった?」
 彼女は口を開いた。ナツはくちばしで翼の裏を掻いている。
「ほら、最初はさ、ケガが治るまでって」
「あー、うん、そうだった」
 ナツの左胸には今も傷跡が残っていて、ミミズのように腫れている。
「最初は野生に返してやろうって思ってたよ。それがナツのためでもあるって思ってたし。でも、しつけをしてたらね……ほら、育てはじめたばっかんときは噛み癖がひどかったろ? それに水皿もひっくり返しまくってたし。で、しつけしたら意外とあっさり直ってさ」
「何が言いたいの?」
「カラスって頭がいいんだ。だからしっかり見てやれば、すごくいい子になるんだって思ったんだよ。逆に見放せばゴミを荒らすような迷惑な子になる。そんな使命感が一割と可愛いが九割で、ナツと一緒に過ごしてる」
「……親バカ」
 一矢は否定も肯定もせずへらへら笑った。
 しばらく二人は神社の屋根の下で沈黙を続けた。足元に二匹のアリがいた。時折触角を触れ合わせ、右往左往している。しばらくローファーの近くを巡り歩いたのち、二匹はコンクリートの隙間にある巣穴へ向かった。
「後悔したこと、ある?」
「え?」
 一矢の声に、江智加は指をつねりだす。
「ナツのことで」
「そりゃね。飼いはじめた頃は、糞が臭いわガアガアうるさいわで後悔したけど」
「そうじゃなくて、学校とか、ご近所さんのこと」
 江智加は、切り出した。
「本当は私が飼うはずだったのに、一矢に押し付けちゃって、それでいろんな目に遭ってるでしょ。私を、恨めたはずなのに」
 江智加の声は震えていた。それを見て一矢は力なく笑って、ぼさぼさの髪を掻いた。
「カラスは嫌われものだもんなあ」
 一矢は言った。
「みんな、カラスは悪い鳥だって思ってるんだ。カラスの故郷が山だってことも知らない。でも俺には些細な問題でしかない」
「あのさ、回りくどいわけ。はっきり言って」
「だから、だからそう、後悔なんてするわけないんだ。ナツが新しく覚えた言葉を聞くのが楽しみで仕方がないんだ。そんな幸せなことを、江智加は後悔するのかい?」
 江智加は答えられなかった。目の内側が熱い。一矢の顔を見ることもできず、指をつねっても落ち着かない。こらえきれなくなって、肩が震え、助けを求めるようにナツを見つめた。ナツはそっぽを向いていた。
 太陽は西の林に隠れて見えない。空の雲は橙色だ。一矢は空を仰いで耳を澄ませていた。それから江智加の右に座った。その行動がよく分からなくて、江智加はきょとんとしてまばたいた。涙が目尻から、す、とこぼれた。
 かすかに音が聞こえた。それは屋外スピーカーから鳴る音だった。
「からす……」
 ぷつぷつ鳴る音は、二人だけが知る秘密の前奏曲だった。
 音色が聞こえる。

「えぇちぃかぁ、なぜ泣くのぉ」

 思わずその顔を見てしまった。少年はちょっぴりおどけているようにも見えた。江智加は全身の力がとろけていくような感覚を抱いた。樹々が揺れ、葉と枝の隙間から真赤な夕日が江智加の頬に注いだ。
 江智加は大きく息を吸った。
「えちかの勝手でしょお」
 そう言い切ると、少女は顔を背けた。ナツをきつく抱きしめ、顔を伏した。少年は鳥居の先にある地平線を眺めていた。無言の中、あの日のメロディだけが夕暮れの街にこだまするのであった。


2013/04/25起稿
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