ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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 ここ最近日本語の表記方法について、あれこれ考えてた。
 つまり正字正仮名、新字新仮名のお話だ。
 今回はブログ訪問者向けというより、正字正仮名推進派の方たち向けに書いているので、
概論やよくあるいざこざ等の背景は省略してます。

 このブログに正字正仮名についての話を書こうと思ったのは、
ツイッターで影夢櫻(@keinozi)氏とお話したのがキッカケだった。


六、七年前は正字正かなに随分否定的だったのが、ここまで考えが改まったってのは、そりゃ啓蒙のおかげだろうに。と思う。


頓首頓首。


ま、結局新字現代仮名遣だから、妙に敵視されてるような気がしちゃうんですけどね^^;(被害妄想だと信じたい)


ぶっちゃけ敵視對象は強行したお上なんで、そこのズレはあるなあと。政策を進めるなら進めるで、混亂とかに賴らずに眞面に進めてくれ的な。


ええ、ええ。こう、賛否様々な意見を参考にしたりブラッシュアップしたりして、まったく興味をもたない人(否定的ですらない人)にも親しみが持てる方向で進んでいったらなと。むしろそこをどうするか真面目に考えないとこれ以上の進展は望めない気も……。言うは易し。


そこはまあ、我々も反省してをります。なので、近頃は議論には餘り參加せず、假名遣ではどう書くのか的な疑問の方に重點を置いてゐます。


個人的に要望を申せばキーボード入力で現代仮名遣いで打ち込んだものを歴史的仮名遣いに変換するソフトが欲しいです。漢字は開かない派の意見が強いのは分かりますが、かな多めを好む人もいるわけですし。「昭和」と「唱和」で書き方が違うと開いて間違ってると困りますし。


あー、字音の扱ひですか。「せうわ」と「しやうわ」ですね。この邊りになると、字音は正確で無くてもいゝ派もそれなりにゐます。筆頭として丸山才一が擧げられますね。和語と漢語の基準は別で良い的な態度もあります。なので、その邊りには現時點では答へに窮します。


色々複雑なんすねえ。なんと言いましょうか、実際に触れられる、実際に使えるようにして、興味持てるようなものが欲しいなあと(先のはその一例でした)。中学生向けに「旧仮名遣いに変換して文字打てるソフト(アプリ)」なんてあればウケそう。啓蒙は若人の教育からですしw


それならば「契沖」なんて云ふソフトがあるらしいですよ。しかし敎育の場ならば、近代文學は正字正假名文だったと云ふ事實を弘めた方が樂かなあとも思ってをります。古文とは異なり口語文もありますから。






 ――と、ここまでツイッターで意見を交わしていたのだが、どうもすれ違いをしているような心地がした。
自分の意見の半分も伝わってないし、逆に@keinozi氏の意見を反映せず自分の意見だけ言っている自分がいる。
(字数と主張したい欲相まって、唐突にキーボード入力の話をし始める自分自身。なんとも気味が悪い)

 これ以上ツイッターでちまちまやっているのは、自身の精神衛生上よろしくないと思ったので、
ブログに自分自身の考えを述べつつ、身勝手な提案をしたいと思う。
 ツイッターはコミュニケーションツールではなく、情報発信ツールだ。
議論なんていう高度なコミュニケーションには不向きなのだ!
http://dairexia.com/twitter-not-sns/


 自分の要点は、正字正仮名に無関心な人たちへの導入部分をどう作るか、というものである。
 キーボード入力のくだりも「旧仮名遣いに変換して文字打てるソフト(アプリ)」の発案も、
導入部分にできそうなものの提案だ。
 一応補足しておくと、自分はアンチ正字正仮名でも、正字正仮名推進派でもない。
どちらを用いるべきか、そうでないか、そういう話は論点ではない。
 自身の立場を言い表すとすれば、売れないアイドルをトップアイドルにしようと考えるプロデューサーだろうか。
人々に対し、いかに正字正仮名に好印象を持たせるか、である。
実際に使うかは個々人次第である。


    「敎育の場ならば、近代文學は正字正假名文だったと云ふ事實を弘めた方が樂かなあとも思ってをります。
    古文とは異なり口語文もありますから」


 氏の意見は実にその通りだと思う。
間違いは何一つ言っていない。
 ただ、それをそのまま誠実に伝えたとして、正字正仮名がトップアイドルに立てるだろうか。


 現在、多くの人が正字正仮名と初めて出会うのは古文漢文の授業だろう。
一般的視点から見れば英語と双璧をなす「外国語」という印象を持つ。
経験談を申すと、私は塾の講師から「古文は外国語だ」と教えられた。
講師本意の言い分で、そちらの方が読解や問題解説がしやすい。

 古文は古文でも母国語であるのは無論である。
ただ今自分が話しているのは、正字正仮名だ。
 夏目漱石の『こヽろ』も本来は正字正仮名で書かれている。
しかし、教科書に載っている『こヽろ』は新字新仮名だ。
 ここに正字正仮名推進派とアンチ正字正仮名派・無関心派を隔つ断絶がある。


 推進派の論点は常に以下の一点だ。

 ・「正字正仮名≠古文≒外国語」ではなく「正字正仮名=日本の文字(古文も現代語も表せる正当な字・仮名)」である。

 人によって若干の揺らぎはあるだろうが、
(新字新仮名より)正字正仮名が正しい、という考えは一貫しているだろう。
 その通りなのだ。
私は彼らにすっかり啓蒙されてしまっているので、合理的にも歴史的にも正しいことはよく理解できている。
長所も知っている。
正字という立場上、新字(俗字・略字)にも寛容でいられることも知っている。


 しかしながら、どうしても推進派から距離を置いてしまう自分がいる。
 正字正仮名のことをあれこれ考えたのは、自身のフォロワー同士がツイッターで論を展開していたからである。
平行線上のまま、一向に交じろうとしない。
その様子を見て、私は以下のようにつぶやいた。
(自身の勝手な考えなので、リプライ等はしていない。のち特定されたが)


あの人たちは「今のものは根本的に間違ってるから撤回して元通りにしなくちゃならない」と主張していて、この人たちは「確かに根本的に間違っているのかもしれないけど、変わってしまったものを元通りにするときの体力や影響を考えると、もっと慎重にならなくちゃならない」と主張している。


合理的にも歴史的にも考えれば元通りになることがいいのだけれども、合理的なモノを現実世界に慣用としてでも持ってくるとなるとこれは一種の社会変革になる。マイナンバーですら動揺する我々がそれを慣用的にでも使うよう軌道修正することになったら、どうなるのだろう。


「それに変革をしなくても社会は現に成り立っている。成り立ってしまっている」それだから世の中はなかなか動かないし、つまるところ「そのもの自体は右翼的であるのに、それを取り戻すことは左翼的」というなんだかよくワカラン状態になってるんだ。


だから右の人たちの多くからすれば、なんだか敬遠したくなる話題だし、そもそもそれに携わる人が「暴力革命的」に感じるんだろうな。曰く我々は合理的に考えない人々のようなので、定義的な暴力革命ではなく、雰囲気的ななんとなくの言葉を使った暴力革命なのな。


だからその人々が自身のことを左でないと言っても、もはやイメージとしてはそうとしか見えない。雰囲気を好む我々には、右も左も大して変わりはない。自分だけでなくより知識もあって深く考えられる人ですら、その人々の考えに否定的になってしまう。


急進的に考えて我々をぽいと置いて啓蒙しようとすると、恐れを感じて否定的になる。正しいのは分かるけど受け付けなくなる。西洋的な啓蒙ではなく、日本的な扇動の方がよっぽど世の中は動く。なら西洋ロジックを頭で練りつつ日本的扇動で自身の意見をじとりじとりと動かす方がよっぽど現実的でないか。






 正字正仮名が浸透していくには、どういうスタンスで臨めばいいのか。
私なりに考えた結果のツイートである。
アイドルとして売り出すその子自身の素質には文句がないのに、素質だけ伝えてもまったく売れない。
プロデューサーはどういう態度でアイドルを売りこめばいいのか。

 啓蒙という名の直球では難しい(停滞してしまっている)のであれば、
扇動という変化球で攻めてみたほうがいいのではないか。
(語弊を生みやすい「扇動」という語を使ってしまったことに若干の後悔がある。
要は人々の求める場所を攻めると言った意味合いだ。
供給者本意ではなく、需要者本意で人々を誘導する、というイメージ)


 一連のツイートに対し、ありがたいことに野嵜氏からの引用リプライを頂いた。
 野嵜氏は正字正仮名推進派の一人である。



これ、「世の中を動かしたい」と云ふのが正かな派の希望なら妥當な忠告なのだけれども、正かな派の人間は寧ろ「西洋的な啓蒙」を目指してゐる。


日本人は明治以來、近代化・西歐化を目指してゐる、と云ふのが話の前提。日本人の近代化・西歐化、と云ふ目標は、全ての日本人が受容れてゐる筈。


国語改革は、さう云ふ日本人の目的に、果して本當にかなつてゐる事なのか、と、正かな派の人間は疑問を呈してゐるわけだ。


だが、根本的に、日本人の近代化・西歐化と云ふ目標に、反撥する人がゐて、さう云つた人々が国語改革を「容認する」と云ふ、日本的な甚だ日本的な態度をとつてしまつてゐる。それでは大目標に達するのは無理だらう、とこちらは指摘してゐる。


世の中が動いたところで、人々の頭の中が變らないのでは、何の意味もない。


これは、人の頭の中が変わったところで、世の中が動いていなければ何の意味もない、と云ふ發想と、根本的に對立する。


しかし、「世の中が動かなければ何の意味もない」と云ふ發想は、古くから日本人が持つてゐる發想であり、「人の頭の中が變らないと何の意味もない」と云ふのは、ヨーロッパ的――或はキリスト教的――な發想なのである。






 私は野嵜氏を数年間フォローしているので、一連のツイートが氏の哲学に基づいていることは容易に理解できた。
 氏の知識量、経験量の豊富さは重々承知している。
その上で恐れながら自論を述べさせていただく。


 日本的な態度(「世の中が動かなければ何の意味もない」と云ふ發想)をとっていては
大目標に達するのは無理であるから「正かな派の人間は寧ろ『西洋的な啓蒙』を目指してゐる」。

もしその言葉のまま意味を取るのであれば、正字正仮名を表舞台に戻すことよりもまず、
日本人の啓蒙を先に行う必要があるのではないか。

 日本の大衆が他の文化の教えを根本から理解したことが果たしてあるだろうか。
大陸から伝わった仏教は、長い時を経て鎌倉仏教として大衆に広まった。
その一方で儒教の考え方は浸透しなかった。
大衆にとって小難しいことへの無理解、無関心は遺伝子レベルである。
(それは日々日本人を嘆く氏が一番ご存知のはずだ)

 「世の中が動かなければ何の意味もない」
……つまるところ、日本的発想はいつだって後手に回る。
明日明後日の生活に支障が出るという危機感が迫ってこなければ、対応は先回りになる。
だからこそ人々は新字新仮名を容認できるのだし、明日明後日の生活に支障は出ないから使うのである。
(危機感が「迫ってくる」というのが肝で、
「明日相模湾に大津波が襲ってくる」と誰かが叫んだとしても
「リアス式でもないし、来てもそんな大きいもんじゃないだろう」という意識が強ければ、
自然対応は鈍くなる。
感情的に迫りくるものがなければ大衆の対応はずいぶん穏やかなのである)


 その大衆に対して、どう正字正仮名をアプローチするのか。
それがプロデューサーの腕の見せ所なのではないだろうか。

 もしも啓蒙というアプローチをとるのであれば、
短くとも半世紀(二世代。親からの教育によって悪影響が出ないようにするため)は啓蒙を行い、
日本的発想から脱却した人々を養成する必要がある。

「人の頭の中が變らないと何の意味もない」と人々のことを嘆くことができる人間を育成しなければ、
新字新仮名を改めようという世論には傾かない。
暴力的な革命でもしない限り、人々の啓蒙が「完了」するまで、正字正仮名が表舞台に立つことはないだろう。



 しかし、正字正仮名が表舞台に立つための道筋は、啓蒙だけではない。
というより、啓蒙された人々が噛み砕き、発想を転換させ、日本の風土に適したものに組み替えることは可能である。

 おそらく仏教もそうして広まったのだろう。
親鸞の「他力本願」を真に理解している人は少ないが、浄土真宗門徒は一千万人を超える。
本題から逸れるので詳しくは述べないが、
「南無阿弥陀仏を唱えれば浄土に往ける」という分かりやすさが魅力となり、受け容れられたのだ。


 正字正仮名ももっと分かりやすく、魅力的に映るものになれば、支持者はきっと増える。
 入口はなるべく広く、誰でも受け入れられるようなものでなくてはいけない。
入りやすく、親しみやすく、究めやすいものだ。

 たとえ話をする。私は中学時代、同年代の子とはちょっと違うものを求めていた。
タッキー&翼やORANGE RANGEが流行ってるなか、
独りジャズを聴き、久石譲を聴いた(久石譲ってところが中学生っぽい)。
ガンダムSEEDが叫ばれてる中「∀」を観た。
自分だけにしか分からない文字「Rαluwθco」を作ってみたりもした。
机の引き出しのなかには「Rαluwθco」の変換表が大切に保管されている。

 そうした「他人とは違う」を求める人にとって「正字正仮名」はまさにアーサー王物語だ。
知ってるけれども詳しく読んだことはない、しかし歴史が物言う確固たる王道である。
ただ使うだけで正統性を主張でき、優越欲も満たすことができる。

 そして、そうした思い出が(一部分は黒歴史となるだろうが)正字正仮名への
負のイメージ(授業・戦争)を払拭するきっかけにも成り得るし、
将来的に正字正仮名推進派の人々を増加させることもできる。
なにより自発的に触れること、読むこと、使うことが
正字正仮名理解への第一歩である。
小難しいことは、小難しいことを理解できる人が理解する。
理解できない人には、発想を組み替えて、分かりやすく魅力的に伝える。
日本人なりに咀嚼した啓蒙だと私は思う。


 無論、中学生でも簡単に扱える環境整備は推進者たちの役割である。
知識がなくとも使用可能で、パソコンやスマホで容易に変換が可能なことが大前提だ。
まずは親近感である。
野球をするにはまずボールと友達になることである。

 その少し見える位置に正字正仮名のより深い世界を据えて、
その奥深き趣味の世界へ導くことができたら、喜ばしいことではないか。
 以上は中学生をターゲットにした一例であったが、
魅力の伝え方は、正字正仮名を本当に魅力に思っている方々
(そして真実に魅力を発信できる方々)であれば、いくらでも出てくるものだろう。

 正字正仮名を推し進めるにあたって反対意見が出るのは当然だ。
特にこの現状をひっくり返そうとしているのであれば、その力の分だけ反発も強くなる。
それに対してどう対応することが、推進派の全体が良い方へ導くのだろうか。

 彼らが注目すべきは相手は誰なのか、
戦って得るものは何なのか、
誠実に正統性を訴え続けることに生産性があるのか、
開放的か、
閉鎖的か、
人は何を求めているのか、
人々を引き寄せるために何が必要か、
卑屈になって躍起になっていないか、
傍から主張の押し付けを見て魅力を感じるか、
常に変化し続けているか。
 その必要があるか。

 私はあくまで外部の人間なので分かり兼ねるが、
外部だからこそその情熱の強さがひしひしと感じられる。
我々は実に単純で実に複雑だと思う。
今後も他人事ながら、正字正仮名が広まっていくのを実感できる日を待っている。

 結論が不明瞭で申し訳ない。以上。


 あと蛇足。 
      ↓

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二〇一四年の春
『M3-ソノ黒キ鋼-』
というアニメが放映された。


01logo.png
M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト
公式サイト http://m3-project.com/index.html

ホラーロボットアニメ。
全24話、2クール。監督は佐藤順一。
シリーズ構成は岡田麿里。
メカニックデザインは河森正治。
主人公鷺沼アカシの声優は松岡禎丞。

知る人が見れば驚くスタッフ、声優陣なのだそうだが、
当時の僕が知ってるのは、後半OPの作詞と歌を担った坂本真綾さんくらいだろうか。

とにかくロボットにも声優にもスタッフにもまったく興味がなかった自分は、
たまたまニコニコ動画でそのタイトルを発見し、観ることにした。


まあ、こんなふうに今更(何年も放置してた)ブログで(何年も前のアニメの)
感想を書こうとしているのが不思議で仕方ない。
そもそも感想なんてツイッターでちょろっと書いておしまいな自分だ。何かがおかしい。


おかしいのはきっと僕ではなくて、このM3だろう。

僕はこれほど評判が悪くて、そしてとてつもなく好かれているアニメを観たことがない。
(観てる本数自体は少ないので、井の中の蛙感は認める)



この記事、息を吐くように『M3-ソノ黒キ鋼-』のネタバレしていきます。
(後半OPの作詞と歌は坂本真綾さん、みたいな感じで)
個人的にはネタバレを観て1.5周目感覚で本篇観たほうが楽しめると思うけど、
何かしら哲学のある人は以下読まないでね。




このアニメ、とにかく観る人が少なかった。
参考にニコニコ動画で配信されていた2014年春アニメの再生数を比較してみたい。
総て12話のものを使った。数値は2016年6月27日現在のものだ。


覇権を取ったのは、『ご注文はうさぎですか?』だ。
第12羽は432,785再生。

ロボットアニメでブレイクを起こした『健全ロボ ダイミダラー』
こちらの第十二話は176,092再生。

根強い人気を誇るロボットアニメ『シドニアの騎士』
第12話、174,599再生。

そして『M3~ソノ黒キ鋼~』
第十二話は44,227再生である。


どれも第一話無料、最新話一週間無料という条件は変わらない。
『ごちうさ』との差は十倍近い。
タグで検索すると『ご注文はうさぎですか?』は3,541件。
『M3-ソノ黒キ鋼-』で91件。比べるまでもないね。


なぜこれほど人気がなかったのか。
理由は、以下のツイートに集約される。





https://twitter.com/anyamal/status/473510523779026944
「話を要約すると
よくわからん世界で
よくわからん物と戦うために
よくわからん子供達が集められて
よくわからんロボットに乗るって話だよな。
7話まで見ても何一つ分からない。
分かるのはロボットが出てくるってことくらい。
何がやりたくて
何をしてるアニメなんだ
…」



我々が何を追って観ればいいのかすら判然としないまま、どこまでも話が広がっていくのだ。

無明領域とは何か、
イマシメや躯とは何か、
八人の子供たちがなぜ集められたのか
(彼らの過去にあった出来事とは何か)、
ロボット「マヴェス」とは何か、
中盤になるまでまったく明かされない。
(ほのめかしはあるものの明言は避けられている)

そのうち最初に明かされるのはロボット「マヴェス」にまつわる重大なシステムであるが、
その回が第九話「蒼キ鋼心」になる。
それまでの一話から八話までの間、謎が謎を呼び、
着地点があるのかすら分からないまま進んでいくのである。

つまらない点は挙げればキリがないのでここでは割愛する。


しかし、このアニメを完走した人は
口をそろえてこう述べる。
「面白かった」と。



実際、面白かった。
色んな人にオススメしたいのだけど、
先の理由からオススメしづらいのが実に悔やまれる。


この回以降楽しみで仕方無くなる回というものがあって、
それは14話である。


あらゆる面から鑑みるに14話から面白くなるよう仕向けているのだ。
14話以降、物語の流れががらっと変わる。
膨らむばかりだった謎がどんどん解けていく。
怒濤の展開は第十六話「一緒ノ約束」に始まり、最終話まで疾走が続く。


M3について、書こうと思えばいくらでも書けそうな気がする。
観れば観るほど魅力が溢れてくるのだ。
(スタッフ方面に手を出すと絶対面白くなるね。底無しだけど)

ただ、それをするとまとまりのない内容になってしまうので、
伝説の十四話を中心軸前後半に分けてお話しようと思う。

前半
「十四話の謎――カギは真綾の歌にアリ」

後半
「十四話まで迷走していた理由――1クールに収められる? それはナンセンス!」


というお題目でやっていこうと思う。

前書きが長くなってしまったが、M3だって前書きが長いんだ。


許せ。



前半
「十四話の謎――カギは真綾の歌にアリ」
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-624.html

後半
十四話まで迷走していた理由――1クールに収められる、それはナンセンス!」
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-625.html

この記事、丹精込めて『M3-ソノ黒キ鋼-』のネタバレしていきます。
(十四話まで迷走している、みたいな感じで)
個人的にはネタバレしたものを観て1.5周目感覚で本編観たほうが楽しめると思うけど、
何かしら哲学のある人は以下読まないでね。



前書き
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-623.html

後半
「十四話まで迷走していた理由――1クールに収められる、それはナンセンス!」
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-625.html


前書きで人気がない理由「よく分からないまま先に進んでいく」って点を言ったが、
二点目を挙げるとすれば「とにかく暗い」が挙げられるだろうか。


主な戦いの場である「無明領域」に代表されるように、
とにかく絵が暗く、内容も暗い


分かりやすい例を感覚的に説明すると、
青空が認識できないのである。

09sora.png
M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト

晴れわたった青い空は何度か登場するのだが、それがどうもくすんで見える。
上記のスクショは1話OP後に登場する風景であるが、
山と色を似せ、群青色を強くすることで鮮やかさを抑えている

昼間の外のシーンでも、あえて空を写していなかったり、
全体的に淡かったり、雲やビルを用いて青色を絞っていたりする。
終始鬱々とした景色が続く。


この雰囲気を端的に伝えるには、
1話から13話までのOPムービーを観ると分かりやすい。


M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト

低い位置にある太陽の光に、白みがかった空。
あるいは夕焼け。
これがM3の空だ。


爽やかな空は「レプリカ」を待たねばならない。


「レプリカ」とはなんぞや。


これこそ伝説の14話の始まりを告げる、新オープニング曲である。

この曲を聞いたとき初めてこの作品の結末に希望を見出すことが出来る。

是非13話までの絶望(正確には14話開始後45秒間の、マアム独白含む)に浸ったあと聴いてもらいたい一曲だ。


M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト

最初のOPに比べると、動きも活き活きしており、エフェクトも強い。


以下、OP部分の歌詞も引用する。

レプリカ
歌:坂本真綾
作詞:坂本真綾
作曲:内澤崇仁


  にじんでる歩道橋のらくがき 置いてかれた自転車
  誰かの帰りを待ってる
  認めて ただ存在を
  僕こそがオリジナル あるいはそのレプリカ
  僕らの証明はどこにある

  人類の欠点は 見えもしないくせに 愛とか絆とか信じられること
  僕の罪はうたがったこと 差し伸べられた君の右手 初めて見たヒカリ
  僕らは――


M3における「レプリカ」の意味を考えてみる。

先述したように、新OPの初出は第十四話「思ヒ残シノオト」だ。
少し大きい文字となればこの話に焦点を当てる必要があるだろう。


自分なりにあらすじを述べてみる。

マヴェス二番機「セーヴル」の救出に成功したものの、パイロットのヘイトは復帰が難しい状況になっていた。
また、無明領域内で行方不明になってしまった主人公アカシを助け出す必要もあった。
元々「セーブル」のLIMであるエミルはヘイトを乗せていたのだが、
これは無理矢理共振(心を重ねること。共振しなければ無明領域内で自我を保てない)させられていた状態であった。
ヘイトよりも自分と一緒のほうがいい、そう考えたマアムは「セーヴル」への搭乗を決意する。
……しかし臆病な二人はつながる前に拒絶してしまう。
それはお互いに罪の意識を感じていたからであった。
エミルはよくマアムの書く小説を読んで小馬鹿にしていたし、
マアムは以前、ヘイトに襲われた際エミルを置いて逃げてしまったことがあった。
その後二人は精神上で対話をし、お互い同じ思いを抱いていたことに気付き、無事共振を果たすのであった。

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M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト
精神世界での対話。左:屍鋼化したエミル 右:怯えるマアム

14話のあらすじは大体このようなものだろう。

精神上での対話シーンは、特に強い印象がある。

場所は廃病院(マアムがヘイトとエミルを残して逃げてしまった場所)で、屍鋼化した醜い姿のエミルがいる。
その姿に驚いたマアムは悶えるが、それがエミルであると気付くと落ち着きを取り戻し、
初めて出会った時のことを回想する。

エミルとの初対面は十年前、無明領域に迷い込んでしまった時のことだった。
マアムはそのころから小説を書いていた。
マアサという子が主人公の小説である。
マアムは臆病で、遊びの輪の中に入ることが出来なかった。
孤独を抱き、その気持ちを発散させるための小説だった。


  マアサ(マアム)
   ――ここはだあれも知らない、どこかの小さな森。
   9人の子供たちが迷いこんだことも、だあれも知りません。
   マアサは不幸でした。他の8人からも忘れさられ、いつも一人だったから。
   それでも構わないのです。
   だって、世界はみんなクソだから。
   世界が不幸せで満ちてしまえばいい。
   そう願っていました。


その様子をうしろから見ていたエミルがくすりと笑う。


03maamu.png
M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト
  エミル
   おとぎ話でクソだって。
   ……なによ、バケモノでも見るような顔して。
   それで、この子はそのあとどうなるの?」

  マアム
   あの、ただのおとぎ話だから……。

  エミル
   おとぎ話好きだよ。
   育ちの悪い女が、ガラスの靴があっただけで成り上がったりとか。
   ふふ、夢あるよね。
   ……ねえ、そのあとどうなるの?

  マアム
   かまわないで!


マアムはその場から立ち去ってしまう。

エミルのおとぎ話観が妙に現実的なのは、エミルの境遇にある。

幼くして両親を亡くし、災害補償金目的で引き取った親戚の元で育てられ、
学校ではいじめに遭っており、常に孤独を抱えていたからである。


マアサの物語は続く。


  マアサ(マアム)
   ――今日もみんなは楽しく遊んでいました。
   だから今日もマアサは不幸せでした。
   でも一人ぼっちだからといってどうという事はありません。
   やっぱり世界はクソだから。
   世界中からムシされても全然かまいません。


ここまで書いたノートを、マアムはなくしてしまう。
株の上にあったものをエミルが見つけ、お話を書き足していたのだ。
エミルは自身の書いた箇所を鉛筆でぐしゃぐしゃと消して、マアムに返す。

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M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト
  マアム
   ひどい!
   かまわないでって言ったのに!

  エミル
   かまいたくなるの。
   みじめったらしいとさ。

  マアム
   私、みじめったらしくないわ!


ここで場面転換し、現在のエミルがマアムの前に立ちはだかる。


  エミル
   みじめったらしいでしょ!
   本当はかまってほしいクセに。
   寂しくて、誰かに振り向いてほしくてたまらないクセに、孤独なヒロイン気取り?
   それこそ『クソ』でしょ!
   そんなことしてみじめな自分誤魔化したって、そこからは抜け出せないのよ。
   いつまでも同じところをグルグルと回るだけ。
   幸せになんか、なれないんだから……。

  マアム
   エミル……。

  エミル
   ノート、ごめん。

  マアム(独白)
   私はやっと思い出した。
   私のノートに、あなたは勝手に書き足した。
   マアサは私だけじゃなかった。


エミルは、マアサに自分自身を重ね合わせていたのである。
「みじめったらしい」のはエミル自身もそうであったのだ。

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M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト
  マアサ(マアム)
   ――一人ぼっちだからといってどうという事はありません。
   やっぱり世界はクソだから。
   世界中からムシされても全然かまいません。

  マアサ(エミル)
   でもだれかひとり、自分を見つめてくれる人がだれかたったひとりいれば、世界はもう少しマシに見える。
   そうマアサは思いました。

  マアム(独白)
   いつも不幸せだったマアサを、エミルは幸せにしようとした。
   あらわしかたは違ったけれど、私たちは同じだった。
   私もエミルも孤独が辛かった。
   ただ、幸せが欲しかったんだ。


08hug.png
M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト

この対話を通して、マアムとエミルの共振は果たされるのである。
この回はM3に於いて非常に大きい。

エミルは、好意を抱いていたアカシから拒絶され、
逆に狂気の男ヘイトに近寄られ、
自身は屍鋼化し、
LIMとなってヘイトに使役されるという、
不憫すぎる境遇だった。

そのエミルが報われた。

エミルを救ったのは、今まで影の薄かったマアムが一歩前へ踏み出したからだった。
主人公ではなく、一番いらない子扱いされていた人物が、エミルを救ったのである。
もちろん救済への伏線は静かに張られていた。しかしエミルはがIM化したあとはほぼ退場状態であった。
それが一気に救済、解放されたのである。

エミルに限らず、この話まで絶望以外のものが何一つ提示されていなかった。

第九話で、アカシが自身の過去と向き合い、
兄アオシと共に付き合っていく描写がなされていたものの、
いまだ不安定で、頼りない状態が続いている。

救われたと思いきや、絶望に叩き落されるのである。
特に主人公アカシはエミルのLIM化、ササメのLIM化という衝撃に大いに絶望している。


それが第14話で一つの希望が提示された。

LIM化=死ではなく、LIM化しても心を通わすことが出来、共になって戦えるという希望である。
マアムとエミルがマアサを創りだしたように、パイロットとLIMがマヴェスを動かすのである。



さて、以上のことを踏まえ、後期OP「レプリカ」の歌詞が意味するものを紐解いてみる。

カギはエミルとマアムが交差する一文
「でもだれかひとり、自分を見つめてくれる人がだれかたったひとりいれば、世界はもう少しマシに見える」
である。


  にじんでる歩道橋のらくがき 置いてかれた自転車
  誰かの帰りを待ってる
  認めて ただ存在を

「歩道橋のらくがき」も「置いてかれた自転車」も放置(放棄)されてしまったものである。
普通、見向きもされない。

しかし、それらも存在を認めてくれる誰かを待っている。
「自分を見つめてくれる人がだれかたったひとりいれば、世界はもう少しマシに見える」からだ。


  僕こそがオリジナル あるいはそのレプリカ
  僕らの証明はどこにある

自分自身が何であるか、それを証明してくれるのは「たったひとり」の「だれか」だ。

歌詞に「僕ら」と書かれている。
「僕」ではない。
だから誰もが当事者になり得るし、そのひとりひとりが「たったひとり」の「だれか」を必要としている。


  人類の欠点は 見えもしないくせに 愛とか絆とか信じられること
  僕の罪はうたがったこと

「僕」は一体何を疑ったのか。
それは、「見えもしないくせに愛とか絆とか信じられること」を
人類の欠点だとして疑ってしまったことではないだろうか。


つまり、目に見えない相手の気持ち「愛」「絆」を疑ってしまったことである。
シンプルな言葉ほど、使えば使うほど力を無くしていく。
現代において愛とか絆とか、「つながる」という言葉ですら使い古され、
陳腐で意味の薄っぺらいものに成り下がってしまった。

目に見えない言葉は、目に見えないからこそ吟味し、慎重に使わねばならない。
しかし手遅れになってしまった。
陳腐化された言葉は信用性を欠き、人々に猜疑心を生んだ。
上辺面の愛をささやき、絆を立証するための「頑張ろう日本」を掲げ、
ハートアイコンのワンクリックされただけで承認欲求が満たされたような気持ちになる。

そういったものに浸れば浸るほど、どんどん相手のことが分からなくなる。

誰も信じられなくなってしまった。
その代表がミナシである。


ミナシは多くの哀しみに打ちひしがれたのち、
「すべての心がつながればみんな幸せになる」という結論に達した。

それは建前のない本音だけの世界だ。どの言葉を信じればいいのか分からない。
相手の言葉をどう受け取ればいいのか分からない。
自身の想いをどう伝えればいいのか……?

そんな、世界への絶望と自らの孤独と他者への哀しみが「心の同一」を願うのである。
この考えは一見すべてを許容する考えのように思えるが、実際は逆である。
心を同一化するということは、相手や異なる思想を否定するということだ。

相手だけではない。
自分や自分の考えすら拒絶することでもある。

これが「僕の罪」だ。
しかし、この歌詞は人々を悲観するものではないし、まして拒絶するものでもない。
光に満ち満ちている。


  差し伸べられた君の右手 初めて見たヒカリ

「君」とは誰か。

それこそ「たったひとり」の「だれか」のことだ。
その人が差し伸べた右手が、「僕」にとっては「初めて見たヒカリ」であった。

「初めて見たヒカリ」とはなんだろうか。

「初めて見た」というのだから、君が差し伸べるまでは見たことがないもの、見えなかったものなのだろう。
そう、そいつは「愛とか絆」である。
君と出会うまでは、辞書での意味以上のものを持たなかった「愛」「絆」が、
まるで手に取るように身近に感じられる。


06natsuiri.png
M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト
  夏入
   共振をより強くするのは双方向の相性の均一性だったんだ。
   ははは……まったく真実ってやつはシンプルだよ。
   そうそいつは『愛』なんだよ。
   そんな言葉が私の口から出るなんて。
   はは、くすぐったい。
    第十九話「黒キ入日」


「レプリカ」の歌詞は、一見すると恐ろしいものに感じる。

「歩道橋のらくがき」
「置いてかれた自転車」
「あるいはそのレプリカ」
「人類の欠点」
「僕の罪」

そして妙なフレーズとは裏腹の明るい曲調。
聴き入るほどに懐疑的になる。

しかし、最後の一行で総てがさっと色を変える。


「僕の罪はうたがったこと 差し伸べられた君の右手 初めて見たヒカリ」


君のおかげで、うたがった自分すらも救われる。
そして実際アカシは救うのだ。
心の闇の中に閉じこもった人たちを。

まさにM3にふさわしい歌詞である。


最後に、「レプリカ」について真綾さんにインタビューした記事があったので、そちらを引用して前半パートは終わりにしたい。


   ──突き抜けたサビで「人類の欠点は見えもしないくせに愛とか絆とか信じられること」というフレーズを、しかも明るめなトーンで歌っているというのがすごいですよね(笑)。

   真綾
    (中略)
    私がここで描きたかったのは、欠点は才能になり得たり、
    イコール個性だったりするんじゃないかってことだったんですよね。
    ないものをあるように扱える動物なんてほかにはたぶんいなくって。
    ここには絆や信頼があるとか、未来を想像して今はこうしておこうとか、人間って見えない概念への思いが強いですよね。
    そんなこと考えなくてよければ世の中もっとシンプルでわかりやすいのに。
    でもそんな想像力があるからこそ、人間は面白く豊かに生きていけるんだと思うし、
    それはやっぱり人間の長所なんだということが書きたかったんです。
    「最後に残るもの」は、やっぱり「光」であってほしいというか。
      音楽ナタリー「坂本真綾『レプリカ』インタビュー(2/3)」http://natalie.mu/music/pp/maaya05/page/2



前書き
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-623.html

後半
「十四話まで迷走していた理由――1クールに収められる、それはナンセンス!」
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-625.html

以下蛇足「M3における罪、とは」

⇒続きを読む

この記事、丹精込めて『M3-ソノ黒キ鋼-』のネタバレしていきます。
(十四話まで迷走している、みたいな感じで)
個人的にはネタバレしたものを観て1.5周目感覚で本編観たほうが楽しめると思うけど、
何かしら哲学のある人は以下読まないでね。



前書き
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-623.html

前半
「十四話の謎――カギは真綾の歌にアリ」
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-624.html




後半パート、文章だらけです。
よろしければお付き合い願います。



M3というアニメ。
まず第一に個人的な忠告を申せば、
「ジャンルはロボットアニメだけどロボットアニメとして観てはいけない」という点だ。
デザイン、格好いいんだけども。

ロボット「マヴェス」が中心に動いているわけではないし、ロボットが相棒であるわけでもない。
相棒はLIM(マヴェスに組み込まれた仲間)=人間である。
ロボットはいわばシェルターであり、武器である。

最終戦も魂と魂の対話って感じだし、
ロボットでバトルというよりかは人と人とが怖がりながらも心を通わせるって作品よ。


語弊があるといけないので補足すると、「ロボット必要ないじゃん」というわけではない。
何をもって必要不必要を決定するのかは個人によるだろうが、本作では、

「人の立ち入れぬ場所(無明領域)で活動する必要がある」
「人の立ち入れぬ場所の生成原因の根本には『復讐』という動機があり、物語において必要である」
「精神を共有し、意思で機体を動かすことが求められるため、人型である必要がある」


以上の三点からロボットは必要であった。
とはいえあくまでロボットは人々の補助役におさまっているため、
ジャパニーズアニメの王道から逸れていることは間違いない。



僕はロボットの話がしたいわけじゃない。
この作品が何を伝えたいのか。
そして伝えるために何をしたのか。

そのことを後半パートでお話したい。


この作品、人物の数だけテーマがあるのだが、あえてしぼるとすれば、

「人は分かり合えるか」
「過去と向き合う」


全編を通してこの二本のテーマが貫かれている。

前者のテーマがメインで、それを支えるためのサブテーマが後者、という位置づけである。
そしてこの作品のキモは、テーマの表現に妥協しなかったということだ。
テーマを突き詰めるためのギミックが、冗長な前半期なのだ。



「人は分かり合えるか」を正確に理解するには
「分かり合えない」
「まだ分からない」

知らねばならない。


我々は、目に見えないことを疑ってしまう。
愛とか絆とか、「分かり合う」といったテーマとか。

「愛はあります!」

そう声高々に謳っても現代人には通用しない。
上から横から、内から外から下から、
あらゆる方面からテーマを見つめなくては目に見えないものを信じられなくなってしまった。
(見えないものを多方面から見る。なんとも不思議な行為だ)

だから「愛」を語るのであれば、

「愛とは何か」
「どんな愛の形があるのか」
「そもそも愛なんてものはない」
「テンプレ的な愛」


等々を考える必要性がある。
実に面倒くさい。
(そして行き着く「真実ってやつはシンプル」なのだ! 夏入の台詞な


我々視聴者にとって、一話目のアカシたちはまったくの知らない人である。
はじめましてだ。

現実で考えてみよう。
現実ではじめましての人がいたとして、その全員に好感が持てるだろうか?
そうだとしたらバカげているし、それこそ挨拶する必要性がない。
(挨拶とは自身を主張し、相手に好感を抱かせるための行いであるともいえる)

アニメに出てくる人たちはお友達ではない。
我々はついつい誤解をしてしまうのだが、
アニメの中にいる人物全員が好感を持てる(視聴者に媚を売る)人間ではないのだ。


アニメの人物は好印象である、そう我々に勘違いさせるのはなぜか。
簡単な話だ。
「アニメは娯楽作品である」
そう考えるからだ。

しかしその考えは間違っている。
あえて言うのなら「アニメは娯楽作品のほうが有利である」だろうか。

これはもう資本主義の宿命なのだが、
funnyな作品のほうが万人受けしやすく、売れやすい。
売れれば利益が出て、次の作品をつくりやすくなる。

しかしあくまで「有利」なだけなのだ。
売れることが正しいことではない。
(嬉しいことではあるが)

創作に携わる人であれば共感できるだろうが、
「売れること(たくさんの人にみてもらえること、認められること)」と同じか、
それ以上に「自分の伝えたいものを伝えきれた瞬間」に喜びを感じるものだ。
前者が承認欲求であるとすれば、後者は自己満足の絶頂だ。


自身の伝えたいものが娯楽とは程遠いものであれば、
確かに娯楽作品としては成り立たないだろう。

しかし自身の表現、出しきる、ということは文化的に崇高である。
我々のピエロにはなれないが、親友にはなれる。
M3は容赦なく伝えたいものを伝えようとしている。



人は分かり合えるか。
そもそも「分かり合える」とはなんなのか。
アニメでもドラマでも、散々テーマに使われてきたワードだ。
分かり合える。
合える。


「分かり合える」とは相互活動だ。

双方が分かろうとしなければ赤の他人だ。
片方が分かろうとしても、もう片方が分かろうとしなければ進展はない。
片方が分かった気になってもう片方の望まぬことをすればお節介だ。
双方が分かった気になっていればすれ違いになる。
一瞬互いのことを分かったとしても、双方が相手のことを分かる努力を怠れば「分かり合える」から遠ざかってしまう。

人と人とが分かり合うには、互いが互いのことを、理解しつづけていく必要がある。


「分かり合う」というテーマを扱うために、この作品では何をしたのか。
それは我々が作品に対して、
「分からない」「分かり合えない」と思わせる状況を作り出すことだった。


娯楽を求めたフィルターでこの作品を観れば、
すぐ我々の期待を裏切るように作られている。

なぜなら、アカシは過去に囚われ誰とも心を開いていないからである。

この作品に対する批判の多くは、
心を閉ざした人物に対して、
「この人なに考えてるのか分からない」という批判だ。

おそらく制作陣は、この批判を浴びる度ほくそえんでいたに違いない。
人物に対する非難、誹謗中傷、決めつけ……。
その一つひとつが「人は分かり合えるか」という問いの答えなのだ。


以下は、作品終盤のアカシの台詞である。
このとき、アカシは既に閉ざしていた心を開きかけている。
一方、ツグミは心を閉ざしているままだ。
そのツグミに語りかけるシーンである。


13oremoonajida.png
M3-ソノ黒キ鋼-/(c)佐藤順一・岡田麿里・サテライト/M3プロジェクト
  アカシ
   アンタは過去に囚われている。
   俺もだけどな。
   ガキの頃のことを思い出したんだ。
   大人の笑顔の裏に別な声が隠れてて。
   それが気持ち悪くて、心を閉ざした。
   誰も信用できないし、必要ないって思ってた。
   でもだからこそ、誰かと心から触れ合えた瞬間の温かさを
   奇跡のように幸せなことだと思えた。
     第二十三話「最強ノ証」


アカシは序盤、他者の目に怯えていた。
他者がアカシに投げかける言葉の一つひとつが、表面上のものでしかなかったからだ。

台詞内の「大人」を我々に置き換えてみる。
我々はアカシに対して何かしらのフィルターを掛けて見てしまっている。

「娯楽」
「ロボットアニメの主人公」
「佐藤監督作品」
「マリー脚本」
「豪華なスタッフ」
「暗い」


……当然だ。
大前提として「アニメ」というフィルターが掛かっている以上、
我々は期待を籠めた眼差しで見てしまうのである。



しかしアカシ当人にとってそんなものは関係のない話である。
独断で動き、後先考えず人を遠ざけ、そのくせ偽善ぶって、離れてしまう人々を恐れる。
その心境は一切描写されない。
我々にすら心を開いていないのだ。

我々のなかには、早い段階でフィルターを取り外した目で、
アカシ本人を見つめようとしている人(作中でたとえるならば、兄のアオシ)もいるだろう。
しかしアカシから見れば、誰も彼も気持ち悪い大人たちに見え、拒絶してしまう。

こちらの心からの親切心が相手に届かない。
相手の親切心を素直に受け取れず、勘ぐってしまう。
それは現実にもありうることだ。


我々の選択肢は二つだ。
アカシを見放すか、
それでもアカシに手を差し伸べるかだ。


我々は自由だ。
どちらを選んでも誰も文句は言わないし、
反対にどれだけ文句を垂れ流したっていい。

少しググれば、自分勝手な感想を漏らす人々で溢れている。
(そしてこの記事を上げた瞬間、僕もその仲間入りを果たす)

「私は視聴者だ」
その心意気を貫くのであれば、きっと十三話までのどこかでこのアニメを離れるだろう。


向こうからの最初のアプローチは九話だ。
(人によってはエミル関連で三話や四話というかもしれない。
しかしエミルはLIM化され、期待は希望に変わる前に絶望に染まる)

九話にしてようやくアカシは囚われた過去に向き合い、紐解いていく。
ここから分かり合うための「相互活動」が始まる。

しかしそれでもアカシは不安定で、
時に任務を失敗し、
時に暴走し、
我々を裏切る。

十三話は演出からして苦痛だ。
内容は回想ばかりで総集編に近い構成をとっており、
ヒロインであるはずのササメがLIM化するという事態に陥り、
アカシは無明領域に取り残される。

さらに、1クールは基本的に13話といわれる。
面白さを求め続けて観てきた1クール目最後の回が、これなのだ。
苦痛以外の何ものでもない。


この回でアカシを見放した人もいたのではないだろうか。
だがしかし、すべては「人は分かり合えるか」という問いかけなのだ。

M3を追っていくのは、ある種アカシを追想することに等しい。
アカシを追想するからこそ、
「誰かと心から触れ合えた瞬間の温かさを奇跡のように幸せなことだと思え」る。



哀しいことに先の引用は、
引用という形態をとってしまうが故に、
言葉の羅列でしかなくなってしまった。

しかし十四話でエミルとマアムの心の触れ合いを目の当たりにした瞬間、
アカシの台詞は手に触れたような感動を覚える。


よく「1クールにまとめられたらよかったのに」という感想があがる。
僕からすれば1クールにまとめてしまったらM3の良さは二十分の一も伝わらなくなってしまう。

十四話までアカシたちを追いかけ、
手を差し伸べ、裏切られてこなければ、
「分かり合う」というテーマはちっとも伝わらない。

無論M3を娯楽作品として観るのであれば、先の感想はごもっともなのであるが……。



M3、噛めば噛むほど味の出る作品だ。
語ればキリがないので、そろそろ風呂敷を収めたいと思う。

どこから考察をしても筋が通っている。
公式サイトの「キャラクター」欄に登場する人物であれば全員大きいテーマを抱え、
それぞれの「罪」を抱えているからだろう。

それぞれがぶつかり合い、
影響し合い、
すれ違い、
勘違いし、
苦しみ、
違う答えに行き着く。



互いに影響を受けて考えが変わるのも、人間らしくていい。
キャラクターにおいて、意見がコロッと変わるのは、
「こいつ言ってること変わりすぎw」という叩きにつながるのだが、
本来人間はころころ意見が分かるものだ。
むしろ初志貫徹する人物は夏入だけだ。
(彼の生き様は実に素晴らしいし、彼だからこそ初志貫徹できるのだろう)

同じ罪を抱く人物でも(例えばイワトとライカ)、罪への対処の仕方が違っていたりと、
「分かり合える仲」になりさえすれば多くの発見がある。
初見苦痛でしかなかった一話から十三話までの内容も実に面白く観ることが出来る。

冒頭で「1.5周目感覚で本編観たほうが楽しめる」と書いたのは、
各人物の生き様を追うことがこの作品の醍醐味だと考えたからである。

ただ、人を選ぶ作品であることは確実なので、自ら進んで推せないのが悔やまれる。



ニコニコ動画における最終話「原罪、カコミライ」の再生数はたったの39,580(2016年6月27日現在)。
4万にすら届いていない。

ニコニコで配信されているアニメで最も再生数が多いのは
『ご注文はうさぎですか?』の第1羽「ひと目で、尋常でないもふもふだと見抜いたよ」である。
現在6,734,248再生。
「帰省」というタグが付いているので、
おそらく毎クール終わりとお盆、年末年始あたりを中心に今後も伸び続けるだろう。

比較し、卑屈になるのはM3ファン特有の習性だ。

……もし興味を持っていただけたなら、ぜひともM3、観てほしい。

ニコニコ動画やバンダイチャンネル等で一話無料配信(全話パックは3500円程度)をしている。
初見であればニコニコで観たほうが気が紛れるだろう。
(また、面白い考察をコメントしている方もいて、そちらも興味深い)
心無いコメントも流れるが、それをスルー出来るのであれば、ニコニコで観ることを薦めたい。

なんだか雑文をつらねただけになってしまった……。
ま、「独り言」カテゴリに置いてあるわけだし、ま、いっか。


前書き
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-623.html

前半
「十四話の謎――カギは真綾の歌にアリ」
http://bluska.blog110.fc2.com/blog-entry-624.html


参考

⇒続きを読む

KAZUYAさんの動画について思ったこと。そのうちしっかり書いてみたい(書くとは言ってない)

【ニコニコ動画】日本人なら知っておきたい論語名言集
【ようつべ】日本人なら知っておきたい論語名言集

以前から目についていた氏の動画。ランキングに度々載ってる。
(主義主張に関してはさておいても、人の心を掴む演出が上手い人なんだな、という印象)
今まで敬遠してきたわけだけども、『論語』の動画と言うわけで、
読み終えたばかりの自分としては興味があったので観てみる。

演出について
・上手い動画構成。キャッチーな言葉。
(淫夢語、ネットスラングを多用。訪問エピソードを導入に本題へシフト。例語句の最初を温故知新に等々)

冒頭で手にしているのは『論語新釈』であるが、引用語句は足利学校で販売している『論語抄』※である。
※原物を手にしていないので、確証ナシ。

無題
http://www.nicovideo.jp/watch/1421838487







論語新釈 (講談社学術文庫)論語新釈 (講談社学術文庫)
(1980/01/08)
宇野 哲人
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    子曰はく、故きを温ねて新しきを知れば、以て師となるべし。
  [通釈]ふるく学んだ所を習熟して新たに悟る所があるようになれば、学んだ所の事が我が物となって、無窮の事柄に応ずることができるから、人の師となる資格がある。


例語句は「温故知新」「賢を見ては」「君子は諸を己に求め」「徳は孤ならず」四点出るが、全て『論語抄』に収録されている。
動画において、『論語抄』については、この各例語句が紹介されたあとに触れられる。
視聴者からすると、『論語新釈』に動画上で紹介される各例語句が収録されているような錯覚を抱く。
つまり引用文の紹介をしてから種本の紹介をするという逆転現象が起きている。
(動画中では「今日紹介した名言はこちらの、論語の省略版の本にも」と言って『論語抄』を紹介している)

この演出によって、印象はどう変わるか。
・厚みによる権威づけが可能。(分厚い本を読んでる。スゲー!)
・「抄」ではなく全語句を知ったうえで、「名言を紹介」しているように思わせる。

『論語新釈』と『論語抄』の違い。
・書き下しは、「以て師為(た)るべし」か「師となるべし」かの違い。
(すると「今日紹介した名言はこちらの、論語の省略版の本にも」という言い方はおかしいのではないか)
・通釈は「故きを温ねて」に重点を置くか「新しきを知る」に重点を置くかの相違点がある。

種本と引用の逆転を起こした意図と結論。
・『論語抄』通釈のほうが、KAZUYAさん自身の考えに近いのだとしたら。
(→KAZUYAさんの人間が見えてくる)
・単純に『論語新釈』を読んでおらず、冒頭のツカミとして読んでいるフリをしているだけなのだとしたら。
(→巧みな演出家であることがわかる。現代社会で本を売るということ云々)


以上に加えて、
他の『論語』ではなく『論語新釈』にしたのか、
等々書けたらいいなあ。

じょがぁへのお便りは
  こちらからどうぞ。

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