ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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【編纂】日本鬼子さん
著 歌麻呂


  日本鬼子(ひのもとおにこ)とは……
   2ちゃんねるvip発祥のキャラクター。
   鬼の子で、人々の心を巣食う「心の鬼」を萌え散らす、
   クールでビューティフォーな純和風乙女なのだ。

目次

 序「どうしてなの……
 一「そういうことじゃなくてさ
 二「せーの、で行こうか
 三「歓迎されてる……のか?
 四「日本さんがかわいいから
 五「鬼子は鬼子、俺は俺だ
 六「その志、忘れるでないぞ
 七「朗報だ
 八「もみじはなんで散っちゃうの?
 九「だから、あなたを――
 十「みーんな、なかよしだもんね!
 十一「さあ?
 十二「そんなわけねえっつうの……
 十三「俺、強くなれるのかな……?
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   φ

 つまるところの、平凡な昼下がりってもんだ。般にゃーの家の庭を掃く雑用に専念できる。こんなのどかな午後は久しくなかった。
 俺にちょっかいを出すヒワイドリやヤイカガシは、変態どもの集う岩屋の基地にいる。定期的な会合とやらがあるようだが、知ったこっちゃない。鬼子も留守である。田中の住む世界に行って、鬼退治をしている。これも日常的なものになってしまった。少なくとも、この数週間で、鬼子の日課になってしまったことに今更文句をつけることもないだろう。
「あとね、あとね、この前のお話のつづき、きかせて!」
「ふふ、こにったら物好きね。この前は……貧乏な町娘のお百が、街道の一本桜で、殿様の子に恋に落ちたところだったかしら」
「とってもいいむーどになったけど、その想い人さんが江戸へ奉公にでかけちゃうとこまできいたよ!」
 そして、小日本と般にゃーは縁側でのんびりと雑談をしている。
 本当に、何事もない、穏やかな日だ。
「白狐爺こと、みんな忘れちまってんのかよ……」
 誰にも聞こえないくらい小さな声で、俺は呟いた。
 白狐の村で、俺と鬼子は悪しき鬼どもに負けた。そのとき、白狐爺が己の気力を犠牲にして鬼たちを祓ってくれなければ、こうして雑用すらできなかっただろう。
 力を使い果たした白狐爺は今もなお療養中であった。せめて白狐爺が回復するまであの村に留まりたかったが、般にゃーの命が来て、紅葉山まで引き返したのだった。俺は心配だった。
 ――鬼が来たら、わたしがこの村とおじいちゃんを守ります。
 弓を携えたシロがそう言っていた。その声は震えていた。弓はかたかた音を立てていた。心配なのは、あいつだって同じなのだ。いや、あの場所にいた誰もが、不安を抱えていた。少なくともそのときは。
「――そして、一つ約束をしたの。もしお百が、毎日欠かさず恋歌を……お百は歌が上手だったのよね……桜の下で詠んでくれたら、貴女を決して忘れない、と。お百は毎日毎日、その人の無事を祈り、想いを籠めて詠んだわ。雨の日も、風の日も。お百は献身的だったの。でも想い人は、江戸で多忙な日々を送り、いつの間にかお百のことを忘れてしまったの」
「かわいそう……」
 それがこの有様だ。何もない一日。誰も彼もが悠々自適に過ごしている。
 白狐爺は何のために俺たちを助けたんだっけか?
「奉公が終わって、国に帰ることになったその日も、お百は恋歌を詠んだわ。想い人が、一本桜の脇を過ぎようとしたとき、ちょうどその歌声を耳にしたの」
 般にゃーの語りは続いていた。
「そして、想い人は全てを思い出し、お百の元へ駆け出し、ひざまずくの。『ああ、私はなんて過ちをしてしまったのだ! お百、私は今の今まですっかり君のことを忘れていた! 君の全てを、私を恋い慕ってくれていたことを! しかしお百、この国へ帰ってきたのは、結婚するためなのだ。君を置いて、私は嫁へ貰われるのだ! 許しておくれ、こんな私を、許しておくれ!』『百合姫様、いいのです、思い出しさえしてくだされば。私はそれだけで幸せ』うら若き二人の女子は、手を合わせ、指を絡ませるの。『お百、せめて今宵だけでも、逢瀬のひとときを……』そう言って、百合姫はお百と口を重ね――」
「って、ちょっと待ったああ!」
 思わず叫んでしまった。俺の不安を一気に吹っ飛ばすくらい強烈な話をしていることにようやく気付いた。
「あら、わんこは百合話、ニガテなのかしら?」
 般にゃーはいたずらっぽい笑みをもらしている。ユリバナシ? なんだか知らんが、どこか背徳的な香りのする言葉だ。
「わんわん、大声だすのは『オトナノタシナミ』じゃないよ」
 小日本にたしなめられる。というか、その言葉はどこで覚えたんだ。
「こんな話を聞いて、小日本に悪い影響が出たらどうするんだよ」
「あら、ならチチドリが攻めでチチメンチョウが受けの話に変える?」
「なんだよそれ! わけわかんねえよ!」
 どういうことか、背筋に嫌な汗が流れる。聞いてはいけないと本能が警告しているようだ。
 般にゃーはため息を洩らし、草履を履いて立ち上がった。そして、胸元から煙管を取り出し、吹かしはじめた。
「興が醒めたわ。今日の話はこれでおしまい。こに、恨むならわんこを恨みなさい」
「わんわんのせいだー」
「なんでそうなるんだよ……」
 般にゃーが気分屋なのは今に始まったことじゃない。だから俺は半ば諦めて、庭掃除を再開しようとした。
 普通だったらそうするのだが、今日は少しだけ様子が変だった。
「今日はひげがぴりぴりして落ち着かないの。嫌な気分ね」
 般にゃーの視線が泳いでいた。いや、何かを指し示しているように見える。そして、俺に合図を送っているようでもあった。
 そのとき、般にゃーはその手に持っていた煙管を、紅葉の幹目がけて素早く投げつけた。それは真一直線に飛び、突き刺さった。
 その幹に人陰が見えた。
「何者なの。名乗りなさい」
 般にゃーの一言で空気が張りつめた。鳥の声も風の音も聞こえない。沈黙が続く。姿の見えない睨み合いが続いた。
 突如幹の陰から火焔が吹き出た。
 侵入者の攻撃――そう認識するよりも早く、身体は行動に移っていた。火焔の熱気と交錯し、馳せた。
 やることは決まっている。幹から顔を出す相手に、気合を籠めた鉄拳を喰らわせる。まさかここまで来ているとはつゆも思うまい。駆けながら拳を引き絞る。
「んー、花粉症かな?」
 それは不意のことだった。幹から無防備の相手が現れた。目を細め、鼻をこする女性は、やけに露出の多い、褐色の肌をしている。俺はとっさに攻撃の態勢を解いた、が、全速力の足は少しも止まらない。体勢を崩しながら、距離は詰まり、そして――。
 奴の胸の中に顔をうずめていた。
「おー、わんこったら、そんなに会いたかったのか。よしよし」
 耳元で囁かれ、頭を撫でられる。身震いがして、俺は瞬時に四歩下がった。
「な、なんだよ邪主眠(ジャスミン)! いきなり出てくんなよ!」
「いきなりって……。わんこが先に飛び出てきたんだよ?」
 邪主眠は俺の言っていることを理解していないようだ。奴は赤い眼を点にして、緑色の髪をぽりぽりと掻いていた。そうやって腕をあげられると、豊満な胸囲がより強調されるから、目のやり場に困る。
「じゃあ、どうして俺たちに攻撃したんだよ!」
「攻撃? さっきのくしゃみのこと?」
 くしゃみ? 疑問を繰り返そうとしたところで、木陰から少年が現れた。
「邪主眠ったら、すすきの花粉にやられちゃったみたいでさ、くしゃみするたびに火を吹くから、何度火事になりかけたことか……」
 その少年の顔には、明らかな疲労が伺える。頭襟、烏を思わせる黒髪、山伏衣裳、分厚い書物を脇に抱え、高下駄を履いている。見違えるわけがない、風太郎だ。
「それどころか、茶屋があると勝手に食べちゃうから、道中切り詰めても切り詰めても……」
「この腕念珠、風太郎に買ってもらったんだ!」
 風太郎の苦労話をよそにして、邪主眠は真新しい腕珠を見せつけた。これは風太郎に同情せざるを得ない。
「わんわん、このひとたち、だれー?」
 小日本がやってきて俺の袴を掴んだ。不満げな顔を浮かべている。
「そうか、小日本は知らなかったよな」
 小日本は頷いた。悪い奴らじゃないから、すぐに仲良くなれるだろう。
「こいつらは、俺の知り合いだ」
 小日本の顔が、ぱっと輝いた。


 犬地蔵師匠の村で暮らしていたころ、一匹狼のように見栄を張って、独りきりであった。少なくとも、寄り添ってくる奴らを無視して、独りであろうと努めていた。それでもなお俺に近付く物好きがいた。それが邪主眠と風太郎だった。
 邪主眠は、数年前にひょっこり姿を現した天竺の鬼神だ。ここでの鬼神というのはつまり、鬼とも神ともとれる、程度の意味で、荒々しい神という意味ではない。異国の神さまなんてどっちつかずなもんだ。俺がどんなに拒絶しても、奴はちっとも気にすることなくちょっかいを出してくる。これが腐れ縁というやつだろう。
 風太郎は天狗一族の少年で、邪主眠の近所に住んでいる。俺たちは知らぬ間に村中を探検するほどの仲になっていた。いわゆる幼なじみというやつだ。いつだって俺が先頭で、風太郎は背中にいた。歳が近く、性格が対になっていて、補い合える関係だったから今まで一緒にいられたのかもしれない。俺は先に行動するのに対し、風太郎は先に思考する。風太郎は饒舌だが、俺はそれほどしゃべらない。
「心の鬼の探究、それはある種、自分自身の心の探究でもあるんです」
 屋敷の中で、風太郎はお茶を手にしながら言った。軽い自己紹介のはずだったのだが、いつの間にか心の鬼の話になっている。奴は心の鬼を熱心に研究する変わり者でもあった。幼い頃から聞かされているから、もううんざりである。
「その姿を見て、瞬時に特性を理解しなくては、無防備な心に付け込まれてしまいます。姿かたち、知性、口癖……そういう観点を統合して、あとは勘に頼らざるを得ないんですけど、鬼のある程度の特性なら、一目で判断できるようになりました。例えばヒワイドリ。数多の乳を平等に愛する色欲系の鬼で、その数はごまんといる。人間の三大欲求はご存知ですよね? すなわち食欲・睡眠欲・性欲です」
「はんにゃー、せーよくってなあに?」
「大人になったらわかるわよ」
 小日本の問いかけに、般にゃーは平然と答えた。
「むー……。こに、早く『オトナ』になりたいなあ……」
 大人にならないでくれ、と切に願う俺がいる。
 風太郎の演説は、二人の問答を無視して続いていた。
「これらの欲求から生じる心の鬼、たとえば痩せたい願望があるにもかかわらず暴食に走らせる餓鬼(かつき)、布団のぬくもりに誘われて惰眠を誘う布団羊鬼(ふとんのようき)、そしてヒワイドリや押栗鼠鬼(おしりすきー)……そういった鬼たちは単純でわかりやすいから、その数も非常に多い。そして、亜種もあります。本来どんな乳でもいいはずなのに、ある一人に執着するヒワイドリがいたっておかしくない。何しろ心の鬼は全て解明されたわけじゃないですからね。欲求から生じる鬼がいる一方、怒りや恨み、虚勢高慢、罵詈雑言。そういった感情から発生する鬼は多種多様で、まさに十人十色否十鬼十色百鬼百色。同じ鬼なんていないと言っても過言ではなく、つまり――」
「その話、まだ続くの?」
 般にゃーはすっかり呆れていて、紅葉饅頭をかじっていた。小日本はうとうとと頭をゆらゆらさせ、邪主眠は般にゃーの二又尻尾を興味深げに眺めていた。
「す、すみません! 鬼閑獣(きかんじゅう)が憑いちゃったみたいですね」
 心の鬼で冗句を言う輩を、奴以外に見たことがない。しばらく見ない間に、ずいぶんな通になったようであった。
「ま、その知識は評価するわ。わんこも見習ったらどう?」
「んなこと――」
「いえ、僕は全然ですよ。わんこに敵うのはこの雑学と空を飛べるくらいですし……」
 反論しようとしたところで風太郎が謙遜の言葉を述べた。おかげで俺はすっかり何も言えなくなってしまい、自棄になってお茶を一気に飲み干した。舌が火傷するほど熱かっだが、何食わぬ顔をする。
「ところで般にゃーサマ」
 咳払いをし、風太郎が問いかけた。
「般にゃー、でいいわ」
「恐れながら……般にゃー、僕たちを何の目的で呼んだんですか?」
「あー、そういえば、犬地蔵のジッチャンはなんも言ってなかったねー。ただ、般にゃーのとこへ行けって」
 邪主眠が饅頭を頬張りながら言った。
 すっかり忘れていたが、確かに気になる。村からこの山まで、結構な日数を歩かなくちゃいけない。遊びに来るだけではあまりにも遠い。般にゃーのことだ、師匠に理由を言わずに二人を寄越したのだろう。
「邪主眠は風太郎の護衛のために来させたの。風太郎、貴方に重要な役目を与えるわ。いい? わんこの御供をなさい」
 一刻の沈黙が流れた。驚愕のためというより、疑問を孕んだ沈黙だった。転寝から覚めた小日本が、きょろきょろと辺りを見渡した。
「なあ般にゃー、俺は鬼子の供をしているつもりだ。供が供を持っちまっていいのか?」
 再び静寂が続いた。小日本が心配そうに俺と般にゃーを交互に見ていた。般にゃーは眼鏡を上げると、おもむろに立ち上がった。そして、縁側から庭に降り、再び煙管を取り出した。人差し指に火を燈し、煙管に火を点けると、一口吸い、大きく息を吐き出した。霞のような紫煙が浮かび、そして消えた。紅葉の一葉がさらりと落ちた。
「わんこ、貴方は旅に出るの。鬼子の元を離れて、風太郎と一緒に国を巡るのよ」
「な……」
 言葉を詰まらせた。あまりに突然のことで、どう切り返せばいいのか分からなくなってしまった。そもそも、頭の中でちゃんと整理できておらず、何一つまとまってすらいない。
「き、聞いてねえよ、そんなの!」
 だからその程度のことしか言えなかった。
「そりゃ、今初めて話したんだから」
 般にゃーは至極当然と言った風に返した。
「道中苦しんでいる人間がいたら助けるの。それが貴方への課題よ」
「人間を助ける? 冗談じゃねえ」
 人間はただ鬼子を畏れ、苦しめるだけの存在だ。その真実が頭の中を駆け巡っている。でも、思考は止まったままだ。
「神が人を愛さなければ、だれが人を愛すのよ。貴方は半人前にしろ、愛す側なの。立場をわきまえなさい。ちょっとは感謝されるようになってから私の前に現れることね」
「んなこと言われたったって」
 般にゃーの一言一言が突き刺さって、じわりと胸と顔が熱くなった。立場ってなんだよ、愛するってなんだよ。そんなの、俺には分かんねえよ。人間は人間を愛さないのかよ。それなら、人間の存在理由ってなんなんだよ。
 般にゃーは、何食わぬ顔で煙管を吸っていた。それが腹立たしくて仕方なかった。いっそ旅に出て、般にゃーを見返してやろうかとも思った。でもそれは般にゃーの思う壺だろうし、鬼子の元を離れることに、どうしようもない不安を覚えていた。
「こには、こにはやだよ!」
 小日本が精一杯の声を張り上げた。
「わんわんいなくなっちゃうの、や!」
「そうですよ、最近の鬼が強くなってることだって、般にゃーならご存知でしょう?」
 風太郎も般にゃーの意見には反対の姿勢であった。
「聞く話によれば、隊を組んで襲う鬼だっているそうじゃないですか。今、わんこを別行動させる必要があるんですか?」
「だからこそ、よ」
 般にゃーは煙を吹き散らして言った。
「わんこを旅に行かせるのは、緊急事態だからよ。今はまだ鬼子一人で互角に戦えるけどね、手に負えなくなる日がきっと来るわ。その前に底上げをしなくちゃ、私たちは死ぬしかない。私達はそういう綱の上に立っているの」
 底上げ、という言葉に俺は身震いがした。それは、俺がみんなの足を引っ張っているような、そんな響きを持つ言葉だった。俺を否定するような言葉。左遷。旅へ行かされるってことは、戦力外ってことなんじゃ。
「連携も大切よ。でもね、賢い相手は弱点を突いてくる。一度崩れた連携ほど哀れなものはない。間もなく卑劣な死がやってくるわ」
「でも、旅をしなくたって、鍛えられるし、連携だって……」
 傍から見れば、今の俺は目を覆いたくなるくらい悲愴な姿をしているのだろう。それでも、俺はここに留まりたかった。
「根本的なことを分かってないみたいね」
 訴えは容易く切り捨てられた。
「どうも最近、嫌な予感で髭がぴりぴりするのよ。強い邪気はちっとも感じないのだけど、例えばあの木の上とかね」
 俺は呆然としていて、般にゃーの言葉を聞き流してしまっていた。
 だから、煙草の煙を吹いた般にゃーが、不意に煙管を紅葉の幹に投げつけても、しばらくそれに気付かないままでいた。
 煙管の突き刺さった紅葉が勢いよく燃え上がった。それは焔の幻影であった。ようやく俺は事に気付いたのであった。
「出てきなさい、卑しい鬼よ!」
 叫ぶが早いか、燃え上がる紅葉から人型のものが落ちてきた。忍の服を着た者だった。体中に付いた幻影の火を払いのけているうちに、般にゃーが駆け出していた。忍は袖を払うのをやめ、手裏剣を般にゃーに投げつけると同時に左へ走り出した。般にゃーは手裏剣を掴みとり、投げ返す。直接忍にではなく、その進行を妨げるために奴の足元を狙い、それは突き刺さって烈火となった。忍は飛び退き、樹上に隠れた。
 紅葉山がざわめきだす。風が枝葉を揺らしているのだろうか。それともあの忍が風のように木々を伝っているのだろうか。奴は今、どこにいる?
「邪主眠は私の援護を。わんこはこにを守ってあげて」
「りょーかーい」
 邪主眠はのんびりと庭に降りると大きく伸びをした。胸が引き上げられ、大きさが強調される。
 一方俺は「戦力外」の言葉を追いやって、小日本を茶の間の隅にやり、その前に立ちはだかっていた。一切の攻撃も通させない。その心意気だった。
「風太郎、どうかしら、何か分かる?」
 風太郎は一呼吸の間に思案し、常に肌身離さず持っている書を開いた。そこにはありとあらゆる鬼の図が書かれていた。
「忍の鬼のようですから、身は素早く、多くの武器を駆使するはずです。心の鬼か、堕ちた神の鬼かは分からないですが、少なくとも戦い慣れてはいるはずです。邪気は薄いけど、気を抜かないほうがよさそうですね。むしろ強い邪気を隠していて、僕らを翻弄する気かもしれない。呪術に長けた鬼によくある型ですよ、これは!」
「御明察だな」
 部屋から女性の声がした。
 俺ははたと部屋を見渡した。今、この間にいるのは、俺と小日本と風太郎の三人だけだ。そして、それは明らかに小日本の声ではなかった。無邪気さはなく、研ぎ澄まされた理性を持った声だった。般にゃーのような間延びた印象はなく、きびきびとした鋭さを感じる。
 間違いない、敵だ。
 とっさに臨戦態勢に入るも、姿が見えない。さっきからどこに隠れている? そのくせ先の声はとても近くから聞こえた。
「まさか!」
 直感が天井を見上げさせた。奴は今まさに天井から落ちてくるところだった。音もなく畳に着地し、両股を大きく開いて重心を下げている。忍の姿だった。
 一瞬目が合ったような気がする。凛々しい釣り目は細く、額金に描かれた巨大な目がぎょろりと俺を貫いた。覆面から除く顔は、若々しい女性のものだった。その手に鞭のようなものが握られていた。それに気付いたころには俺の視界は失われていた。頭から伸びる雄々しい角が、残像として眼の裏側でちらついた。
 鞭で目を潰されたらしい。俺は、少しも反応することができなかった。
 今まで戦ってきた何よりも、速い敵だった。
 疾風がすぐ脇を過ぎた。
 小日本の短い悲鳴を、全身で感じた。俺はとっさに小日本を呼んだ。しかし反応はない。息すらも聞こえない。ただ、小日本の気配が刻々と遠のいていくことだけは分かった。
 黒とも白ともつかないまぶたの裏側で、小日本の残像を追った。平衡感覚がつかめず、足元がおぼつかない。縁側で足を踏み外し、鼻先から転んだ。痛みで頭の中が真っ白になる。鉄の味がする。
 小日本を負う手段は、空気の震えを捉えるこの身と、直感だけに限られていた。
 今の俺には、どういうわけか、それだけで充分であった。
 小日本は、今目の前にいる。
 俺にはその確信があった。
「今すぐ小日本を離せ、卑怯者」
 燃えるような怒りをたぎらせて、言った。
「卑怯者?」
 思った通りの場所から、聞き慣れぬ声がした。
「まさか、本気で言ってるわけではないな?」
 毛が逆立つような、冷徹さを思わせる声だった。
 何も見えないまま臨戦態勢に入った。でも今なら奴の攻撃を見切れるような気がした。理屈でない不思議な力のようなものが俺の周囲をうずまいていた。
「目的遂行のためには、使えるものは全て使う。地理を活用し、弱者を利用する。それをお前は卑怯と称すのか? そんなもの、武士道が創りだした幻想だ」
 しかし、奴はちっとも攻撃しないどころか、ほんの些細な攻撃の意欲すら感じ取れなかった。それなのに俺は一寸も動けなくなっている。
 俺の心の弱みを、もてあそぶように突いてくる。
「武士道を妄信するのは、全てを心得た剣士か、戦を知らぬ素人だな。貴方は――自分の至らなさを私のせいにしているだけだろう?」
 俺は、戦わずして負けていた。
「退きなさい、わんこ。奴はくないを持ってるわ。下手に動かないで頂戴」
 遠く背後から般にゃーの声がした。
「目的は何なの、答えなさい」
 般にゃーが侵入者に問いかけた。奴はしばらく沈黙を続けたあとで、こう口を開いた。
「……ぷりんとやらを、頂くつもりさ」
 このあと、あらゆる出来事が立て続けに起こった。
 最初に、前方から何かが跳びついてきて、俺に抱きついてきた。敵の不意打ちだと思って、やられた、と思った。そのまま俺は尻もちをついた。後頭部を地面にぶつけて、意識がもうろうとする。鼻をすする音がした。そして、今俺を抱きしめるのは、小日本なのだと理解した。
「まさか……いや、そんな」
 それから般にゃーの、戸惑いまじりの声がする。
「行けるはずがないわ。だって、貴女は『知らない』はずだもの」
 何が行けるはずがないのか、この状況で何が起こっているのかは分からない。しかし心当たりが全くないわけではない。
 紅葉山には「門」がある。
 田中の住む世界。紅葉石に触れ、「ある言葉」を唱えると行けるという。その「言葉」は俺だって知らない。向こうの世界はそれだけ秘匿的で禁忌的な世界なのだ。
 それなのに。

 ――いただきます。

 奴がこう呟いた途端、奴の気配は消え失せてしまった。
 しばらく俺は、何も考えられなかった。頭が揺らぐ。今まさに意識を失うところであった。
「わんわん、わんわん! こわかった、こわかったよお!」
 頬に温もりを感じた。
 それは涙だった。
 小日本、お前は、俺のために本気で泣いてくれているのか。
 俺は馬鹿野郎だ。
 馬鹿野郎だ……。
 そして、眠るように気を失った。


 ちらちら。ひらひら。
 いつの間にか、母上の膝を枕にして、まるくなっていた。
 ぽろぽろ。ふわふわ。
 子守唄が聞こえる。幼年の俺はとろんとしていた。母上の手が、とん、とん、と拍を刻んでいた。それにあわせて息をする。肺いっぱい春の空気に満たされた。
 薄目をあけて、母上のかおを見た。そのかおはぼやけてよく見えなかった。
 そうだ。俺は母上の記憶をもっていなかった。
 それなら、この唄はいったい誰が? 春の陽だまりのなか、ぼんやりとそのかおを眺めた。すると、すこしずつその輪郭がはっきりとしだす。
 子守唄をうたうのは、小日本だった。
 しかし、俺の知っている小日本ではなかった。俺よりも、鬼子よりも背の高い女性の姿をしていた。
 やさしくつむられた目の、やわらかいまつ毛の一本一本。口ずさむ唇はうるおいに満ちていて、引き締まっていた。
 そして、互いのかおのあいだに、豊満な胸があった。俺は赤子のように、その手をのばしていた。
 うすくひらいた小日本の目と俺の目があうと、小日本は音もなく微笑んだ――


 はっとして、大きく目を見開いた。
「わっ」
 目の前に小日本がいた。俺のよく知る、小柄な童女だ。夢かうつつか、その無垢な瞳から、じわりと涙が溜まりだした。
「わんわん、よかったぁ……!」
 小日本は泣き出した。その声を耳にして、ここが現実であることを理解した。俺はすっかり夢を見てしまっていたらしい。
 泣かしてばかりだ、と思う。
「憐れね、わんこ」
 脇の座布団に般にゃーが座っていた。はだけた着物から谷間が露出していて、思わず目を背けてしまった。
 般にゃーの隣には、向こうの世界から帰ってきた鬼子が座っていた。どこか沈んだ面持ちで俺を見ていた。鬼子のことだ、罪悪感を抱いているに違いない。邪主眠も風太郎も心配そうにしている。
「こにがいなかったら、誰が面倒を看たのかしら?」
 般にゃーの言葉には、呆れと安堵が混在していた。見えなかった目が見えるし、鼻の焼けるような痛みも引いていた。
 小日本の恋の素。その癒しの力によって、俺は急速に回復したのであった。
「わんこ、ごめんなさい、私がいれば、こんなことには……」
 鬼子は、色々と言葉を考えた挙句、そう言った。
 そりゃ自分がいない間に仲間の一人を人質にされ、もう一人が負傷したと聞けば、謝りたくなるのも分かる。鬼子がいたら、もしかしたら小日本が人質にされていなかったのかもしれない。
 でも、そういう問題じゃない。
 俺は俺を許せなかった。
 強くなりたい。これまでにないくらい切に、切に願った。鬼子を守るため、小日本を守るため……。守るだけじゃない。いつか必ず、あの鬼を倒してやる。
 だが俺は俺というものに自信が持てなくなっていた。打ちひしがれていた。何度も鬼と戦ってきたが、一度も勝てない。拳を交えることなく戦意を喪失してしまった。仲間を危ない目に遭わせている。
「般にゃー、俺、強くなれるのかな」
 そんな俺でも、まだ望みはあるのだろうか
「その見込みがなかったら、とっくに追い返してるわよ」
 般にゃーは、さも当然のように言った。
「安心して。貴方には素質がある。ただそれを充分に発揮できてないだけなのよ」
 般にゃーは決して、俺を見放しているわけではないのだ。
「強くなりなさい。そうしたらきっと、あなたの憧れる鬼子の本当の強さに気付くはずよ」
 いつの日か、白狐爺に言われたことがある。

 ――鬼子の道は鬼子のものであるし、お主の道はお主のものである。お主が鬼子の培った道の上で戦おうなど、それこそ宿世が許さぬというものじゃ。お主はお主の道を究めるが良い。そのためにも大いに悩みなさい。苦心して見つけだしたものこそ、真の生きる道じゃよ。

 その本意がなんとなく分かったような気がして、思わず感情がこみ上げる。何度も何度も目をこする。
 そして、決心した。
「俺、旅に出るよ」
 行く宛はない。ただ、今なら人間の生活をちゃんと見ることだってできるような気がする。すっかり零の状態になってしまったから、何だってできる。
 それに、俺には帰る場所があるのだから。
「風太郎、荷物は任せたぞ」
「やれやれ、わんこは荷物の管理が苦手だからね」
 風太郎は肩をすくめ、ため息をついた。まんざらでもないようだった。
「じゃ、おねーさんはしばらくここにいようかな。ここらへんの茶屋ちぇっくも済んでないし」
 邪主眠は相変わらず呑気であった。多分、この旅が終わって帰ってきても、邪主眠の性格は変わらないだろう。
 床から身を起こし、大きく伸びをした。
「あの……わんわん」
 目を赤く腫らした小日本に袖を引っ張られた。じっと見上げられた。
「こにはね、本当は、行ってほしくないの」
 その小さな訴えに、言葉が詰まる。
「でもね、わんわんが行きたいっていうなら、こに、ガマンする。だから――」
 それからその手を胸に置き、ゆっくりと目を閉じた。そして、その手を俺に差し出す。手のひらには桜色の鼻緒があった。
「恋の素と、こにのきもち、いーっぱい注いであげたから。ケガしちゃっても、これがあれば大丈夫だから、寂しくなっちゃっても、これがあれば大丈夫だから、だから……」

 かえってきてね。

 そう言って、小日本はまた泣いた。
 この涙を、最後にしてやる。もう二度と泣かせはしない。俺は誓いを心に刻みつけて、少女の涙をそっと拭った。

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目次
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「兄貴、行ってきます!」
 昼食の食器を洗っているときだった。バタバタと音を立てて階段を降りた匠は、リビングの入口から顔を〇・五秒出して、そしてひっこめる。
「ちょっと待った!」
 行ってらっしゃいと言いかけて、匠を呼び止めなくてはいけない要件を思い出した。廊下へ出て玄関に向かうと、匠は扉に手をかけ、今にも出掛けるところだった。
「遅刻するから急いで!」
 やれやれ、と僕は溜息をついた。
 昨晩、尿意を催して目覚めたときも匠の部屋から明かりが洩れていた。こうなることが分かってるのならもう少し早くに寝ればいいのにと思う。
 少しは女の子らしく、お肌のことを気にして早寝早起きの習慣をつけてもらいたい。余計なお世話だろうけどさ。
「早く!」
 おっと、これ以上焦らすといけない。
「いつごろ帰れるか?」
「わかんない」
 匠は即答した。よっぽど慌ててるらしい。
「夕飯肉じゃがなんだけど」
「了解した。七時には帰宅する」
 匠は即答した。よっぽど食べたいらしい。
「じゃ、行ってきます!」
 玄関ドアが乱暴に開け放たれる。匠がドアの隙間からすり抜けるように外に出ると、昼を過ぎた晩夏の光が玄関に入り込んできた。
 俺の靴を蹴っ飛ばして行っちゃったけど、肉じゃがを楽しみにしてくれてるから許してあげよう。
 湯気立つじゃがいもを嬉しそうに頬張る匠の顔を浮かべる。これは作り甲斐があるってもんだ。
 ああでもその前に掃除と洗濯を済まさないと。それから近所のスーパーでじゃがいもとしらたきを買いに行こう。どうせだから明日の朝サラダにするキャベツも買っておこうと計画する。最近野菜は値上がりしているからあまり買いたくはないが、家族の健康を思うとどうしても手放すことができない。
 そんなことを考えていたら、玄関扉がかちりと音を立てて閉まっていた。電気を点けてないから薄暗い。昼間のうちは極力電気を使わない。環境のために(という名目上、家計のために)節電節水は怠らない。真夜中は匠がパソコンをフル起動させているから、その分昼は特に電気を使わない生活をしている。半ばやけくそで、もう半分はゲーム感覚だったりする。
 まるで主夫みたいだな、俺。
 幼少時代から家事の手伝いが好きでやってたけど、匠が中学に入学したのを機に母が仕事を始めたので、家事は僕が取り仕切るようになった。そうして四年か五年か、もうそれくらいになる。いつの間にか炊事洗濯裁縫なんでもござれの主夫マスターになっていた。
 だからといって義務感を背負ってやっているわけじゃない。好きなようにやっている。
 最近匠が活動的になってるのは気のせいじゃないみたいだ。話を聞くかぎり、新しい友達ができたらしく、ヒノモトオニコさんと言うらしい。
 どういう綴りなのかと訊くと、ニッポンのオニのコ、と書くらしい。
 日本鬼子?
 なんとも珍しい名前だ。まあ何にせよ、いつか会ったら「うちの愚妹がお世話になってます」と頭を下げないといけないな。
 無断で泊まりに行かれたときは心配したけど、鬼子さんが不良というわけでもなさそうなので好きにさせている。
 つい一ヶ月くらい前まで、匠はドージンシとかいう漫画を買うときか、イラストだか絵本だかのスケッチをするときくらいしか外出しなかった。ほとんどの休日を自室の中で過ごしていたから、頭からきのこが生えるんじゃないかって心配したものだ。でもこの夏は鬼子さんのおかげで匠の表情が活き活きするようになっていた。やはり、友達というものは人の性格に影響を与えるものなんだと思う。
 というより、兄の視線で匠の背中を見ると、昔の匠を取り戻しているような、そんな気分にさせる。
 まだ小学校か、幼稚園か。ちっこい頃の匠はわがままなおてんば娘だった。隙あらば外に飛び出して木登りするような子で、いつも服を泥だらけにするから、母さんの手伝いをしていた当時の俺はいつも溜息を洩らして泥を落とす作業を日々行っていた記憶がある。
 その一方で、女の子の友達とはおままごとや絵本を読み合いっこしたりするという女々しい一面もあった。
 匠はどんな人とも当然のようにコミュニケーションができた。学生をしている自分としては、その能力が羨ましいとさえ感じるし、きっと多くの人が欲するスキルだと思う。
 一階畳部屋の押入れに仕舞ってある掃除機を取り出す。今日は肉じゃがに力を注ぎたいので、掃除はほどほどにしておく。窓をきれいにしたかったけど、それはまた次の日曜日にやろう。
 リビングにたまった微量の埃をまんべんなく吸引する。ソファの下も忘れずに掃除機をかける。廊下、階段と決まった動作で決まったコースを辿る。階段の隅っこのごみを吸い上げるのにいつも手間取ってしまうけど、ここをなおざりにしてはあっという間に埃のアジトが構築されてしまう。要清掃地区だ。
 二階に出て正面の扉に「たくみのへや」という看板が下がっている。
 この部屋は立ち入りが禁じられているし、俺だって年頃の女の子の部屋に好んで行きたがるような性癖は持っていない。
 ましてや妹だ。漫画やゲームのようなドキドキイベントなんて、現実世界の兄妹じゃあ発生するわけもない。
 しかし……匠はちゃんと掃除してるだろうか。
 多分してないよな。うん。
 いい加減強行突破して掃除しなくちゃいけないけど、今日は見逃してやろう。肉じゃが生成のためのMPを温存するために。



 おてんばだった匠が意欲的に外へ出なくなったのは、匠が小学三年のときの事件が原因だと思っている。
 その頃友達の中でテディ・ベアが流行っていたらしい。本当に他愛ない流行だ。たった数人の女子グループの、ほんの数ヶ月間だけを賑わせたプチブームだったのだろう。
 匠は口癖のように「テディベアが欲しい」と母さんにねだっていた。我が家にはそのぬいぐるみがいなかったのだ。
 母さんは最初のうちこそダメの一点張りだったものの、何日もねだられた結果、「じゃあ誕生日にね」と折れたのだった。
 そのときの匠の喜びようといったらない。俺の部屋まで来て、テディベアが家にやってくる旨を繰り返し繰り返し語った。
 ペットならまだしも、ただのぬいぐるみでこれまで期待に胸を膨らませることができるのは、きっと匠に純粋で素晴らしい想像力が備わっているからなのだろう。
 しかし匠の誕生日に贈られたのは、テディベアではなかった。
 名もなきクマのぬいぐるみだったのだ。
 プレゼントボックスを開けた匠の笑顔が、まるでローソクの灯を吹き消すように、ふ、と凍りついた。
 母さんはクマのぬいぐるみなら何でもいいと思ってたのだろう。そういう勘違いはよくある。
 幼年時代、俺は黒猫を全てジジと呼んでいた。犬のことはガーディと呼んでいた。
 だから母さんが匠の言う「テディベア」を単なる「クマのぬいぐるみ」だと解釈したのは、何も不自然なことではない。母さんには何の悪意もない。
 しかし、そう思えるのは今現在の回想する俺が大人だからだ。当時の俺には、まして当時の匠には、そんな勘違いを理解することなんてできなかったし、許容することもできなかった。
 プレゼントを開封したまま思考停止になった匠の姿を、俺は一生忘れることはないだろう。
 その瞬間匠の頭に何がよぎっていたのか、そんなの匠自身にしかわからない。
 今日の誕生日パーティでね、テディベアが来るんだよ。明日持ってきてあげる、楽しみにしててね――友達にそう言っていたのかもしれない。
 あるいは、膨張に膨張を重ねた気持ちに手が付けられず、ただただ抑えきれない幸福と法悦に胸をときめかしていたのかもしれない。
 とにかく、匠の感情はプレゼントボックスを開けた瞬間ずたずたにぶち壊された。
 匠は泣いて喚いて、その日は本当に、本当に散々な一日だった。
「ごめんね、テディベアは見つからなかったの。だからこれで許して、ね?」と母さんがなだめたが、匠はそのいたわりの手をはたいた。
 俺と母さんと姉貴の自信作であったデコレーションケーキをパイ投げのように呆気なく窓に叩きつけ、姉貴に暴言をぶちまけ、俺を蹴り飛ばした。
 そしてプレゼントのぬいぐるみを引き裂いてゴミ箱に捨てた。
 それはヒステリーのようなものだったけど、そうしたくなる気持ちもわかる。同じ立場だったら、俺だって同じことをしたはずだろうから。
 匠は数日部屋に引きこもった。匠があのまま誰とも口を聞かず、暗い影を落としたまま生きるのではないかと思うと、心配で心配で仕方がなかった。匠は感情を昂らせることの少ない子だから、余計に不安が募っていく。
 でも次顔を見せたときは、痩せはしていたものの、不思議に思えるくらい元気で明るかった。どんな顔して接したらいいのか迷ってた俺に、「兄貴、好きな子にフラれちゃった?」なんて冗談をかましてきたときは呆気にとられて何も言い返せなかった。
 女性は元カレとの思い出をすっぱり忘れると雑誌に書いてあったが、その説は元カレに限らず通用するものなのだろうか。家族はみんな驚いたけど、一方で安心していたのは言うまでもない。



 匠はこのことを覚えているのだろうか。
 小三の記憶だ。もうないのかもしれない。
 でも俺は今まで一度も忘れたことはない。というか、忘れたくなかった。あの日、俺は家族というものが崩壊する音を聞いた。今もときどきその音が耳の奥のほうでこだまする。
 そんなこともあって、捨てられたぬいぐるみは縫い合わせて自室のクローゼットの奥に仕舞っている。臥薪嘗胆ではないが、あの惨劇を忘れないため、時折ボロボロのぬいぐるみを見ては意気込んでいたりする。
 でももうこの変な習慣もやめていいのかもしれない。俺は大学生で、田中は高校生だ。二人とも非行に走ることなく今に至っているし、もう家族から巣立つ年頃だ。
 外に出たがらなかった匠の日常生活にはやや不安を感じていたのは確かだが、でももう日本鬼子さんがいる。
 大丈夫だ。
 「たくむのへや」という看板の掛かったドアを開ける。
 漫画とCDばかり入った本棚の隣に掃除機を置き、しわひとつないベッドシーツの上で膝立ちになってクローゼットを開けた。
 タンスの隅に置かれた小箱。この中にぬいぐるみは入っている。ここ半年間は触れていないが、だからといって存在そのものを忘却することはなかった。
 息をすっと一つ呑み込み、勢いよくふたを開ける。
 かび臭い空気が入っていた。
 冷や汗が流れる。
 ぬいぐるみは、その行方をくらましていた。
「まさか」
 匠に気付かれていた?
 半年以上このふたを開けることはなかったけど、その間に?
 もしそうだったら、匠は激しいフラッシュバックを起こすに違いない。いや待て、それは妄想だ。現実を見ろ。ここ最近匠がおかしくなっていた気配はあったか? ないだろう? なら匠はぬいぐるみを見てはいない。そうだ、そうに決まっている。待て、焦るな。答えを即急に求めるな。冷静に情報を結合させろ。
 そうだ、匠は、ぬいぐるみを見つけてしまった。
 でも、狂ったりなんて、しなかった。
 つまりそういうことなんだ。
 大丈夫なんだよ、だから。
 ぬいぐるみが懐かしい思い出として匠の一部になっているのなら、心配することは何もない。
「大丈夫だ……」
 安堵の息をつきたいのに、どうしても自分の意思を確かめずにはいられなかった。

   φ

 目が覚める原因として最も多いのは廊下の足音だ。天魔党一ヶ城天守三階の床はよく軋むことで有名であり、そしてここに『忍』幹部の部屋が設けられている。二階と四階をつなぐ廊下に面する私の部屋は、忍にあらざる者も通るため、なおさら足音が耳障りなのだ。
 『鬼を祓う鬼』日本鬼子敗北の報を聞き、私は歓喜するよりもまず睡眠にありつける安らぎの情のほうが遥かに大きかった。城に戻り、この部屋の襖を開けるや否や、畳の上に伏せて三日は眠ってやると心に誓ったのだ。
 そしてあの日から三週間が経った。
 まとまった眠りにはいまだにありつけていない。
 職業病と診断されても私は驚かない。どんなに努力をしたってほんの些細な物音で目が覚めてしまう。鼠の足音を敵襲と勘違いしてしまったときは、本気で自分自身を怨みたくなった。
 こうなったら「眠り」の定義を変えるべきかもしれない。
 そうだ、それがいい。
 私、黒丑ミキ(くろうしミキ)は提案します。
 睡眠は、目をつむったその瞬間から開始されるのです。まばたき一回刹那の睡眠、塵も積もれば山となる、一文銭も小判の端。
 きっと寄せ集めれば日の入りから日の出まで寝続けてるくらいの睡眠時間にはなりましょう。なんて健康的な生活。なんと健全な私。
「そんなわけねえっつうの……」
「どうしたミキティ」
 ため息交じりに声が出ていたらしく、『忍』の頭である鵺様が声をかけてきた。
「申し訳ございません、独り言にございます」
 頭巾を上げて口と頬を覆い、恥じらいの情を隠す。鵺様は関心もなく床を軋ませ、蛇のように長い虎柄の尾を振って前を歩いていた。思わず息が漏れる。
 ミキティってなんだよ、とため口で訊きたい衝動を抑える。そもそも私は鵺様がミキティと呼ぶ主旨をよく理解していないのだ。本名を口にしてはいけないという理由であれば烏見鬼(おみき)と呼べばいいのに、ミキティ、ミキティと懲りずに呼び、しまいにはそれで定着してしまった。
 しかも、鵺様は特に私をからかうでもなく、ましてや好意をもって呼び名を付けたわけでもないのだ。
 親しみを込めて下さっているのか、それとも単なる気まぐれなのか。忍の端くれとして読心術を得てはいるものの、鵺様は表情からも声質からも感情というものが剥離されていて、真意が謎に包まれてしまっている。
 一段一段が膝小僧ほどの高さもある急な階段をのぼる。
 一ヶ城の四階。御用部屋の襖を開けた途端、鎧をまとった獣の鬼が足元まで転がってきた。
「どういうことだ、青狸大将!」
 続けざまに天魔党四天王の一人、『侍』の黒金蟲様の怒声がやってくる。寝不足の頭に響いたので、憂さ晴らしにと、すり抜けざまに青狸大将の手の甲を踏みつけた。無論、忍の端くれとして、誰にも見えないよう隠密に。
 鵺様が黒金蟲様の隣の座に着いた。黄色い縁のついた黒い胴鎧が擦れて、高く軽やかな音を鳴らす。
 私は広間の隅で畏まる四天王の部下にならって端坐した。上座と広間の両脇にふす幹部一同でコの字型になるよう青狸大将を囲む。
 上座は三席空いている。四天王『局』の座、『大老』の座、そして『領主』の座だ。
 ここ数日大老様は床に臥しておられるため、『局』の長、藤葛の局(ふじかずらのつぼね)が看病されておられる。
 領主様は私が御用部屋に参上できる身になってから一度もまみえたことはない。現在消息が不明であるということ以外私は知らないし、おそらく他の幹部もそうだろう。
「おいおい、何の騒ぎだい黒金さんよお。青い狸君に、とっときのおはぎでも食べられちまったのか?」
 その冗句に四天王の一人で筆頭陰陽師の鬼駆慈童様が失笑した。その幼い頭に乗っかる烏の使い魔、穢墓司(えぼし)が蔑むような喚き声を上げた。
 黒金蟲様は一度鬼苦慈童様を流し目で睨めつけ、咳払いをした。
「安心しろ、宿敵おはぎは最後の一騎まで残らず我が胃袋が討ち取った」
 訳すと、おはぎ完食おいしかったです、となる。
「先刻の怒りは他でもない、青狸が任務を全うせず、人間の統べる世で発見した強き心の鬼との連絡を途絶えさせた故にだ」
 青狸大将の任務。それは田中という媒体を利用して人間の支配する世界へ侵入し、天魔党の人間界支部となる鬼を見つけ、天魔党員にするというものだ。なるほど連絡が途絶させたことは重大な失態であるといえる。
「ま、いいんじゃねえの?」
 堅苦しく重々しい空気を軽々しい寛容の声が引き裂いた。鵺様だ。
「向こうの世で利用できる鬼を見つけた。いや俺としちゃあ向こうの世に行けたことだけでも大きいと思うんだが」
「確かに、今までどーやって行くのか分かんなかったよね。あるってことは知ってたけど」
 筆頭陰陽師様の幼げな声が続く。その白髪の掛かる翁の能面を外した姿は一度も見たことがないが、その声から推察するに元服すらしていない若人なのであろう。とても四天王の一人であるとは思えないが、中成になると途端におぞましい邪鬼と化すのは語るまでもない。
「そこの青だぬき」
 鵺様は罪人の如く跪く青狸大将の名を呼んだ。
「何でありましょう」
「お前、どうやって人の統べる世へ渡ったんだ?」
「そうだ、青狸大将、我らに教えよ」
 黒金蟲様が身を乗り出す。我々天魔党にとって、人の統べる世、つまりかの田中匠と呼ばれる人間の暮らす異界への進出は悲願であるのだ。
 天魔党が生まれる前から、千歳の歴史の中で数多の人間がこの世へと流れ着いたことがある。逆にこちらの世の者が向こうの世へ行くこともあった。
 二つの世を渡る術は重鎮の神々によって守り通されている。千年の封印を解くために、なんとかして情報を引き出そうと我々はもがいているのである。
 さておき、あちらをよく知る者から噂が広まったのだろう。近年、こんなことをよく耳にする。
 異界の世は、心の鬼が支配しつつあるのだ、と。
 心の鬼、すなわち人間の悪しき心が生み出さす鬼によって。
 天魔党には今、即戦力が求められている。強大な神々に勝る鬼、そしてあの日本鬼子を完全に負かせるほどの力を持つ鬼が。向こうの世には、それにふさわしい心の鬼がいるのかもしれない。
 でも、正直そんな思惑なんてどうでもいい。私の使命は、与えられた任務を淡々とこなしていくだけなのだから。
 御用部屋には静寂が広がっていた。今なら眠れる。けどここで居眠りしては『忍』の名を汚すことになる。舌を奥歯で噛みしめ、充血した眼で青狸大将を睨みつけた。
 私を含め、部屋の全ての視線は頑丈な鎧を着こんだ青狸に注がれている。奴はその全ての視線を背中で受け止め、一刻一刻を満喫しているように見えた。
 この状況を楽しんでいる。私にはそう感じた。
「股猫の大神、般にゃーの治むる紅葉山、その頂にありまする紅葉石」
 姿の上では畏まっているものの、その言葉は堂々としていて、威厳に満ち満ちていた。
「田中匠は石に触れ、こう述べる。往くときは『いただきます』と、還るときは『ごちそうさま』と――」
「戯言を申すでない!」
 いまだかつて聞いたことのない巨大な落雷の音に部屋がゆらめいた。鼓膜と頭に響くから勘弁してほしい。黒金蟲様が殺気と共に立ち上がり、野太刀、黒砂刀(くろざとう)を抜いていた。
 部屋がどよめく。
「黒金蟲様、どうかお気を安らかに」
 重臣憎女が止めに入るも、黒砂刀の切先は青狸を向いたままであった。今にも一刀両断にしてしまおうという気迫をまとった武士の姿に、我々は鷹に睨まれた小鼠の如く、凍り漬けにされてしまった。
 凍結されているのに、汗が止まらない。
「黒さん、煽られてる煽られてる」
 鬼駆慈童様が小声で言った。声の調子からして黒金蟲様をいじっているようであった。鬼駆慈童様はおそらく唯一黒金蟲様でお遊びになられるお方であると思う。まったく世の中は広いものだ。
 黒金蟲様はしばしの硬直ののち、刀を収めてどっかと胡坐を掻いた。
「さて、黒金さんは戯言とか何とか言ってたわけで」
 膝の上に肘を乗せ、それで頬を支えている鵺様が口を開く。
「正直俺もこんな馬鹿げた合言葉を神々が考えてるとは思えねえ。だが、あえてふざけた言葉にすることで、俺たちを惑わすという常套手段も考えられる。そもそもここで青狸が俺たちを騙しても何の利もねえしな。そこでだ、ミキティ」
「烏見鬼とお呼び下さい」
「じゃあ烏見鬼」
 じゃあってなんだよ、という異議を申し立てそうになりかけるも、これ以上精神疲労の値が上昇したら本当に眠れなくなってしまう。
 忍装束の裾を握りしめて言葉を待つ。
「確か、読心術を心得てるんだよな?」
「はっ、わたくし烏見鬼は忍術をつかさどる者として、表情、声音、仕草、瞳孔の揺らぎ……あらゆる角度から相手の心を分析することが可能です」
 書物に記された文面を暗唱するように自身の仕様を明らかにした。でもこれは鵺様や天魔党の皆方に対して申したのではない。すでに大半が私の特技を知っている。
 これはそう、青狸大将に向けて暴露したものなのだ。
「ならミキ……烏見鬼はさっきの青狸大将の言動から、俺たちが見落としてることはあるか?」
「烏見鬼ちゃん、正直に言っちゃってよ? わかってると思うけどさ」
 鬼駆慈童様が補足するように言う。青狸の兜の隙間から冷や汗が滴り落ちるのが見えた。
 いや、それは汗などではない。焦りと動揺、そのものだ。
 視線が知らぬ間に青狸から私へと注がれていた。
 隠密行動ばかりで、常に孤独でいたからなのか、私は他人の眼差しというものが苦手だ。注目されると極度にアガってしまう。半人前で仕事に慣れてきた頃なんて特にひどかった。
 でも、今は違う。
 仕事であるならば、終始抜け目なく務めに励む。どんな無理難題であっても、淡々と命令を遂行する。私はそうしてここまでの地位に昇りつめたのだ。
 緊張など、封殺できる。
「青狸大将の口振りからは強い威厳を感じ取ることができます。誰の下にも就かない自立心と独占欲が窺えます。なるほど、荒廃衆の長を名乗っているだけはありますね」
 私はここで空咳をついて一区切りした。
「そして、そのひざまずき、かしこまる姿は一見我々に服属しているように見えますが、よくよく見るとその背はこの状況を楽しんでいるように思えます。しかし異常性癖的、刹那的な快感に酔いしれているわけではありません。今後、立場が逆転した将来に思いを馳せているが故に、大将は楽しんでいるのです」
 誰も彼もが無言であった。どよめきを想像していたが、おそらく青狸大将の謀反は多くの者が予測していたのだろう。私の言葉に異を唱える者はなく、むしろ案の定であるといった表情を一様に見せている。
 奴と共に日本鬼子を偵察に行かなければここまでのことは口にできなかった。
 おそらく奴は隠していたつもりなのだろうが、常に功績を切望し、隙あらば私の寝首を掻こうと企んでいるのが丸見えだった。おかげであの任務の最中寝首を掻かれないように一睡もできなかったのだ。今日はその復讐も兼ねている。
「大将の処置は四天王諸公にお任せ申し上げます」
 そう言って私は額を畳に付けて礼をした。
「おのれ、烏見鬼……」
 青狸大将の憎悪が襲いかかってくるが、それらを全て無関心によって追い払う。
 私は悪くない。
「承知した。件は藤葛の局を加えた我が四天王が協議し、決しよう」
 黒兜から垣間見える朱色の隈取が施された黒金蟲様の眼と合ってしまった。こうなれば、頷くことすらできずに硬直し、喉を震わせることすらできずに正座をするしかなかった。
「して烏見鬼、もう一つ問おう。もはや信用されぬ青狸であるが、奴が申したその言葉を真と捉えるか? それとも嘘偽りと捉えるか?」
 黒金蟲様の眼が今まで見たことがないほど大きく見開いている。
 目を逸らしたくて仕方がなかった。でもここで目を逸らしたら言葉に力がなくなってしまう。態度だけでも勢威を誇示せねば、目上の者にものを申しても真意を伝えることができないのだ。
「青狸大将は、今まで一度も嘘偽りを口にしたことはありません。我々を騙してもそれは手柄にならないからです」
「ふむ……」
 黒金蟲様は腕を組んでしばし思考にふけっていた。ちらりと鵺様に目配せすると、鵺様は口角を五度程上げた笑みを洩らして応じた。
「烏見鬼に命ずる」
 たった一言であったが、私の肌を総立ちにさせるには充分すぎた。
 命令が下る。
「単独で紅葉山に潜入し、紅葉石から人の治むる世へと渡れ」
 いうなれば、合戦を援軍なしで潜り抜け、敵本陣に単独潜入し、大将の首を掻き切れという命が下されるが如し。
 無理難題だ。
 また睡眠時間が削られてしまう。
「そして綿抜鬼と接触し、人を惑わして心の鬼の力を増長させるのだ。日本鬼子を倒せるのであれば、隙を見て倒せ。全ては現場の判断に任せる」
 あの般にゃーと相対せねばならぬと考えるだけで憂鬱になるのに、その関門のあとに日本鬼子の討伐とは。
 次故郷へ戻るのはいつになるのだろう。
 しかし、これほど退屈しのぎになって面白い任務はない。つまらんひよっこどもを偵察する日々とはしばしの別れとなる。
 そう思うと、私らしくもなく胸の高鳴りを覚えるのだった。
「そして最後に、これが最も重要な任務であるのだが――」
 生唾を呑み込む。まるで忍の道を志したばかりの頃に返ったように、私は下される任務にときめいていた。
「――土産に『ぷりん』とやらを買ってきてはくれぬか」
「……は?」
「噂に聞いておらぬか? その形は黄色き富士の山の峰の如し。その頂は『からめる』なる黒き雪が如し。その味は将軍おはぎを優に上回ると聞く」
 いや、そういう話じゃなくてですね。
「我とお憎の分を頼むぞ」
「いえ、黒金蟲様、私は――」
「俺には『もんぶらんけえき』を頼むぜ、ミキティ」
 憎女の困惑した声を鵺様のお気楽な声が掻き消した。つかミキティはやめろと言っただろおい。
「ミキちゃん、僕は『ぶぃよねっと・ふらんぼわあず』の大で」
 なんですかそれ。
 御用部屋の厳粛な張りつめた空気が、いつの間にか甘ったるい香りに満たされていた。
 もう付いていけない。
 いや、今日に始まったことじゃないんだけど。



 その後、私の寝室で出立の支度をしていると、襖が突然開かれる。着替え中ではなかったから良かったものの、私には私的生活空間というものがないことを改めて実感させられた。
「なんですか、鵺様に鬼駆慈童様」
 兵糧丸を腰袋に詰めつつ、あえて鬱陶しそうに対応する。真面目な黒金蟲様や藤葛の局だったら怒りをあらわにするだろうが、気まぐれな鵺様と生成ののんびりな鬼駆慈童様は別段怒ったりしないし、むしろこうして接するのが普通になってしまっている。私もかしこまった言葉は苦手なので実に話しやすい。
「何って、はなむけだよ。ほら」
 と、厳つい文字の羅列されたお札を四枚もらった。
「鵺様、こんなもの作れましたっけ?」
 呪符を書いているところなんて見たことがないし、そもそも鵺様は身軽さを追求している。
 武器は槍状に硬化できる尾や小手に収めた鉤爪であり、他の装備はその軽量に特化した鎧だけで、荷物らしい荷物は何一つ持たないのだ。
 食料は人間の感情であるため、私のように兵糧丸なんて準備しない。
 必要なものは現地調達。この点だけは忍の長として見習うべきであるが、そんなことはどうでもよくて。
「これ、鬼駆慈童様のですよね」
「あら、ばれちった?」
 能面の内側からへらへら笑い声が聞こえる。ばれるに決まっている。まあどうせこの二人は私の怒る顔を期待しているのだ。
「鵺様からは何もないんですね?」
 私は事務的に事実確認を行う。
「いや、渡そうと思ったんだ。旅に役立つもんがあったからな」
「でも、ないんですね?」
「一昨日城下の女にやっちまってたことに気付いてだな、ははは」
「ははは、じゃないですよ!」
 どうせ女と遊びすぎてお金が無くなったんだ。それで代わりに金目のものを渡したんだろう。
 四天王の癖に、鵺様はたまに私からお金をせびることがある。軟派な奴だとは重々承知だったが、そんな大切なものを下劣な女に売り渡してしまうほどだとは思わなかった。
 というか、私に渡すものがなかったらはなむけとか言うなよ。
 穢墓司がカアと鳴いた。
「まあまあミキちゃん。怒ると隈ができるよ」
「できません!」
 まあ過剰な苛立ちで不眠症に拍車がかかり、その結果隈が濃くなるという構造ならあり得るが、今はそんなことどうでもいい。
 深呼吸する。声を張り上げて目が回りそうだった。めまいを伴う幻聴が鳴っている。
「まあまあ、僕の護符に免じて、鵺っちを許してやってよ」
 先程の四枚のお札には解読できない言語が記されている。
「邪気封じの札だよ。次の新月までの分はあるよ」
 天魔党の国が神々の討伐を受けないのは、国全体が巨大な邪気封じの呪によって覆われているからだ。
 中成の鬼駆慈童様がつくりあげたこの呪によって、邪気が外に出るのを防ぎ、神々が感知できないようになっている。
 この札はその呪の携帯版のようなもので、効力は落ちるものの、一札で一体分の邪気を封じ込めることができる。
 日本鬼子偵察の任務の際もこれのおかげで敵に気付かれることなく白狐の村に潜入することができたのだ。
「ありがとうございます、鬼駆慈童様」
 これで般にゃーの領域に潜り込むことが格段と容易になった。
「お礼は『ぶぃよねっと・ふらんぼわあず』でいいよ」
 だからなんですか、その呪文は。



 そして現在、般にゃーの結界の間近で待ちぼうけをくらっているのである。
 この手の結界は鬼を排除するためのものではなく、九分九厘鬼を感知するためのものだ。排除系の結界なんて高天原との境くらいにしかないのではないだろうか。
 閑話休題、この結界に入った鬼はすぐさま般にゃーの元に届き、日本鬼子によって早急に祓われる。なんだか猫の髭みたいな結界だなと思う。
 邪気封じの札を所持しているとはいえ、おそらくは下級の鬼程度の邪気は発生していると見積もっている。何しろ札というものは効果がまちまちなのだ。
 私が何を待っているのかというと、中級以上の鬼、それなりに存在感を有している鬼を待っているのだ。あわよくば複数体が望ましい。
 その鬼と共に潜入すれば、般にゃーは私でない他の鬼をまず退治するよう日本鬼子に命じるだろう。そうすれば日本鬼子が鬼と戦う間、時間的余裕が生まれる。
 般にゃー自ら私を祓いに来たとしても、そのときは逃げつつ紅葉石を目指せばいい。わざわざ戦う必要はないのだ。
 その機会を待つため、結界の境にある林の中で自給自足の生活を行っている。
 でも兵糧丸はなるべく食べないようにしている。
 偵察は一方的な消耗戦でもある。蛇や蛙がいるのであればそちらを優先して食べる。
 蛋白源が見当たらなくなって初めて非常食が有効活用されるべきだというのが自論だったりする。
 食事もそこそこに日課となりつつある木登りを始める。
 別に運動不足だからこんなことをしているわけではない。森林においては地面より木の上の方が長時間身を隠すのに適しているのだ。それに遠くを見渡すこともでき、草原の先にある街道もよく見える。
 街道を歩いている商人と商人に化けた鬼の識別をしつつ、肌で鬼の気配を探る。根気と集中力が必要なこの単調で退屈な作業を続けてもう何日目だろうか。
 まれに鬼が紛れていることもあるが、その鬼も弱小の部類に入るもので、結界に入っても間もなく日本鬼子によって駆逐される。
 無能な鬼の末路に同情などしない。
 ましてや日本鬼子の考えを肯定することなど私には不可能だった。
「同族殺しがいかに罪深いことか、奴は知らないのか?」
 結界の間近で冷酷に薙刀を振るう日本鬼子の姿を思い起こし、唇を噛みしめた。
 鬼の繁栄のためにも、日本鬼子は私の手で倒してみせる。
 だからこそ、今は待たなくてはいけない。
 怒りに身を任せてしまいたくなるときこそ理性を働かせて自制しなければならないのだから。
 改めて見回りを続ける。
「あれは……」
 結界へ向かう街道を歩く一組の旅人を見つける。一人は白みを帯びた麻のローブを着こみ、フードをかぶっていた。
 ここから直線距離にして四町は離れているが、その胸のふくらみを確認することができた。私より明らかに大きい。
 ――否。任務遂行に余分な肉は必要ないのだと理性を働かせて自制する。
 異国の様相を纏う女の袖から伸びる手は、黒く陽に焼けているように見えた。
 天竺からの使者だろうか、そんな予感が脳裏をよぎったが、その予想は一刻のうちに掻き消された。
 見えるはずもない強い気迫が女から煌々と燃え上がっているのだ。
 しかもそれは神々しさも兼備する気配であり、私はいつの間にか見とれてしまっていた。
 確かに、あの女は天竺からやってきたのだろう。
 しかし人間ではない。
「鬼神だ」
 思わず枝から手を離してしまいそうになるも、左腕で幹を抱き、私はぽそりと呟いた。
 隣の少年は女の従者なのか、それとも単なる道連れなのかは判断しがたいが、赤い頭襟を被っているから修験者か天狗なのであろう。
 きっと天狗だ。幼い人間が修験者になるとは到底思えない。
 天狗は人々から崇められると同時に恐れられている。神であり、鬼でもある。
 旅人に扮した鬼神と天狗は私にとって誠に好都合であった。おそらくこの二人が結界を通過したとき、般にゃーはその曖昧な気配に困惑するだろう。
 そこに私も便乗するのだ。上手くいけば誰にも気づかれずに紅葉石のある山の頂まで辿り着けるかもしれない。
 さあ、仕事だ。
 音もなく木から飛び降り、草原をすり抜けるように駆け抜けた。

 この日、アタシは悩んでいた。周囲からすればたいしたことのない話なんだろうけど、自分にとっては迷惑この上ない場面に遭遇してしまっていた。
「アンタに憑いた鬼、祓わしてくれへんか?」
 秋も宿題締切も間近に迫る八月末のどんよりとした日だった。近所の境内にある祖霊社、日本さんと出会った場所で、私は新たな出会いをしたのだった。とはいえ、今回のは街を歩いてたら道端アンケートの人につかまっちゃったくらいひどい出会いだけど。
 まずそのアンバランスな仮面が目に入る。四つ目の人面が彫られている。たぶん歩くとき頭がふらついて大変なんじゃないかって思うけど、さておいて次に着目してしまうのはその手に持つ三叉の矛と胴長のホームベースみたいな盾だ。ああ、確か隼人盾とかいうやつなんだろうけど、そいつに荒っぽい白ペンキで「ONI IS OUT!!!」と塗りたくられている。そんな装飾しちゃって大丈夫なのか?
 うん、なんかアフリカの先住民さんのコスプレイヤーに出くわしてしまったようだ。とはいえ、その肌は何十年も日の光を浴びていないんじゃないかって思うくらい白くて、指で弾いたら折れちゃいそうなくらい細い手足だった。髪も暗室で発芽した植物の葉っぱみたいに色素を失って白くなってしまっている。活動的なコスプレをした病弱少女。しかも、その背中には大きな黒い巻物……いや、本物かレプリカかは判別できないけど、ありゃどう見ても恵方巻きだね。いや別に今は節分でもなんでもないけど。
 そして尻尾に毛を生やした丸っこい赤小鬼と青小鬼を引き連れてるってオチ付きときた。
 何が「鬼を祓わしてくれへんか」だよ! 憑いてるのはそっちのほうじゃないか!
「あーすみません、アタシ間に合ってるんで」
「まーまー、石鹸付けたる。ウチ太っ腹やから、ティッシュも付けて月二千九百八十円でどや……って、新聞の勧誘ちゃうわ!」
 なんか、激しいデジャヴをを感じる。
「あのなあ、三文芝居しとるんやないで? 東西折衷とか求めへんから!」
 アタシも東西折衷なんて求めてない。今まで関西に行ったことなんてないけど、あっちはこんな人たちがたくさんいて、毎日がボケとツッコミなのだろうか。まったく、精神参っちゃうよ。いや、この子だけが特別なんだ。そう信じることにしよう。
「ウチは本気さかいに、アンタにゃ鬼がひそんどるで」
 うん、別に鬼の存在は否定しないさ。それだけでもアタシは他の人と比べて随分寛容だと思ってほしいくらいだ。でもこの人を信用しないのには二つ理由がある。
 一つ、日本さんのケガがよくなってからはほとんど毎日一緒に遊んでるけど、アタシの心にあるらしい鬼を感知して教えてくれたことはないし、アタシも鬼が憑いてるような、あの変な気持ちはちっとも感じない。
 二つ、人に鬼は祓えない。祓えるのは鬼子さんと神さまだけだ。よって、この真っ白くてげそげそした女の子はあやしい人物なのである可能性が高い。うん、そう、例えば中二病の患者さんだとかね。独断とハッタリでアタシに鬼があると判断を下しちゃって、勝手に勧告しちゃってるんだ。
 以上の考察により、導かれる選択肢は以下の通りだ。
 一、逃げる。
 二、逃げる。
 三、逃げる。
 四、逃げる。
 アタシは即断して、二の「逃げる」のカードを奪うようにして取った。
「じゃ、忙しいんで!」
「あ、ちょ、待てえ! 待てえゆーとるんやで!」
 待たない。こういう人が現れたら迷わず退けって兄貴が言ってた。幸運なことにここは祖霊社だ。二十メートルハードル走。ハードルはお賽銭箱で、ゴールは本殿の祠にある紅葉の小石だ。疾走し、跳躍する。今なら地区大会で優勝できる自信がある。紅葉石まであと少し。あそこに行けば――。
「た、田中さん、ごめんなさい、遅刻してしまいました!」
 目測二・五メートルメートルのところで新たな障害が出現した。
 危ない! なんて言えるヒマがあったら避けている。そのまま日本さんの懐に着地する姿勢をとった。とぼけた顔がアタシを捉えるとともに、二人重なって祠の前に倒れこんだ。紅葉色の着物から、深くて甘い香りが舞った。
「もう逃がさんで」
 草履を引きずり、じゃりじゃりと距離を詰められる。大股で歩いているのを見れば、せっかちな性格だってことがが窺える。彼女の前と後ろにそれぞれ赤と青の小鬼が短い足を動かしていて――なんてのんきに考えられる時間はないんだけど。
 立ち上がって日本さんの腕を引き、紅葉柄の背中をはたいてあげる。不思議と汚れはきれいに落ちて元通りになった。
「って、ちょい待ち」
 大きな四つ目の仮面をかぶった女の子の声が、突如として震えた。小刻みに揺れる人差し指がアタシを通り越して日本さんに定まっていく。
「ア、アンタ……鬼子やないか」
 まるで向こうの世界の人を見ているようだった。日本さんを見て、恐れを抱いている。心の底から、まさに日本さんこそが恐怖の根本であるかのような、そんな顔をしていた。
 次の瞬間、銀髪の女の子の目の色が変わった。リモコンでチャンネルを変えたみたいに、本当に一瞬で切り替わり、矛を突き出して駆け出した。
「ここで会ったが百年目ェ! 鬼子ぉ、この手でアンタを――」
「日本さん、あの子と知り合いなの?」
「さあ?」
 女の子が転んだ。いや、関西流ひな壇ズッコケを炸裂させたと称したほうが正しいだろう。こちらが言葉を失うほどの美しいフォルム、ストリームの転び方であった。砂煙まで見惚れてしまう。連れの鬼も絶妙なタイミングで転がる。まさに経験によってすべてを計算しつしているのであると言っても過言ではない。
「まてまてまてまて! なんかもー何からツッコんでええのかわからんわ! あのな、ウチの名前くらい、このお面見たらわかるやろ!」
 額に取り付けられた、頭一つ分はあるだろう仮面を指さす。
 そんな印象にしか残らないものを付けてるのに、記憶をいくら漁っても思い当たる節はなかった。日本さんも首を傾げている。
「どー見ても方相氏のナリやろが!」
「ほーそーし? プレゼントか何かを包むつもりなの?」
「そーそー、ウチ、キャラメル包みが得意なんやで。ラッピングなら任せとき……って、包装紙ちゃうねん! 方相氏! 紙ッ切れと一緒にせえへんといて!」
 ちょっとボケたところでこれだ。この子の思考回路はどうなってるんだろう。相当回転速いんだろうなあ。
「ウチは如月ついな! またの名を役小角の末裔、役追儺(えんのついな)や!」
「ちょ、またの名ってなんだよ!」
 そういう設定の芸名なら至極納得がいく。ファンにはならないけど。ごちゃごちゃと名前が飛び交ったけれど、脳内検索で検出される名前はなかった。
「役小角……」
 でも日本さんは何か心当たりがあるみたいだった。
「エンノオヅヌ?」
「ええ、古の時代、鬼や神さまを操ることができるほどの法力を備えていた呪術者の名前です」
「ふふん、さすがやな。天敵のこと、よー知っとるわあ」
 自称役追儺は得意気に三叉の矛の石突で地面を二、三度叩いた。
「でも、その血はずっと昔に途絶えてしまったと」
 その瞬間には自称役追儺は地面に突っ伏していた。スピーディでアクロバティックなコケである。
「絶えとらんわ! びんびんしとるさかい!」
 幾度となく転びまくってるせいで、戦う前から服は砂ぼこりにまみれてしまっていた。体を張っていることが見て取れる。
「アホも大概にしとき。ウチはホンキなんやで。鬼子くらいあっちゅー間にケチョンケチョンにしたるわ」
 なんというか、この必死さを見ると、初めて会ったときの日本さんを思い出す。あの時はまだ日本さんを鬼として見てなくて、単なるコスプレ少女だと思っていたんだっけた。
「あのさ」
 懐かしい。胸の奥で、小さく言葉を漏らす。
「君、本当に鬼を祓えるの?」
「トーゼンや! 役小角の末裔を甘く見んといて! 今から倒したるから目ェかっぽじってよう見とき!」
 自信の塊みたいな台詞を吐き、役追儺は矛を日本さんに向けて身構えた。
「あー、違う違う。そういうことじゃなくてさ、君、言ってたよね、アタシに鬼が憑いてるって」
「えっ! 田中さん、また憑いちゃったんですかっ?」
 自称方相氏の供述によれば、だけど。やっぱ日本さんの鬼的な感覚では心の鬼を感知してはくれないようだった。
「この通り、日本さんはアタシに鬼が憑いてることに気付いてないんだ。ここでアタシの鬼を祓うことができたら、いい牽制になると思わない?」
「アンタの思惑はわかっとるで。ウチが除霊の呪術を唱えとる間に鬼子が奇襲仕掛けるっちゅー成算やろ!」
 びしぃという擬態語が音になって飛び出るように、相方氏追儺は勢いよく指をさした。
「いえ、私はそんな卑怯な真似はしませんし、あなたがその気でないならば戦いたくありません」
 と言って日本さんは薙刀を祖霊社の脇に寝かした。追儺氏は歯ぎしりしながら日本さんを睨みつけるけど、返答は無言のみだった。
「アホらし、疑うばっかじゃアカンな。アンタの鬼、ウチの編み出した究極エクソシスムで倒したるわ!」
 三叉の矛を天高く掲げ、盾を地球の内核を貫いた。何やらぼそぼそと呟きながら円を描くように矛を振り、上段から突き落とすように刃を向ける。一点の動揺もない黄金色をした六つの眼差しがアタシの目と目の間に集中する。アタシを見ているんじゃない。アタシの中にある「何か」を見ているんだ。そう思う。
「覇ッ!」
 矛が眉間の寸前で停止する。アタシは反射すらできなかった。彼女の突きはただ空を貫通しただけで、アタシはどこも傷ついてはいない。でも、目に見えない「何か」がアタシの身体を通り抜けたような、そんな気がする。
 ……というのは、単なる気のせいだったのかもしれない。具体的にいえば、方相氏の役追儺と名乗る如月ついなの「究極エクソシスム」が、まるで中学生が意気込んじゃってカッコいい踊りを追求した結果、五年後に思い出してみると恥ずかしすぎてのた打ち回っちゃうような代物へと成り下がっちゃった系の「アレ」なのではないかと。
 時は止まっている。頭上のケヤキですら、葉の擦れる音をやめて、じっと役追儺を見下していた。
 目に見える変化は何一つとしてなかった。アタシの体にも寸分の異変は感じられない。
 役追儺の顔が引きつりだした。
「あ、あれ……? おっかしいなぁ」
 わけもなく三叉の刃を上下に振る。しかしそれもただの空振りに終わり、彼女は今、二死満塁で三球三振したばかりの八番ライトのポジションに立っていた。
「な、なんや! その『うわーこの子痛いわーマジ痛いわー』っちゅー視線はっ! きょ、今日は調子が悪いだけや! 決して鬼を倒せへんっちゅーことちゃうで! ええな、勘違いしーひんといてな! ここんとこ重要やから! 今日んトコはここまでにしたる! 命拾いしたな、鬼子! 次こそアンタを倒したるから、足洗おて待っとき!」
 日本さんに人差し指を突きさして、長々しい台詞を滑舌よく十秒というガトリングな早口で吐き捨てた。正直、鬼が祓えるかどうかより、こっちのほうが尊敬に値する。
 再び沈黙が訪れる。頭上のケヤキはもう呆れてしまったのか、無関心に葉っぱを揺らしている。
「って、そこ足やなくて首やろがっ! って、どっちかツッコまんかい! ウチぁピン芸人ちゃうねん! 方相氏やねん!」
 と、どう見てもヨシモトのピン芸人にしか見えない少女は今度こそ祖霊社を後にした。
「なんだったんだ、あの子……」
 二匹の鬼も見えなくなったところで、正直に現状の心持ちを漏らした。
「とりあえず、害はないみたいですけど」
 うーん、あの様子だと、性懲りもなく日本さんにちょっかい出してくるような気がしてならないような気がする。まあ、面白い子だし、どうせ日本さん相手じゃ敵わないんだろうから、むしろ個人的には歓迎なんだけどね。
「それじゃあ日本さん、邪魔が入ったけど、改めて心の鬼祓いに行こうか」
「そうですね。今日は五、六体祓いたいですね!」
 はは、相変わらず無邪気なクセに好戦的だよなあ。

   φ

「それじゃあ、日本さん、またね!」
「はい、今日もありがとうございました!」
 田中匠と日本鬼子の会話が終了した。
 日が暮れてもじめじめと肌にまとわりつく空気が離れない。もう九月も近いが、残暑は始まったばかりだ。この暑さはあと一ヶ月続くのだろうと田中匠は思考し、もう勘弁してほしいとうんざりした気持ちを生じさせた。それに加え、残った宿題の山を思い起こすと、私まで鈍々しい瀝青の湖に呑まれていく感情に侵される。
 日本鬼子が向こうの世界へ飛んでいく。ようやく私は呼吸を許されたような気がした。
 全く、願望を吸収せずに人間の心に宿ることがいかに至難であることか。私はまさに半殺しの目に遭ったまま生かされている。あの青狸大将の願望鬼が私を消滅させないよう力を送ってよこすのだ。まるで生きた心地がしない。
 今朝は祓われることを覚悟した。如月ついなだか役追儺だか判然としないままであるが、奴は私の存在に気付いていた。あのときは存在維持できる最低限の力しか放出していなかったにも拘らず、少女は確信をもって――少なくとも田中匠の五感と意思を介してでは――私の存在を見抜いていた。幸いその強大な霊力を活かしきれていないようであったから、私は今もなお田中匠に束縛されて密偵を続けられているのであるが。
 しかし現在の本務は田中匠の心に居座って日本鬼子の監視を行うことではない。こちらで天魔党の駒となる鬼を模索し、吟味し、取り憑いて操って人間共を混乱させることを主としている。日本鬼子の生態観測なんかより断然私を活かせる指令だ。私はただ願望を貪るように食い漁っていればいいのだ。これ以上楽な仕事はない。本能の赴くまま、存分に成長できるというものだ。
 宿主は祖霊社を出て八幡宮の中を歩いている。頭の中はいかにして効率よく宿題の山を崩していくかでいっぱいで、私の居場所はごくごく限られた空間であった。早く劣悪な環境から脱したい。願望を吸う私が願望を抱くとはなんと滑稽なことであろうか。
 しかしなりふり構ってはいられない。日本鬼子と別れた今から、田中匠の自宅の門を開けるまでが残された唯一の機会なのだ。日本鬼子がいる間は、他の鬼に憑いたとしても諸共斬られるのが関の山であるし、田中匠の家では鬼に憑くことができない。家というのはそれだけで結界の役割を果たしているのだ。だからこそこの道のり、神社から田中匠宅までの七分間、私は全ての感覚を五感に移行させ、外界に張り巡らす。
 この世界には神というものが少ない。神社の木々ですら、神が宿っていない。御神木に、絶命寸前の神が息んでいるのみである。これでは町の無格社の神はとうに堕ちたか死んだかしているのだろう。こんな世で人間がこうも平然と生きているのが不思議でならない。つまるところ、自然に宿る鬼もいない。鬼は人間の心に宿れる者のみが生き残って、あとは皆絶えてしまったのだと言っても過言ではない。
 人と会わなければ鬼にも会えない。しかし、日が暮れた細道に人間の姿はどこにもなかった。いっそ田中匠の願望を増幅させて一思いに暴れてやろうかとも思ったが、そんなことをしてどうなるわけでもない。かの日本鬼子に斬られてしまったら仕舞いであるし、伊達や酔狂で田中匠の感覚を介して日本鬼子を観察しているわけではない。生き残るためには、人間に憑いて暴れるより、鬼に憑いて身を守るしかないのだ。私と私の分身はそうして千歳を乗り越えてきた。
 切れかかった街灯に羽虫がたかっている。もう田中匠の家は間近であった。あの光を越えた先を右に折れてすぐ左の門をくぐってしまったら、私は田中匠が宿題を終えるまで鬼に憑く機会を失ってしまうのだ。これ以上の長居は私を発狂させる。田中匠の身体が街灯を抜けた。どうか、曲がった先に人間がいてほしい。この際鬼が憑いていなくても構わない。外出する人間であればそれで結構。社会の歯車にされて機械的に仕事をこなす人間が望ましい。頼む。私は願望を籠めた。
 だが道の先には誰もいなかった。鬼も神もいない闇だけが続いていた。
 田中匠が門に手をかける。こうなれば宿主の兄である田中巧に憑いてしまおうか。奴はこの宿主より動く。買い物にもよく出かける。そうすれば――
「田中さん」
 宿主の鼓膜が震え、外界からの信号を認知した。突然だった。つい先ほどまで人間の気配はどこにもなかったというのに。奴はどこから現れたというのか。
 田中匠はこの声に聴き覚えがあるようだったが、咄嗟に名前と顔を浮かべることができなかった。
 次に視覚が対象物を認識する。好き勝手に伸ばされたぼさぼさの髪の毛、彼岸花の髪留め、暗くてよく見えないが、たいそう疲れ果てた様子を醸し出す目のふち、しかし暗闇でも映える白く弱々しい肌。薄汚れたつぎはぎだらけの服は、どこか手術跡のように思われた。
 宿主の思考は夜明けの清流のように輝きを放ちだした。田中匠は一度この少女と会ったことがあるのだ。
「ああ、君は――」
 田中匠の喉が震える。が、途端に思考は固まる前の混凝土(こんくりいと)のような液体に変化した。私は為す術なく底なしの沼にはまっていく。
 田中匠は奴の名前を知らない。ただ熊のぬいぐるみを渡され、友達になっただけなのだ。よって私も奴の名を知らない。
 だが驚くべき事項はそれではない。
 奴は『人ならざる者』なのだ。
 なぜそうなのか、私にもわからない。宿主は奴を人間と見なして接しているから、具体的な情報は入手できない。しかし奴から発する気はどう見ても人が放てるようなものではなかった。ともかく神の去った世界に奴のような存在がいるのは、甚だ珍しい事態なのではないだろうか。しかし、これ以上驚喜すると宿主が私を関知しかねない。無心を装って奴の様子を舐めるように視てやろうではないか。
「田中さん、何してるの?」
「え、ああ、今まさに家の門を開けようとしてるんだよ」
「ここ、田中さんのおうちなの?」
「まあね。狭っ苦しいところだけど」
「そうなの……。あの、田中さん」
「なんだい?」
「あの、あした、田中さんとあそびたいな」
 その瞬間、田中匠の思考回路に「宿題」という二文字が八重束になって迫ってきた。もう一分一秒を争う事態になりつつあるのだ。
「あーごめん。しばらく遊べないかもしれない」
「そんな……」
「ご、ごめんね。アタシが今までサボってたせいなんだよ。締切……いや、うん、宿題早く片付けるからさ、そしたら一緒に遊ぼうよ」
「しゅくだい、いつ終わるの?」
「んー、く、九月明けには……」
「おそいよ、田中さん」
「ごめんっ! ホンットーに、いやマジで全力を尽くして必死にもがいてあがいて片付けるから! そうしたら、そうしたら遊ぼう! うん! 全力で遊ぼう!」
「ほんとう?」
「もちろん。この田中匠、心の底から誓ってあげましょう」
 心の底から黄金に輝く脂肪のようなものが膨れ上がった。誓いだ。その言葉が嘘ではないことが手に取るようにわかる。
「それじゃあ、これから缶詰になるけど、次日差しを浴びるときが来たら、よろしくお願いね」
 そう声を発して、田中は門を開けた。
 ごめんね、と後方に罪悪の感情を抱いて、門をくぐる。
 ようやく見つけた。奴は鴨だ。人ならざるもので、田中匠に近しく、温もりに飢えている。これ以上ないほどの立地条件ではないか。
 さらばだ田中匠。貴様の心は実に居心地の悪い場所であった。
 これから私は奴の心に乗り移る。願望の鉱山だ。苦行を強制されていたのだから、次は傍若無人に驕り昂ってやる。


 田中さんがあそんでくれないの……。
 奴の心は、タクラマカンのように、何もない荒んだ大地が広がっていた。砂の一粒一粒が孤独を象徴し、澄み渡った蒼天の先にある無数の星は皆田中匠を示していた。この宿主は願望の塊であった。鉱山のように屑が見当たらないのだ。
「貴様は田中匠を欲しているのだな」
 私は砂漠の中心で声を張り上げた。空間が動揺する。
「あなたはだあれ」
 貴様は心の中でそう返答した。
「私は願望鬼。貴様の願望を叶えてやろう。貴様の願望はなんだ?」
 田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい田中さんとあそびたい。
 貴様の望みが狂ったように迫り来る。私は御馳走を残さぬよう一口で喰った。混じりけのない、深い味わいが身の全体に沁み渡る。
 これはいい。青狸大将の脂身のように濃厚な馳走も良かったが、この宿主の濁らぬ情は何にも勝る。余計な着色がない分、純水のように通りがいいのだ。
 さあ、洗脳を始めよう。
「ふむ、ならば見方を変えてみようではないか。そもそも田中匠と遊ぶということは、田中匠の合意が必須であることにお気付きか。そう、田中匠が貴様の提案を拒み続ければ、永遠にその願望は果たされぬのだ。苦しいだろう? 辛いだろう? すさむだろう? だからこそ見方を変えるのだ。貴様はかつて田中匠にぬいぐるみを贈ったそうではないか。そうだ、あの綿の飛び出た熊のぬいぐるみだ。貴様は田中と出会うまで孤独であった。間違いないな? その時貴様の心を紛らわしたのはそのぬいぐるみであった、間違いないな? その頃は幸せだった。遊ぶ相手がいたのだからな。ぬいぐるみはいつまでも受身だ。感情を持たぬ。貴様が伸ばした指先を拒むことは決してない。ぬいぐるみは貴様に忠実だからな。何があっても背くことはしない。殺せと命ずれば殺し、死ねと命ずれば死ぬ。完全な下僕となる。貴様は心ゆくまで戯れるがよい。ぬいぐるみで遊ぶことに合意は無用だ。しかし、今そのぬいぐるみは田中匠が所有している。だが気にすることは何一つない。田中匠もぬいぐるみなのだ。田中と遊ぶのではない。田中で遊ぶのだ」
 宿主の砂漠から音を立てて気味悪い地衣類が生え出て、同時に幻覚的の茸がかしこから湧き出てきた。
 田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ田中であそぶ。
 貴様の願望は爆発した。私はその爆風を残さず貪ろうと試みた。
 その欲望が仇となった。奴の願望が、私の想像以上に――いや、想像以上であるという想像はしていた。しかし私の想像はあまりにも卑小で夢のないものだったのだ――極大で、大宇宙を形成するまでになっていた。一日や二日で形成されるものではない。一個人に向けられる凄まじい飢渇を持ち合わさねば、これほど欲深い心の闇を生み出すことは不可能である。
 だが私は願望の吸収をやめなかった。いや、やめてはならなかった。ここで停止すれば、たちまち私は呑まれ掻き消されてしまう。生き延びるため、生きながらえるため、生存本能が絶叫しながら、私は死ぬために食っていた。
 呆れるほどの計算違いだ。私は観念した。私以上に欲深い存在はいないと思っていたが、上には上がいることを思い知った。
「綿抜鬼」
 私は貴様に名を付けた。ぬいぐるみで遊ぶ鬼と化した貴様にふさわしい名だ。
「はは、信じらんねえぜ!」
 綿抜鬼は急激に成長し、田中匠とほとんど変わらない背を獲得していた。つい先程まで幼年の姿をしていたくせに。
 もう私も限界だ。
 まあ、日本鬼子に斬られるよりかはまだましだろう。膨張しきった私は破裂した。
 しかし、私の破片もまた綿抜鬼の願望に呑まれ、宇宙の藻屑となり、ゼロとなった。

   φ

 たぁなかさぁん、あそびましょ。
 貴女の中身はなにいろかしら……?


「貴女が鬼子ね」
 油蝉の不協和音の中で、白い猫耳に眼鏡が印象的な背の高い女性に声を掛けられる。ちょうどやまめをしとめ損ねたところだったので、恥ずかしいところを見せてしまった。
 白狐の村を発って一年と三ヶ月が経った。その経験から察するに、どうも鬼や神さまからは偏見を抱かれていないようだった。もちろん性格的に気に入らない、女のくせに、みたいな見られ方をされることはあったけど。
 あれからもときどき中ラ連のお世話になるけど、私もこにも仲良く語らうことができていた。
「頼むから俺は祓わないでくれよな」と冗談めかして言う鬼さえいた。中ラ連に縋る鬼は、私が祓うような獰猛で凶暴な鬼から日々怯えて生活する鬼がほとんどなので、私たちはむしろ憧れの対象でもあった。有名になるのは恥ずかしかったけど、でも貧しい鬼や神さまからの激励が鬼を祓う力の源になったのは確かだった。
 そんなこんなで、猫耳の女性を見た。今まで見たことがないほど耽美な白い衣をまとっている。焼き付けるような日差しの中、女性は分厚い衣装で直立している。こには川岸で水遊びを楽しんでいた。
「あの、あなたは――」
「ソレ、何に使ってるのかしら?」
 私の質問を完全に無視して、女性は鬼斬を指さした。
「一応、銛の代わりですけど」
 女性が顔を覆い、盛大な溜息をついた。
「驕れる神器も久しからず、ね」
 でも私たちにとって鬼斬は命の源だった。獣を狩り、肉を裂き、枝を削る。柄が長くて料理には不便だけど、慣れればどんな包丁よりも扱いやすかった。
「まあいいわ。アマテラスサマから伝言預かってるから」
 面倒くさそうに白雪の髪を掻き、豊満な胸元から巻物を取り出した。
「ちょ、ちょっと待ってください! あ……いえ、お待ちいただけませんか?」
 天照大御神さま。神々しく輝くお天道様で、とてもじゃないけどこんな私がお会いしていいようなお方ではない。なんと申せばいいのか、なんと反応し奉ればいいか、この泥だらけの着物で無礼はないものなのか、そもそも振る舞いに非礼があるんじゃないのかとか、一気に頭の中があらゆるもので埋め尽くされた。大洪水だ。ちゃんと敬語を使わないといけない。
「えーっと」
 かの御神さまのお使い様は待って下さらなかった。
「『吾者聞八百万神鬼祓之噂。汝鬼子見、勅言』……はあ? ダメダメ、こんなの千年前でも理解できないわ」
 私は理解できない部類に分けられるけど、高天原の由々しい大神さまの方々なら、容易にご理解あそばせなさいますのでしょう。
「こにと一緒に犬神さんの里へ行って、心の鬼を祓いなさい。それが使命よ」
 大御神さまのお使さまはそう威勢よく仰せになられた。
「あ、ああ、あの、このような不束者のわたくしめでございますが……」
「世間知らずな貴方に、二つ世渡りの術を教えとくわ。一つ、下手な敬語を使わない。二つ、私に敬語を使わない」
 でも……と戸惑った。ここまで縛られていない神さまを、しかも大御神さまをさん付けで親しげに呼び表してしまう神さまなんて見たことがない。お怒りを買われないのだろうか。いやそれよりも、そんなお方とこんな世間の最下層の鬼の子が対等に話してしまったら罰が当たるに決まってる。
「いいからそう話しなさい。本来神さまってのは誰とでもフレンドリーなのよ」
「は、はあ」
 ふれんどりいってなんなんだろう。
「ねねさまー、この人だあれ?」
 遊び飽きたこにがやってきた。麻の着物は腰から下が水に浸ってしまっており、その手にはつるつるの小石が握り締められていた。
 誰と言われて、ようやくふりだしに戻ることができた。
「それでその、あなたの名前は?」
「あら、言ってなかったかしら?」
 もう何も言うまい。この人は気まぐれを煮詰めたような性格なのだ。周りの人たちを振り回しに振り回しても、当の本人は何の自覚もないのだ。
「みんなからは般にゃー、と呼ばれてるわ。貴女達もそう呼んで頂戴」
 般にゃー。その名前の由来はどこから来たのだろうか。般若と関係があるのは確かみたいだけど、猫又の女性と何の因果関係も見出せなかった。
「ああ、そうそう、これ忘れてたわ」
 彼女は懐から般若面を取り出した。
「般にゃーの般若、と仮称しておきましょうか。究極的真理を悟った瞳孔を観れば、心の鬼はたちまち人間から引き出されてしまうわ。またその口はよろずの神々と通じていて、貴女の戦いをサポートしてくれるはずよ」
 その深く濃い檜から掘り出された芸術に、私までもが魅入られていく。触れると胸が高く脈打った。般若が目撃してきた多くの事象が逆流して私の延髄を刺激する。神の息吹を感じた。
「それから、そっちのおチビちゃんにはこれね」
 般にゃーは谷間から鈴を取り出した。りりん、と癒される響きが蝉の豪雨をすり抜けて鳴り渡る。こぶし一つ分ほどの大きな鈴だった。
「なにこれー!」
 こには鈴を帯に結んでいる般にゃーに尋ねた。実に嬉しそうな問いかけだった。
「ふふ、これは恋の素。その音色には穢れを清める力に加えて、神と鬼を、鬼と人を、人と人を、あらゆるものを縁で結んで……そうね、みんなが仲良しになれる魔法の力がつまってるの」
「みんな、みーんな、なかよしだもんね!」
 こにはぱしゃぱしゃと飛び跳ねる。般にゃーはちょっと不快そうな顔をしていたけど、割かし気にしていないようだった。
「それじゃ、行ってらっしゃい」
 行く。犬神さまの里へだ。この川を上ってしばらくしたところにそんな里山があると中ラ連の常連さんが噂していたのを思い出す。あの村から人の気配が感じられなくなってしまったどころか、犬神さまの一族の知らせも途絶えてしまったという話も耳にした。噂なんて当てにならないものがほとんどだけど(鬼子が人を襲う、なんてその最たるものだ)、生まれたからにはそれなりの理由があるのだろう。
「あ、ちょっと待ちなさい」
 薙刀についた水を振り払い、こにと一緒に里へ向かおうとしたところで呼び止められる。
「その薙刀、わたしが預かっておくわ」


 どこにでもあるような、何度も見たことのあるような、そんな里だった。山に囲まれていて、田植えをして間もない青々とした稲が見渡す限りに広がっている。その中から素朴な藁葺き屋根の民家が点々と生え伸びている。あぜ道は真ん中だけ申し訳ばかりに裸の地面が見えるけど、あとは大葉子や狗尾草が悠々と陽射しを浴びて背伸びをしていた。
 でも、どこか陰気くさい。人の姿もなければ、鳥や蝉の鳴き声すらしない。植物の天下だった。
 この場所に来た理由なんて、少し考えればわかることだった。
 畏れ多くも大御神さまがご命令なさったんだから、それ相応のゆえんがあって当然なのだ。
 試練なのだ。
 鬼斬なしで、心の鬼を祓う。不可能な話ではない。しかし、相手がおとなしい性格でという前提の話になる。閉ざされた胸の内を心を砕いて開いてやらなければならない。しかも穏便に。無理やりこじ開けようものなら心の鬼は暴れだし、おそらく私はそれに呑みこまれてしまうだろう。危ない綱渡りなのだ。
 現在、神さまと鬼の勢力は徐々に鬼のほうが優勢になっているらしい。堕ちてしまわれる神さま、荒ぶる国ツ神の邪鬼化、そういうものが増えてきているのだ。
「わたしはあまり隠し事したくないし、別に隠せといわれてないから言うけど」
 薙刀を託したあとで、般にゃーが二本の尻尾を振って囁いた。
「アマテラスサマは貴女を利用するつもりなのよ。鬼の力を弱める道具として、貴女を駒として選んだってこと」
 鬼で、神さまと敵対しているわけでもなく、強くて、鬼を祓う道理がある。般若面は私を後援してくださる半面、私が神さまに刃向かおうと思えばいつでも潰すことができる、いわば悟空の緊箍児(きんこじ)なのだ。散歩紐をつけられた私ほど適材な駒はどこを探したっていないだろう。
「それが嫌ならちゃんと言いなさい。わざわざわたし達のメンドーな問題に顔出さなくたっていいんだから」
 上にはわたしから言っておくわ。貴女は今まで通りの生活を送ればいいから。と般にゃーは付け足した。本来なら大御神さまの勅に逆らうことなんてできないのだろうけど、この女性がそういうのであれば、そんなあり得ないことも叶ってしまうような気がした。
 でも、私には断る理由なんてなかった。鬼を祓う鬼、それが私なんだから。
 承諾した私は連れ添いのこにと一緒に犬神さまの里へと赴き、今に至るのだった。
「おなかへったー」
 こにがお腹をぐうぐう鳴らして、そんなことを言った。口から言葉を発しているのか、お腹から言葉を発しているのか微妙なところだ。
「そうね、早く犬神さまのところでご飯にしましょう」
 民家から食材を分けてもらいたかったけど、塩をまかれるのが関の山だし、そもそも人がいない。そのくせ廃村のように荒れてるわけでもないし、鬼に襲われた形跡もなかった。
 おかしい。何かが変だ。今までの鬼とはわけが違う。
「ねねさま! あれ!」
 こにの指の先には、あぜ道で倒れている若者がいた。慌てて駆け寄り、口に手をかざして息を確かめる。
「う、あ……」
 意識もちゃんとあるようだった。
「大丈夫ですか? 怪我、ありませんか?」
 身体を起こしてあげたいけど、また嫌がられるからそれはできない。ただ見守ることしか術はないのだ。
「め、めん……めんどくさ」
 若者は、掠れた声でそう呟いた。
「めん? な、なんですか? もう一度言ってくださいませんか?」
「いやあ、二度言うとかほんと面倒なんで」
 だらだらと断られた。
 変だ、確実に変だ!
「犬神さまの元へ急ぎましょう」
「でも、このひと……」
 のっぺりと気持ちよさそうに日向ぼっこしている若者を一目見る。
「この方は好きでやってるの。大丈夫、行きましょう」
 こにの手を取り、走った。
 犬神神社は山にへばりつくように建てられた神社だった。社はお爺ちゃんの神社の蔵と同じ程度の大きさで、やっぱりどこにでもあるような村社だった。
 しかし、どこか異変を感じる。じわりじわりと体の一部分が吸い取られていくような、そんな気分がした。
 その気配のほうへ、一歩、また一歩と前進する。こにがぎゅっと私の衣を握りしめた。私だって何か確実的なものにすがりつきたかった。


 本殿の裏側に綿のような老犬と、茶色い髪に紅の道着を着る少年が寝そべっていた。おそらくは般にゃーの言っていた犬神さまなのだろうが、見る影もないだらけようだった。
「わんこの神サマ、だいじょうぶ?」
 こにが齢のいった犬神さまの元に駆け出した。しゃらんりんと鈴が鳴る。すると大の字に寝そべっていた老犬さまが身を震わせ、起き上がった。
「た、助かったわい」
 ついさっきまでの怠惰な姿は微塵も感じられない。神さまの威厳がひしひしと伝わってくる。この寸刻の間に何が起こったのだろうか。
「お嬢ちゃんのおかげじゃ。その鈴が『さぼテン。』の物臭な邪念を追っ払ってくれたんだよ」
「こにのおかげっ?」
 こにの目がきらきらと音を立てて輝きだした。この一年と三ヶ月の間、こには人がケガをしていても、鬼が暴れていても、私の裾をつかむことしかできなかった。どれだけもどかしい思いをしていたんだろう。
「うちの大馬鹿者が心の鬼を宿してしまっての、その邪気が村全体を覆ってしまったんじゃ。気付いたころにはワシ一人でどうこうできる事態でなくなってしもうた」
 そう言って、竹林の前でだらだらと尻尾を垂らし、肘を枕にして眠りこけている少年を指さす。歳はシロと同じくらいだろうか。シロのぱたぱたと慌てて駆ける廊下の音を思い出した。
「……私が代わりに祓います」
 頭に提げた般若面を手にし、犬耳の生えた少年の前に立つ。
「気をつけい。輩から出るさぼりの念に呑まれると、たちまちやる気を削がれるぞ」
 犬神さまの忠告を聞いて、心の中で頷く。確かに武器がない今、鬼に攻められたら一巻の終わりだ。でも鬼を祓う要領は武器のあるなしにかかわらず、さして変わらない。薙刀を振るうか、言葉を操るか、その違いだけだ。
 般若を顔にかざし、お面を通して少年わんこの瞼を射抜いた。禍々しい気配に気づいたのか、わんこが片目を開ける。その途端少年は眼を見開いた。こうすることで心の鬼と宿る身を分離させることができる……はずなんだけど、いくらたっても心の鬼は姿を見せなかった。おかしい、般にゃーから聞いた条件は全部揃ってるはずなのに。
「……めんどくせ」
 そう少年は呟いた。
「こいつから離れんのもかったりーわ」
 いや、違う。正確には少年に憑いた鬼が呟いているんだ。よく見ると、とげのないさぼてんが少年の背中から見え隠れしている。その姿を見るだけで気だるくなり、激しい無力感に苛まれた。
 私がここにいる必要性が見いだせなかった。そもそも私ってなに? みんなに嫌われてる。そりゃ神さまや鬼の一部からは好かれてるさ。でもそれが何になるの? どんなに頑張っても人から認められることはない。鬼という分類から脱することはできない。人の友達がほしい。でもそんなの不可能だ。じゃあ私は何のために鬼を祓ってるの? いいや、面倒くさい。考えるのが面倒だ。
立ってることも面倒で、つまらない世界を見るのも億劫で、外界と接するのもかったるい……。
「ねねさま!」
 りんりん。
 恋の素の音色で我に返った。冷や汗が全身から噴き出した。危なかった。もう少しで心を奪われてしまうところだった。
「ねえわんわん、こにといっしょにあそぼうよ!」
 こにが鈴を鳴らしながら近づいてくる。いつもなら鬼に近づかせないけど、恋の素がある今、こにが近くにいてくれたほうが安心だった。
「遊ぶ? めんどくせ」
 少年に憑いたさぼてんの鬼が答えた。鈴の音を聞いても反応はちっとも変わっていない。
「えー、あそぶのたのしいよ?」
 こにが残念そうにうなだれた。犬の少年はそっぽを向くのも面倒みたいで、焦点の合ってない目で神社の先を眺めていた。
「そりゃ楽しいさ、でも意味はない。体力の無駄遣いなんかしてられっか」
「ムダなんかじゃないよー!」
 こには無理やり少年を引っ張って走り出した。
「おい、何すんだよ」
「かけっこ!」
 こにが嬉しそうに走る。少年は引きずられるままに走った。恋の素がやさしい音を響き渡らせていた。
 おいかけっこをして、だるまさんがころんだをして、かくれんぼをして、鬼ごっこをした。少年から「さぼテン。」が離れることはなかったが、少しずつ目に生気が宿りだしていた。恋の素の影響だろうか。いや、きっとこれはこにの素質なんだと思う。こにの周りは、いつだって明るく照らされているんだ。
 西の空が色つきはじめた。一通り遊んだあとで、私たちは鳥居の前の階段に座って休憩した。犬神さまは鳥居の上で見守っていて、こには遊び疲れたのか、私の膝の上で寝息を立てている。
「俺、やっぱり何やってもうまくいかない駄目な奴なんだよ」
 そう耳の生えた少年は語った。
「いくら勉強したって風太郎に勝てないんだ。村ん中じゃかけっこで右に出る奴はいないけど、誰にも褒められやしない。地蔵師匠はもう相手にすらしてくれねえ。だったらかけっこだって疲れるだけだ、めんどくせえ」
 風太郎というのが誰なのかはわからないけど、地蔵師匠というのはおそらくあの犬神さまのことだろう。心の鬼は突発的に宿ってしまうこともあれば、あらゆる状況が重なって形成してしまうこともある。地蔵さまは少年を良くない目で見ているみたいだけど、全部が全部少年のせいではないような気がした。
「そのかけっこだって、お前に負けちまった。俺なんかどうせ……」
「いいえ、あなたは足も速いですし、体力だってありますよ」
「嫌味かよ」
 そう言って少年はふてくされた。長い長いため息をもらす。
「嫌味なんかじゃないです。私があなたくらいの頃は足も遅かったですし、体力もみんなよりありませんでした。だからあなたが私と同じ歳になったときは、きっと私なんかよりずっと足が速くて、体力もあるはずですよ」
「そういうもんなのか?」
「でも、努力はしないとだめですよ?」
「努力、か」
 少年は仰向けに倒れこみ、鳥居を真下から見上げていた。
 しばらくして、少年の体から心の鬼が抜け出てきた。
「さぼテン。」が静かに消えていく。
「俺、もう少し頑張るよ。かけっこも、勉強も」
「応援してますよ」
 くりくりとした、情熱に満ち溢れている少年の瞳を見て、私は安堵のため息をもらした。
 祓えたんだ。
 武器がなくても、祓うことができる。心の鬼と真剣になって向かい合うことができれば、鬼はちゃんと心を開いてくれるのだ。
「ふむ。やはり主が鬼子だったか。鬼を祓う鬼という評判は聞いておったわい」
 地蔵さまが鳥居から飛び降り、少年の脇に着地して私を見上げた。
「ワシが唐突にもこんなことを頼むのはまことにおこがましいことではあるが」
 そう先に述べて、寝転ぶ少年の頭に前足を乗せた。幼いながらも立派な男の子らしい額が露わになる。
「この世間知らずな馬鹿者わんこを、旅の供にしてやってはくれんかの」
「はあっ?」
 犬耳の生えた少年ががばりと上半身を起こした。
 騒ぎを耳にして、こにが寝ぼけた眼をこすりはじめる。
「なんだよいきなり! わけわかんねえ!」
 私としては仲間が増えることにさほど抵抗は感じなかった。少年は活発だし、ある意味野生的でもあったから、自給自足の生活を苦とはしないだろう。いや、それ以上に、村へ降りて人々から食材を分け与えてもらうこともできるようになる。大歓迎だった。
「わんわん、よろしくね!」
 こにも同感のようだ。
「わんわん言うな! 俺には歴とした名前があってな――」
「鬼子さん、ワシは思うんじゃよ」
「言わせろよ!」
 あえて言わせなかったんだろう。真名を知らせるというのは自身を拘束させることに等しい。地蔵さまは少年を縛らせたくなかったんだ。それは私のことを恐れているからなのだろうか。
「この村は狭すぎるからの。わんこにはもっと広い世界が似合うじゃろう。しかし辺境の地で育ったもんじゃから、あまりにも物事をわかっとらんのじゃ。どうか、世の中が井戸ではなく、こやつが蛙ではなく一匹の孤高な犬であることを教えてやってほしい」
「師匠……」
 少年の真名を語らせなかったのは、ここが少年の故郷であることをはっきりさせるためなのかもしれない。どれほど荒れ狂った旅路であっても、絶対的な安定のある場所があるとないとでは大違いであることは、私が一番知っている。私が真名を知ってしまったら、ある意味で故郷を失ってしまうことになる。
 油蝉の合唱が響き渡っている。その隙間から奏でられているひぐらしが、どこかもの悲しさを膨らませているように感じられた。
 それからしばらく犬の少年は鳥居の先にある神社を見つめていた。長いことそうしていて、それからおもむろに立ち上がった。
「風太郎に伝えておいてくれ。お前なんか比にならないくらいたくさんのこと学んで帰るってな。邪主眠(ジャスミン)の姉ちゃんにも、他の犬神にも、村のがきどもにも、それから……」
 言い終える前に少年は言葉をつぐみ、空を眺めた。この村はきっと、大切な思い出がたくさんある場所なんだ。
 ちょっぴり、羨ましい。
「鬼子さん、こにさん、わんこをよろしく頼むぞ」
 そう犬地蔵さまに任された。
 わんこをよろしく頼む。
 私は、少年のことをわんこと呼ぶことにした。


「ふーん、そーゆーこと」
 般にゃーの感想はあまりにもあっさりとしていた。私たちの紀行もわんこの同伴にもまったく興味を示さない。
 まだ青い紅葉の山の奥に般にゃーの住処はあった。でもほとんど使われてる形跡はなく、雑草だらけの庭と荒んでしまって久しいぼろ小屋があるばかりだった。
「命令を達成したらこの家を譲れってアマテラスサマが仰ってたわ」
 どうせ使ってないし、そろそろ掃除しないとって思ってたからちょうどいいわ、なんてのんきなことを般にゃーは言っていた。貰う側としてはひしひしと感じる面倒事にため息が出てしまうけど、でも屋根の下で眠れるんだからそれくらいどうにでもなる。
「当分わたしの指示に従ってもらうわ。……上に立つのってキライなのよね。ま、テキトーにやらせてもらうから、そこんとこよろしく」
 確かに般にゃーは上司という役柄は似合わない。何にも縛られずに彼処をぶらついてるほうが割に合ってるような気がする。
 それから鬼斬を返してもらった。般若面でいつでも鬼斬を預けたり引き出したりすることができることを教えてもらった。地味だけど、今まで薙刀のせいで人々に恐怖を上乗せしてしまったことが多々あったので、この機能は重宝しそうだった。
「最後に、アマテラスサマから贈物があるわ」
「お、贈物……って、え、ええっ? そ、そんな畏れ多い」
 高天原を治める超が付くほどの大御所さまが、底辺の鬼に何を渡すというのだろうか。こんな広い敷地を頂いてしまって、おまけに贈物ときた。
 般にゃーが巻物を取り出し、広げた。
「まず鬼子のほうね。『日本の姓を賜えん。鬼の子よ、鬼うち祓え。我が日本よ』だって」
 韻律の付いた歌が贈られた。形のないものだったから、はじめは何をもらったのかよくわからなかった。
「貴女に『日本』の姓をあげるって言ってんのよ。アマテラスサマも大胆ね」
 ひのもと……ひのもと、おにこ。頭の中で繰り返す。日本鬼子。天照大御神さまの下で鬼を祓う鬼の子。それが私の名前だった。あらゆる感情が入り混じって、なんと申し上げればいいのかわからなかった。
「こには? こにのもあるの?」
「もちろんよ。『小日本の姓を賜えん。小鬼の子、鬼子を支えよ。我が小日本』だって」
 同じように韻と律のついた歌が贈られる。
 こひのもと。それがこにの姓になった。
「般にゃー、こひのもとって、どーゆーカンジつかうの?」
「小さいニッポンって書くのよ。せっかくもらったんだから、大切にしなさい」
「うん! えーっと……こに、こにぽん、だね!」
 こにぽん。その愛くるしい響きとこにの笑顔が絶妙に合っていた。小日本、こにぽん、こにぽん。忘れないよう頭に刻み込む。
「そうそう、もちろんそこのわんちゃんにはないわよ? アンタは予定外の存在なんだから」
「わかってるよ、おばさん」
 あ。と私の口から言葉が漏れてしまった。慌てて口を押さえる。
「おばさん……?」
 般にゃーがぽそりと呟いた。ぴくりと小じわが増えたような気がして、そして……。
 その後、わんこは三週間ほど、般にゃーの話題に触れると禁断症状を起こすようになった。なぜそうなったのか、それは推して知るべきことだろう。

   φ

 日は暮れて、窓の先から星がちろちろと輝いていた。白狐爺の霊力を養うお祈りはまだ続いている。
「これが私の過去で、同時に鬼に勝ち続けなければいけない理由でもあります」
 長い、長い語りだった。途中で鬼子さんが物語る理由を忘れてしまうくらい、壮大で、心魅かれるお話だった。
「私は鬼を祓わなくちゃいけないんです。それが存在意義なんです中途半端に独りでなくなってしまった私は、もう邪鬼のように自分を棄てて暴れることもできないんです。鬼になれない鬼なんですよ。日本の姓を授かってから四年が経ちました。ひたすら鬼を祓い続けて、人々からは恐れられて……もう、何のために戦うのか、何を守って、何を消し去ろうとしているのか、わからなくなっちゃいました」
 日本さんはそう言ってほほえんだ。身震いするほどおそろしく悲しい笑みだった。
「私ってなんだろうって問いがあったら、鬼を祓う鬼だって、そう答える他ないんです。元々私なんて存在しないほうがいいんですから。鬼に負けてしまっては……鬼を祓えなかった私はただの鬼です。ただの厄病です。それ以外、何もありません。明日、大御神さまに奏上します。私を否定してくださいと。私をこの世から――」
「そんなの、ないよ!」
 感情に任せて立ち上がっていた。
「なんなのさ、自分勝手すぎるでしょ!」
「それなら!」
 日本さんも負けじと声を張り上げる。
「……それなら、田中さんには説明できるんですか。どんな鬼でも祓うことができて、それを大御神さまにも認めてもらえて、母から人の嬉しいことや楽しいことを芽生えさせられるような人になれと言われたのに、祓えなかった鬼がいる自分に気付いて、こにぽんを守ることができない可能性を叩きつけられて、人々の喜びを奪い去ってしまいそうだった私が今もなお生きてしまっている理由を、息をしている理由を、田中さんは説明できるんですか?」
 卑怯だ。そう思った。
 アタシは人間だ。ついこの間までこっちの世界のことなんて何一つ知らなかった人間だ。平凡で並々の生活を営んできた高校生にすぎない。
 それでも、言わなくちゃいけない。
「そりゃもちろん……」
 言葉に詰まる。
 ダメだ、止まっちゃいけない。考えろ。
 日本さんの存在意義。難しいようだけど、どこかに答えはあるように感じる。そしてそれをアタシは持っている。心の隅っこのほうで丸まってるような気がする。でも、それを拾うことはできない。拾える距離まで潜りきれていないんだ。
 外のお経がうるさい。
 あの連中を黙らせろよ、わんこのいらだった声が反響する。同感だよ、はは。誰か爆弾でも投げ込んでくれないか?
 考えがあともう少しでまとまりそうだったのに、思考はほどけた書類のようにばらばらと混沌の中へと散らばっていく。もう元のまとまりには戻れない。
「もちろん……」
 嘘だ。自分には日本さんを納得させられるだけの経験と論理展開能力と語彙が備わってないんだ。
 アタシの存在意義すら今まで考えたことすらなかった。そんな人間が他人の存在意義について述べようと空っぽの頭をひねろうったって、おからを絞って何も出ないのと同じように、妙案の一粒すら滴り落ちてくることはなかった。
「やっぱり無理なんですね。田中さんにも答えられない」
「そんなことない!」
 ただのハッタリでしかないことはアタシも日本さんもわかってる。でもここで屈することはできなかった。屈してしまったら、もう二度と日本さんと会えなくなるんじゃないかって、そう思った。
「日本さんは……」
 でも、限界だった。針金みたいな強度しかないアタシには、日本さんの巨大な道のりの一部ですら代われるものじゃなかった。
「日本さんは……」
 諦めよう。
 アタシじゃダメだったんだ。
 ――アタシなんかじゃ。

「ねねさまは、ねねさまだよ!」

 襖がぴしゃりと音を立てて開かれた。
 こにぽんが、そこに立ち尽くしていた。
「こに、むずかしいこと、わかんないよ。でも、ねねさまがいるから、ねねさまはねねさまなの! いなくなっちゃったら、こに、さびしいもん!」
 こにぽんが日本さんのところまで歩み寄って、その白くて小さな両腕で日本さんを包み込んだ。
「タナカだって、わんわんだって、シロちゃんだって、じじさまだって、ヒワちゃんだってヤイカちゃんだって! みーんなみーんな、ねねさまのこと大好きなの! ねねさまはみんなの心の中にもいるんだから! いなくなっちゃったら、こに、ヤだよ……。いなくなっちゃったら、いなくなっちゃったら……!」
「こにぽん」
 日本さんが涙ぐむ女の子をそっと抱きしめた。やさしくやさしく、母親のようなぬくもりがそこから感じとれた。
「こめんね、こにぽん。そうだよね、独りじゃないって、こういうことなんだよね。戦い続けなくても、変わらないものはあるんだよね。こんな私でも、好きでいてくれてる人はいるんだよね。今だって、これからだって……」
 簡単な話だったんだ。経験だとか、論理展開能力だとか思考だとか、そんなワケのわからないことで悩む必要なんてどこにもなかった。誰にだって言えること、当たり前のことだった。
「ねねさま、いたいよぅ」
「あっ、ごめんね」
 抱擁を解放し、やや間を置いてからこにぽんの髪を撫でた。
 こにぽんは雫を拭うと、腰につるしてあった巾着を開けた。
「これ、ぷりん。食べたらケガもなおるから」
「うん、ありがとう」
 アタシは主役ってガラじゃない。アタシはただの語り部で、舞台の真ん中に立つのは紛れもなく日本さんとこにぽん、
この二人なのだ。

   φ

「――という次第でございます、蟲武者卿」
 青狸大将の長々しく荒々しい報を聞き終えた。奴からは天魔党の四天王を前にしても揺るがぬ強い意志を感じる。激しい野望だ。今は我々に付き従いているものの、そう長くない頃に謀反を起こすであろう。しかし奴に憑く願望鬼は実に巧みな隠密として利用できる。利用し尽して、状況を見て斬り捨てるのが適切である。
「ご苦労であったな」
 偶然ではあるが、『鬼を祓う鬼』の素性が明らかになった。噂からして興味深いものがあるが、奴について知れば知るほど魅かれるものがあった。探究心は膨れるばかりだが、我は学者ではない。一人の武人である。無駄な情報は混乱を招く。なれば願望鬼は別の任務に活用させたほうが有益であろう。
「人間田中がこことは別の世の者であると申したが、それは真か」
「真でございます、蟲武者卿」
 得意顔で奴は述べた。
「ならばその者の身を用いて異なりの世を渡り、彼方で我が天魔党の助けとなる鬼を探せ。無論相応の報酬は約束しよう」
「くくく、わかっておるではございませぬか」
 裏のある笑みを見せ、青狸は退出した。
 奴の場合、裏があることが容易に解せるからまだ扱いに苦労することはない。
「お憎(おぞう)、我等も出陣するぞ」
「戦ですか。何処へ」
 我の率いる『侍』の第二位である彼女は常に我の傍らに控えている。彼女は片膝を立て、大きな櫛を挿した頭を我に見せ、微塵も動じない。忠誠を誓ったお憎は我が命令には全て過不足なく任務をこなす。己を知り、相手を計りて戦に臨むため、損じても被害は最小限に留めることが出来る。我が『侍』の参謀として言うべきことはない右腕である。
 彼女は実に頼もしい。だが完全に心を開き切って寝首を掻かれて終劇という事態にもなりかねん。
どうも奴は我に対して激しい感情を抱いていることは確かなのである。
「城下だ。城下へ親征する」
「城下ですか。……じょ、城下ですか? 黒金蟲様」
 彼女には予想外の目的地なのだろうが、我は長らく秘密裏にこの作戦を練り続けていた。
「そうだ、『甘味処ねむしや』に二十の兵を連れて向かおうと思う」
「しょ……将軍おはぎを討つのですね」
「如何にも」
 物分かりの良い副官だ。
『ねむしや』は一月前に開店したばかりで、なんでもおはぎがこの世のものとは思えぬ程の美味であると評判なのだ。
 立ち上がり歩き出すと、お憎もまた立ち上がり、後を歩く。
 『甘味処ねむしや』のおはぎを我等が領主様にも献上したく存ずるが、今は果たせぬ所望である。
 ああ、我が領主様よ、其方は何処へ行かれたのか。我等の勢力は増しに増してあるが、統べる者がおらぬ今、どうして国を治めることができようか。
 長き目で見れば、我等のみで治めることなど不可能なのだ。『侍』『忍』『陰』『局』の四党がいかに優秀であれども、大壺の底から徐々に腐敗が生じが如く、分裂は止む無きことなのである。
 統治には天性が必要なのだ。総指揮を執る大老様にも無く、当然のことながら我等にも無い。存在そのもののみで人を惹きつけ、心酔させるだけの才能、少々の荒事でも、其の者の言葉であるだけで従えてしまうほどの力は、行方知らずの領主様のみが有す。我等は領主様への絶対的な忠誠心によりて成り立つのだ。
 城を出、丘の下に広がる街を見渡した。所狭しと立ち並ぶ瓦屋根。そこには往き交う鬼等で賑わいているのだ。時の流れがを実感する。荒地だったあのころにここまでの活気を想像出来ただろうか。
 我が故郷なのだ、この天魔党の国が。領主様よ、其方さえおられれば、必ずやこの国を理想郷へと変えてみせましょう。
先代の領主様からの悲願を、いざ叶えて見せようぞ。


じょがぁへのお便りは
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