ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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翼の生えた少女
~Another Story of WORLD FUTURE~

著 城ヶ崎ユウキ
2008.1~4執筆


目次

 「こうしてオレは、翼の生えた少女と出会った」
   白い翼、青い服

 「今日、家出する予定だから泊めさせてくれ!」
   日常の始まり

 「アンタの弱みも握ったことだし、ね」
   新たな音、奏でる

 「ス、スリーサイズですか?」
   星空

 「ひ、ひいっ! わかりました! 考えます、考えますからっ!」
   エリダヌス 第一幕

 「統流って名前の由来、知ってる?」
   エリダヌス 第二幕

 「ソフィアって、何者なの?」
   翼と未来とバスタオル

 「ドッジボールしようぜ! ドッジボール!」
   遥かなる草原の詩

 「その口振りは、何かをふっきったような言い方だった」
   崖の下の決断

 「未来は小さな繋がりを求めているのです」
   湖畔の夕暮れ

 「ソフィアちゃんを信じて、未来の世界を信じることはできないか?」
   ふたりのやさしさ

 「わがまま言っても、いい?」
   サクラフブキ

 「統流くん、差し入れだよ」
   白いキボウ

登場人物

穂枝統流(Toberu Hoeda)
ソフィア・ブルースカイ(Sophia Bluesky)
大瀬崎駿河(Suruga Osezaki)
神子元奏(Kanade Mikomoto)
大家さん
お袋
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 鳥の鳴き声が、いつも以上に明るい。
 このアパート暮らしも、もう一年が経っていた。初めのうちは愚痴ばかりだった。寒い日は寒く、暑い日は暑い、それに狭い、しかも風呂がない、ボロい、隣のテレビがうるさい、などなど。唯一の長所は家賃が安いことだけで、こんなところに住むんならいっそホームレス高校生でいい、なんて思っていた。でも、いつしかそんなボロアパートのことが好きになっていた。住めば都ということわざも頷ける。
 オレはぼんやりと窓の外を見つめながら久しぶりの制服に着替えていた。もう春だ。生命の力強さが身に沁みる季節になっていた。高校の正門に咲く桜の花も満開になっていることだろう。オレは今日から高校二年生になる。
 ……そうそう、学校へ行く前に電話をしなくてはいけないのを思い出した。制服を着ると、携帯電話を開いた。オレの部屋の電話は携帯だけだ。置き電話なんてむしろ不便だ。
 電話帳からずいぶんとかけなかった電話番号を探した。すぐに見つかる。発信ボタンを押すと、しばらく電子音が聞こえ、それから声が聞こえる。
 ――もしもし、穂枝です。
 男らしい太い声がした。何年も聞いてないような気がしたが、実は春休みに一度会っている。
「オレだ、統流だ」
 ――なんだ、統流か。こんな朝早くにどうしたんだ?
 声の主は、照れを隠すように感情を抑え込んでいた。そんなことしなくてもいいのに……とオレは思う。
「今日から高二なんだよ。それだけだ。悪いか?」
 なんて思ってるオレなのに、わざわざ声色を変えてふてくされてしまった。言い換えるのなら、立派な照れ隠しだな。
 ――そうか。ま、頑張ってやれよ。
「言われなくとも頑張るっての。じゃ、切るな」
 会話はそれだけで終わった。電話にしても短すぎる。でも、オレたちにとってはそれで十分だった。
 ――ああ。元気でな、統流。
「じゃ、風邪引くなよ、父さん」
 そう言って、オレは携帯を切った。
 オレは、いつからか親父のことを父さんと呼んでいた。不器用な親子だよな、オレたち。
 しばし携帯の画面を見つめていた。そして、思い出したようにオレはカバンを手に取った。
 まだ遅刻する時間じゃないが、クラス発表がある。早めに行きたいじゃないか。


 二年の教室は一年の教室の下にある。一階低くなるんだから、景色は一年の頃よりも悪くなる。少し憂鬱になるが、でも新鮮味はある。席に座るとやることがなくなった。こんな早くに学校へ来るもんじゃないな。仕方なく机にうつ伏せて教室を見渡した。もう二人から四人程度のグループに分かれておしゃべりをしてる奴らがいた。でも、オレのように二年早々居眠りをしてる奴らもいる。
「またお前と同じかよっ!」
 背中から馴染みのある声がしたから、オレは振り返った。黄色い髪の毛に、爽やかな笑顔、ボタンを全部外した制服を着ているのは、間違いなく大瀬崎だった。クラス替えをしたが、オレはまた大瀬崎と同じクラスになってしまったのだ。
 大瀬崎は一年から全く変わっていなかった。
「ああ、そうだな。こりゃもう最悪のクラスだ。今まで生きてきた中で、これより下のクラスは無いって断言できるほどのクラスになっちまったな」
 だから、オレも変わらない反応をした。
「さすがにそこまで言われると泣きそうになるんですけど……」
「じゃ、泣け」
「フォローしてくれよっ!」
 目を見開いて大瀬崎はツッコんだ。本当に変わらない奴だ。
「大丈夫だ。『今までに』こんなクラスは無いって言ったんだ。来年や再来年は、このクラスよか悪いクラスになるかもしれないぞ」
「フォローになってねえよっ! ってか、クラス替えってもう来年しかないんじゃないっすか?」
 確かにそうだった。大学に入ったら、クラス替えするようなクラスなんてないに等しいんだろうし。
「……で、神子元は同じクラスなのか?」
 どうやらオレに訊いてくるところ、こいつはまともにクラス発表の張り紙を見ていないようだった。
「奏は違うクラスだよ」
「……マジで?」
 大瀬崎が引きつり笑いをしていた。嬉しいんだか寂しいんだか。でも驚きを隠せない様子だ。オレだって、クラスに奏の名前がなかったときは衝撃を受けた。そのときは心配で仕方がなかった。でもそれは一瞬のことで、今では腹が据わっている。
「でも、奏なら大丈夫さ」
「神子元だから大丈夫なわけないだろ」
 オレと大瀬崎の意見が食い違った。だが、オレにはちゃんとした考えがある。
「今年の奏は一味違うんだよ」
「……ふーん」
 大瀬崎は半信半疑だった。
 しばらくすると、新しい担任がやってきた。出席を確認したあと、体育館に移動した。それから始業式が始まった。もちろん誰も先生の話なんて聞くわけがなく、寝ていたり携帯をしていたりしていた。オレもどうしようか迷った挙句、ぼうっとすることにした。
 校長の話が終わったあたりだろうか、ポケットに入っている携帯が震えだした。オレは震動で驚き、反射的に携帯を取り出た。開いてみると、奏からだった。
『ホームルームが終わったら食堂に来なさい。駿河も連れてくること』
 友達探しの手伝いでもするんだろう。オレは前向きに手伝おうと思ってるから『了解』と打って、気合を入れた。
 そして、そのあとのホームルームを適当に過ごし、放課後になった。帰ろうとしている大瀬崎の首を掴み、そいつを引きずりながら廊下を駆けた。
「シュ、シュールだからっ!」
 そんなことを言っていたが、ムシして食堂へ急いだ。


 今日は午前のみの学校なので、食堂はがらんどうだった。でも、購買のおばちゃんはいた。ただ、ラーメンや定食は売っておらず、パンが少し売られているだけだった。
「遅いわよ!」
 食堂に入ってきて、開口一番奏がそう怒った。オレたちは確か、ホームルームが終わってすぐに走ってここまでやってきたんだが。お前、早すぎるからな。
 オレは大瀬崎を掴んでいた手を離し、奏が座る席へ向かった。後ろから大瀬崎が付いてくる。
「なあ穂枝」
 大瀬崎がひそひそと後ろから呟く
「なんだ?」
「見知らぬ女の子がいるぜ」
 確かに、大瀬崎の指すところ……奏の隣に見知らぬ女子がいる。
「ほらほら、話は座ってから」
 オレが見知らぬ女子のことを言おうとしたら、奏がそう言ってきた。オレは言われたとおり奏と向き合う椅子に座った。大瀬崎があとから隣に座る。
 奏の隣に座る女の子の第一印象は、おとなしそう、だった。メガネをかけ、ソバカスだらけの頬を見ると、奏とは正反対の人間のように思えた。まあでも、サイドポニーテールはよく似合ってると思う。驚いたように大瀬崎の金髪を見ていた。最低でも不良との付き合いは、いじめる、いじめられるの関係を除けばゼロと言ってもいい。
「こいつらは、私の友達」
 奏がその女子にオレたちの紹介をするようだ。
「やる気のなさそうな顔してる、つまらなそうなほうが穂枝統流よ」
 なんとなく気にくわないが、奏はオレを紹介した。
「どうも、穂枝統流です」
 軽く頭を下げると、向こうも頭を下げた。でも、ずっと目はこっちを見ていた。警戒されている。
「それで、統流の隣に座ってる、金髪の変人は大瀬崎駿河」
「言っておくが、九百九十九のケガを持つ男だ。この学校一のワルだぜ。グェッヘッヘッヘッ」
 九百九十九のケガだなんて痛々しい。出来れば傷と言ってもらいたかった。
 大瀬崎が身を乗り出してその女子を睨む。女子は驚き、身を縮ませた。
「威嚇すんなっ!」
 オレは大瀬崎の頭に渾身のチョップを繰り出した。そう、渾身のだ。大瀬崎は変な悲鳴をあげてテーブルにうつ伏せた。
「……こんな奴だけど、オレたちの雑用担当だ。目一杯こき使ってもこいつは怒らない。むしろ喜んでご奉仕する奴だ」
 オレの説明にこの女子は目をパチクリさせていたが、小さく頷いた。
「こいつらは、結構恐そうに見えるかもしれないけど友達思いなのよ。それで、この子なんだけど……」
 奏が補足を加えてから、肘で女子に合図をした。
「あ、えと、えっと……伊東吉佐美です。よろしくお願いします……」
 おしとやかな声で礼儀よく頭を下げた。オレもつられて頭を下げる。口調といい、しぐさといい、やはり奏とは全然違う奴だ。
「吉佐美は私の新しい友達よ。一年の頃の友達と別れちゃって、一人でいたところを声かけてみたの」
 なるほどな、とオレは相槌をうった。それにしても、奏が友達を、しかもこんなに早く作るなんて思わなかった。
「伊東とか言ったか? 奏の友達になってくれて、ありがとな」
 なぜかオレがお礼を言っていた。伊東は恥ずかしそうに頷いていた。
 奏は、変わった。二年生になって、変わった。本当なら一年生のうちに変わろうとしていたから一年遅れだけど。でも、一年遅れたほうがよかったかもしれない。
 伊東の目を見たときわかった。こいつは、暗黙のルールなんて作らないし、暗黙のリーダーになんてならないだろう。
「さて、お腹も空いてきたところだし……。駿河! 寝てないでパン奢りなさい!」
「なんで奢らにゃいかんのであろうかっ!」
 変な語尾と共にガバリと大瀬崎は起きあがった。伊東はビクリと身体を震わせた。
「いいじゃない。記念よ、記念。私ポテトサラダサンドね」
 確かに今日は記念だ。打ち上げがてら、オレも頼んでおこう。
「オレ、スペシャルカツパンな」
「お前もかよ!」
「今日くらい奢ってくれたっていいだろ?」
 そう言ってやると、大瀬崎は唸り声をあげたきり何も言い返さなかった。
「伊東も何か頼んだら?」
「え、私ですか? 私は別に……」
 伊東は首をフルフルと振っていた。すると、大瀬崎はヤレヤレと手を振った。
「パンくらい奢ってやるよ。今日の主役はお前じゃねえか」
 なんだ大瀬崎。お前は奢られて嬉しいのか。しかも新入りに。これで、きっと大瀬崎は三人のご主人に仕える下僕になるんだろう。
「それじゃあ……」
 伊東は少し考えてから、大瀬崎のほうを見る。
「アンパンを……」
「オッケー」
 大瀬崎は爽やかな笑顔を伊東に贈り、購買へとスキップしながら向かった。
 本当に、大瀬崎は変わらない。友達思いだ。そして、奏は変わった。オレがいなくても友達をつくることができた。それも、最高の友達を。きっと、今はお互いの性格や考えを手探っている状態かもしれない。信頼関係を築くのは結構時間がかかると思う。でも、この二人なら大丈夫だろう。
「奏」
 伊東が言った。伊東はオレと同じように奏のことを『奏』と呼ぶのか。オレ的に奏を苗字で呼ぶか『奏さん』みたいに『さん』付けで呼ぶのかと思った。
「明日から、一年生の頃の友達も呼んでいいですか?」
「ん? 別にいいけど……なんで?」
 奏が首を傾げていた。
「だって、奏がこんなに素晴らしい友達を持ってるんですもの。私の友達にも紹介したいですわ」
 ああ、そうやって、友達の輪は広がっていくんだ。
オレは素で感動していた。友達ってなんて素晴らしいものなんだろう……。
 でも、そうすると大瀬崎は四人の主人の下僕になってしまうんだよな。哀れだ大瀬崎。


 それからオレたちはすっかり伊東と馴染んでしまった。オレと大瀬崎のコントじみた会話に、奏のいじりが混じって、たまに伊東がボケて、オレがツッコんで……。そうやっていたら、すっかり空が橙色に染まってしまった。
 オレたちは正門で分かれ、バイト先の食堂へと歩く。
 オレは常連からも評判のいいバイトさんだと言われるようになっていた。店長から少しずついろんなものを作らせてもらえるようになってきて、ますますやる気が出てきていた。
 バイトが終わり、片づけをしていると店長から声をかけられた。
「穂枝、日曜日、昼から空いてるか?」
「ええ、空いてますけど……」
「じゃ、定食の仕込みを宜しくな」
 定食といえば、この食堂で一番人気のメニューだ。それをオレが仕込む……。とても期待されていた。
「はいっ!」
 オレの夢は、少しずつ確実に前へと進んでいた。
 嬉しくて家まで走って帰った。まだ夜は冬のように寒い。白い息が口から漏れる。とても懐かしい気がする。早く家に帰りたい。帰って、報告したい。
 ……誰に?
「ソフィア!」
 ドアを開けたら、そこは闇だった。誰もいない、ただのアパートの一室だった。
 オレは、自分を嘲笑った。ソフィアはもう三ヶ月も前にいなくなってしまったじゃないか。何をいまさらその名前を呼ぶんだよ。
 しばらく玄関に立ちつくした。そして、自分で部屋の明かりを点けた。
 荷物をそこら辺に投げ捨て、台所に立った。ソフィアがもういなくなってからは、お客が来なきゃ立たないんだろうと思っていたが、無意識のうちに立ってしまっていた。
『今日は、大家さんが来て、和菓子をくれたんだよ!』
 そんな無邪気なソフィアの声が聞こえてくるようだった。鮮明に浮かぶ、ソフィアの声。三ヶ月経っても褪せることはなかった。
 今日はスパゲティーを作った。二人分のパスタを茹でようとしたが、そんなに食えないと思い、一人分にした。
 茹でる時間も適当ではなく秒単位で計って火を止めた。アルデンテはもうお手のものになっていた。そして、現にオレの作ったスパゲティーはうまかった。
 食い終わり、食器を片付けると、お茶を飲む他やることがなくなってしまった。いつも、この時間はぽっかりと穴が空いたように暇になる。ソフィアがいたときは、おしゃべりしたりトライブレスを捜したりで、すぐ時間が過ぎてしまったのに。今では時が経つのを待つのがこんなにも苦しいなんて思わなかった。
 そういえば、ソフィアが来る前もそうだった。この時間は暇だった。ということは、ただいつもの生活に戻っただけなんだよな。……退屈だった日常に、ある日お前が現れた。結局、お前はなんでこの世界に来たんだ? もっと違う時代、もっと違う場所にタイムスリップしたほうがよかったんじゃないか? ソフィアは今、どうしているだろうか? 元気でやっているだろうか? ……『選ばれし者』とは出会ったんだろうか?
 こんなにも不安なのは、ソフィアが未来に帰ってしまった夜から、プツンといつも見る夢が途絶えてしまったからだ。ソフィアが選ばれし者と出会えずに、崩壊してしまった……。なんて最悪なシチュエーション、想像したくなかった。
 ――トントン。
 ノックの音が聞こえた。珍しい。こんな時間にお客さんなんて……。オレは立ちあがり、ドアを開けた。
「統流くん、差し入れだよ」
 大家さんだった。手には木彫りの熊がサケを食っていた。
「……いらないっす」
 呆れるほど大家さんはボケていた。
「まあまあ。そう言わないでおくれ。いいかい、統流くん。この置き物のように、ここじゃなきゃいけない理由があるんじゃよ」
「え?」
 オレは聞き返してしまった。今、大家さんが変なことを言った。熊の木彫りのように、ここじゃなきゃいけない理由? 変な言い方だった。
 ……いや、まさか、大家さんはソフィアのことを言ってるわけではなかろうか?
 オレのお袋が大家さんと同じセリフを言っても、そんなこと思わないだろう。大家さんだからこそ、その可能性があった。
 ソフィアがオレを選んだ理由があるっていうのか?
「物事には、全て理由がある。それが偶然に見えるものもそうじゃ。ある存在がそこになければ、偶然はありえんからの」
 大家さんはオレの部屋をくまなく見渡していた。今のセリフは、オレに対して言ってるようで、独り言のようでもあった。熊の木彫り向かって言ってたら笑える。
「この世界には、偶然に思えるもので溢れておる。偶然だと錯覚してしまうものがたくさんあるからの。ワシがアパートをここに建てて、今までずっとここで住んできたのも、統流くんが去年この部屋にやってきたのもそうじゃ」
 それって、偶然に思えるものじゃなくて、全部偶然じゃないのか? オレはそう思った。オレが実家を離れようと決意してこの町に来たのも、大瀬崎と出会ったのも、奏とずっと同じ学校にいるのも、今高校に通ってることも。
 そして、ソフィアと出会ったことも。
 でも、その偶然が偶然じゃないっていうのか?
 大家さんが部屋に上がり、畳の部屋をぐるりと見回した。
「よし、ここがいいじゃろ」
 大家さんは木彫りの置物を棚の上に置いた。熊の足もとにペンダントが転がっている。
「そこ、結構バランス悪いんですけど」
 大家さんは気にせず話を続けた。
「統流くんは、こんなことを思ったことはないか? 形に無い『存在』なんて、あるわけがない、と」
 あ……、と声を漏らしそうになった。どこかでそんなことを思ったはずだ。しかも、誰もオレがそんなこと思ってるなんて知らないところで。あのときのオレは、たった一人だったんだから。じゃあ、なんで大家さんは知ってるんだ? わからない。でも、わからなくてもいい。続きがききたかった。
「ワシは、形に無い『存在』とは、奇跡なんじゃないかな、と思っとる。偶然が始まったのが過去で、たくさんの偶然が重なりあった今を現在と呼び、偶然が奇跡を呼び、未来に繋がるんじゃ。未来につながる奇跡、それは『小さな繋がり』じゃ。未来への『小さな繋がり』……。統流くんが残したそれは『キボウ』じゃ。統流くん、小さな偶然にも理由があるように、たった一つの『奇跡』にも、それから生まれた『キボウ』にも小さな理由があるんじゃよ」
 小さな理由……? じゃあ、ソフィアがアパートの前で倒れていて、オレと偶然出会ったのにも理由があるってことなのか? そして、奇跡的にソフィアが未来に帰れることができたのにも、理由があるってことか……?
 実は、思い当たる点が一つあるんだ。それが理由なのかはわからない。それだけ曖昧なものだけど、でも大家さん曰く『キボウ』に必要なのは小さな理由で十分だから、それで平気なのかもしれない。
 オレはいつも同じ夢を見る。内容はいつも同じだ。
 もう一人のオレが活躍している、その夢だ。


 もう一人のオレは、大切なものを探す旅に出ている。


 寄せては引く。寄せては引く。時代は変わろうと、世界が変わろうと、海は変わらずに囁きかけている。
 その日、オレは夢を見た。はじめ、どうしてオレが海岸に立ちつくしているのかわからなかった。三ヶ月も見ていなかったから、内容を忘れかけてしまっていたようだ。
 思い出そうと頭を働かせる。そうだ、もう一人のオレは、師や仲間との別れを経験しながらもたった一人で河を下り続けたんだ。そして、前の夢で河口に着いたのだ。
 オレはもう一人のオレを探した。渚を駆ける。白い砂を走るのはなかなか大変だ。海岸には誰一人としていなかった。もう一人のオレはまだ着いていないのだろうか。そう思った矢先、オレは波打ち際に白い何かを見つけた。オレはそれがすぐに人間だとわかった。現代の人間ならそれが人だとは思わないだろう。でも、オレにはわかる。
 うつ伏せの白い少女は静かに揺れる波に打ち寄せられていた。白い腕には、青とも、緑とも、白ともとれる色に輝くブレスレットが付けられていた。
 少女は気を失っていた。波で青い服が上下する。青い髪の上に変な被り物をしていた。不思議な模様は、今まで見たことがなかった。烏帽子に似ているようで、そうでもない。ビショップの司教冠にも微妙に似ている。よく観察すると、その冠らしきものは髪留めであることがわかった。この世界のおしゃれだろうか。髪留めと帽子が合わさるなんて、想像もつかなかった。
 おい、いたぞ! お前の探してたやつがいたぞ! どこにいるんだよ、もう一人のオレ! そう叫ぼうかと思ったが、どうせ声は届かない。何も言わずにもう一人のオレが来るのを待った。
 河口のほうを見る。現代の科学じゃ理解できないような建造物が建っていた。この付近は貿易で発展した港町なんだろう。
 沖のほうを見る。空を見上げた。空高くに岩の塊のようなものが点々とあった。中心の岩には、宇宙にまで届くんじゃないか? と思うほどデカイ塔が肉眼で見えた。だが、天辺は霞んでしまって見えない。空に浮く島がこの世界にはあった。
 砂を蹴る音が聞こえる。それが徐々に近づいてきた。振り返ると、一人の少年が走っている。オレの顔に似ているが、微妙に女顔だ。誰かが初めてこいつを見たとき、遠目からだったら女の子と間違えるだろう。
 正確な歳はわからないが、雰囲気は中学生のオレとよく似ているので十四、五歳だろう。
 しかし、近づいてくると服装で驚く。ジーンズのような上着とズボンを身に着けているんだが、そのズボンにはいかにも硬そうな膝当てが輝いているのだ。さらに腰から下げている大きな剣を見れば、なおさら顔とアンバランスに見える。というか、あんな大きな剣は普通に持てない。だが鞘が茶色い革というところが貧乏くさくて親近感が湧く。
 少年は打ち寄せられている少女向かって一直線に駆けていた。砂浜の足跡だけが、少年の過去を示している。少年が少女の隣でしゃがみこむと、うつ伏せのままの少女を引っ張った。オレも手伝いたくて仕方がない。でも、オレがその少女の腕を握ろうとしたところですり抜けてしまうから成す術がない。応援だって効果がないことを知ってたから、じっと少年の奮闘を見ていた。
 なんとか少女を引っ張り上げると、少年は慎重に少女を仰向けにさせた。そして、肌や衣服なんかに付いた砂を払った。首に下げるペンダントは鈍色に輝いていた。どこかで見た気がするロケットが付いているが、この世界にオレは存在しないから『どこかで』なんてものはない。気のせいだろう。
 そして、少年はただ少女の目覚めを待つのだった。オレも待った。


 何分か、十数分したあたりで少女が目覚めた。すぐ隣には、もう一人のオレがずっと座っていた。少女が目覚めたのに気が付くと、少年は小さく微笑んだ。
 少女はきっと、記憶を無くしてしまっていた。
 オレにはわかった。その瞳を見ればすぐに。
 少女はきっと、この少年を見たことがないだろう。
 それは、少女が探し求めていた人だから。
 でも、見覚えはあるはずだ。微かな記憶は留めると音は連ねたからだ。
 きっと、どこか遠い昔に出会った人のように。幼いころ好きだった初恋の人のように……。でも、どんな人だったかと思い返すと、輪郭は掠れ、消えてしまう。
 でも、それでよかった。それだけで十分だった。
「目が覚めた?」
 もう一人のオレが少女に笑いかける。
「オレはスバル。スバル・フォーエヴァー」
 もう一人のオレは少女に自己紹介をした。
 少女にとっては聞いたことのない名前だろう。でも、どこかでやっぱり聞いたことのあるような気がするはずだ。少女は首を傾げていた。ヒントが遠すぎるんだろうな。『スバル』じゃわからない。でも、何かが頭の中で呼びかけている。
 少女は遠い記憶を辿っていた。そして、あることを思い出した。少女は、その人のことが好きだった。大好きだったから、別れなければならなかったのだ。
 少女は顔をじっとスバルに向けた。スバルという、もう一人のオレに。
「君の名前は?」
 スバルが言った。
 少女は息を吸った。そして、吐く。なんせ、久しぶりにこの世界で声を発するんだから、緊張するに決まっている。目を閉じて、目を開けた。改めて少女はスバルの瞳を見つめる。
 何と運がいいことか、オレはその青い瞳に、やさしい顔に見覚えがあった。短い間だったけど、すっげえたくさんの思い出を作っていった、大好きな奴だ。
 少女は翼を広げた。
「えっと……」
 そして、翼の生えた少女はゆっくりと、自分の名前を呟く。
「私は……」


 ――私の、名前は……


翼の生えた少女




 その桜は、何千年も生きているような気がした。とても大きな柳桜だった。その根から発される青白いような、緑っぽい光がオレたちを幻想的に照らしていた。影がないのだ。目の錯覚だと思うが、影が見当たらなかった。
 冬だというのに、ここだけ温かい。春の息吹が吹きこんできそうな気がする。時空が乱れているのか?
「統流君……」
 ソフィアがオレの名を呼んでいる。
「ソフィア……」
 オレはソフィアの名を呼ぶ。
 幸せだった。それだけでオレたちは幸せなんだ。もう、未来になんて帰らなくてもいい。ここで、この桜の木の下で、一生暮らしていよう。今ここでそう言ってもよかった。でも、まだ我慢をする。それだと、ソフィアとの約束を果たしたことにはならない。想いを伝えるのは、することをしてからだ。
「それじゃあ……捜そうか。『トライブレス』を」
 とても居心地がよかった。口調も穏やかになる。別れがすぐ側まで近づいているのに。いや、別れなんてものはない。ソフィアがこの世界に居続けてくれれば、そんな心配しなくてもいいんだ。
 なら、なんでオレはソフィアが告白してきたとき、すぐに答えなかったんだ? なぜ今まで答えを引きのばしてしまったんだ? あのとき、何かとてつもなく大きな不安を抱えていたような気がするが、もう忘れてしまった。たぶん、その不安も杞憂だろう。そうして、オレはそのわからない不安をぬぐいさりたかったんだ
 ソフィアが頷いてくれた。ありがとな。じゃあ『トライブレス』を一緒に捜そう。
 オレたちは、不思議な光を頼りに至るところを捜した。どこもかしこもじんわりと温かい。落ち葉をあさると、温もりが指先から伝わった。ふと、今までのことを思い出した。
 ソフィアと出会ったとき。あのときオレは四択問題を頭の中で思い浮かべて現実を理解しようとしていた。今思えば、あの選択肢がなかったらオレは『トライブレス』を捜してないかもしれない。選択肢四番『落とし主を捜す』なんて、バカバカしいと思っていたのにな……。
 それから、ソフィアがオレの部屋で目覚めて、未来から来たって言ってきたんだよな。あのときは信じられなかったけど、それは記憶が曖昧で、補填されてたからとかなんとかって後日ソフィアが言ってたよな。一晩だけ泊めさせてやるから、朝になったら帰れって言って、寝てる間にどれだけひどいことを言ったのかを知った。
 朝起きたら、何も言わずにソフィアはオレの部屋を飛び出していて、春までならオレの部屋に居させてもいいって思ってた矢先にやられたから、オレは急いであとを追ったんだよな。珍しく勘が当たってソフィアを見つけたんだけど、ソフィアはカラスに襲われていた。オレが追い払ったけど、それでソフィアは飛ぶことが怖くなってしまったって言ってたな。
 それから、ソフィアは空に浮く島に住んでいて、『トライブレス』を狙う奴らに突き落とされて、タイムスリップしたことを教えてくれた。あと、未来の地球はほとんど消滅して、一部しか残ってないと聞いたときは衝撃的だった。
 そんな話をしているときに大家さんが入ってきて、ソフィアの存在がバレちまったんだよな。そういえば、オレの次にソフィアの存在を知ったのって、大瀬崎でも奏でもなく、大家さんだったのか。
 学校の放課後に代樹山へ行って『トライブレス』を捜そうと思ったら、大瀬崎に見つかっちまって、あのときはどうなるかと思った。にしても、あいつはこの歳で家出って……笑えるぜ。まあ家を飛び出して独り暮らしをしてるオレが言えることじゃないな。
 で、大瀬崎をオレの押入れに泊めさせてやって、次の日遅刻して、それで奏に目を付けられた、と。下校中、奏に尾けられてたなんて思いもしなかった。部屋に入ろうとしたら奏がわざとらしく声をかけてきて……。とっさに羽交い締めにしたんだっけか。今思い出しても恥ずかしいな。まあ、ソフィアに友達ができたのは本当によかったことだと思う。
 それから、奏の仕切る本格的な『トライブレス』捜しが始まったんだよな。代樹山の頂で見た星は本当にきれいだった。
 大晦日、お袋が来た。ソフィアがいなかったら、オレは今も親父を拒絶してたんだと思う。『気が向いたら、連絡するよ』ってオレが言ったあとのお袋、笑ってたよな。……春休みにでも実家に顔出すか。
 今年になって、奏がソフィアのためにわざわざ自宅の風呂を開けてくれたんだよな。ありがたかった。そのおかげで、ソフィアとソフィアの服がきれいになって、オレも嬉しかった。
 それから、ハイキング。忘れられない一日だった。ソフィアが空を飛んだ日で、オレがソフィアのことが好きだと気付いた日で、ソフィアが崖から転落した日で、ソフィアがオレに告白してきた日で、オレの葛藤が始まった日だ。
 それから二週間が経って、オレたちは初めてデートらしいデートをした。それも、大瀬崎のリュックがあっての話なんだよな。大瀬崎、お前は本当に最高の下僕だ。
 そこで、オレは思いだした。
「ソフィア、ペンダントはどうした?」
「あっ!」
 枯葉をあさっていたソフィアが跳びはねた。
「統流君の部屋に置き忘れてきちゃった……」
 そう言えば、今日はソフィアから連絡があって、学校で待ち合わせて、奏の家で風呂入って、それから大家さんのとこ行ってここに来たからなあ。忘れても仕方がなかったが、残念だ。今更部屋から持ってくるのも気がひける。
「やれやれ……」
 オレが思い出としてとっておくよ……そう言おうとしたが、それはソフィアとの別れを意味していた。言えない。だからと言って、またオレの部屋に戻るんだから、そんなにしょげるなよ、とも言えない。
 早くソフィアを未来に帰すのかどうかを決断しないとダメなのに……。身体だけが焦っていた。
 オレは大瀬崎と奏のことを思い出していた。
 ――好きになった奴は、世界でたった一人しかいないんだ。断言しよう、穂枝という人間は、過去にも未来には存在しない。現在というこの世界に、たった一人しかいない。
 ――きっと、翼の生えた人間……バーダーは、平和の象徴なんだと思うわ。だからきっと、未来の世界は平和な世界なんだなって、思ったわ。
 ソフィアは、世界でたった一人しかいない。時空の中で、たった一人しか……。
 そして、ソフィアは平和の象徴だ。世界を救うために必要な存在なのだ。
 決断できない。これだから、オレはダメなやつなんだ……。
 何か、何かこのオレに、決断するだけの勇気をくれ。
 ……ください。
 手に感触があった。枯葉の奥に、何か固いものがあったのだ。トライブレスかと思って引っ張ってみた。だがそれは違った。かなり細長い、錆びた金属の棒のようだった。全体があらわになると、それが錆びてボロボロになった梯子だとわかった。失望したような気がする。
 ――戦争が終わって、跡には桜の木が植えられた。昔は梯子があって、そこまで簡単にいけたんじゃが、錆びて壊れてしもうたようじゃな。
 大家さんの言葉を思い出した。確かに梯子があったんだ。
 大家さんの言葉は、意味深なものが多かった。ソフィアと初めて会ったときにも、ソフィアをかくまってくれた。翼の生えた人間を目の当たりにして、そんな冷静な対応ができる人なんてそうそういない。
 ……大家さんって何者なんだ? そう思ったが、オレにはそんなことわかるわけもなかった。もちろん、意味深な言葉の全てをわかろうなんてことだって無謀なことだとわてっているが。
 ふと、大家さんの言葉がさらに膨れ上がって出てきた。今日のことだ。
 ――ソフィアさんに、夢の話はしたのかい?
 ――ワシに話した夢だぞ。切実に話した、あの夢だぞ。
 ――ワシには、ソフィアさんと夢が関係していると思ってならないんじゃよ。
 オレは、コックになることが夢だ。その話をソフィアにしたことはある。でも、それはなぜか大家さんの言うこととは矛盾している。コックになる夢を大家さんに話したことなんてないし、ソフィアと関係しているとも思えなかった。
 じゃあ、何か違う夢なのか……?
 夢……。夢、ねえ。
 ああ、なんだ。オレはようやく理解した。あの夢だったのか。
「ソフィア、ちょっと聞いてくれるか?」
 崖の隅のほうでトライブレスを捜しているソフィアに向けて、そう言った。
「どうしたの? ……なんか、すっごく思いつめてる顔だよ?」
 オレは思いつめてたのか? きっと、そうなんだろう。今までずっと、いろんなことを考えてきたから。
「オレさ、寝てるときに、いつも同じような夢を見るんだよ」
 話を切り出した。その『夢』の話は、一度大家さんに話したことがあった。あのとき、オレは唸り声をあげてしまうほど恐ろしい場面に遭遇していた。大家さんがオレの唸り声に気付いて、心配してくれて、マスターキーを使って部屋にいたオレに声をかけてくれたんだ。そのとき、オレは大家さんに『夢』の話をした。そりゃもう、切実、という言葉が似合うほど真剣に。
 オレはソフィアに、もう一人のオレはどこか違う世界か時間にいるんじゃないかってことや、オレはそれを傍観することしかできなくて、その世界の人はオレに気付かないこと、もう一人のオレは、ただ顔が似てるだけで、性格は全く違うこと、もう一人のオレは大切なものを捜すための旅に出ていることなど、思い出すことを全部教えた。
 ソフィアは、オレが将来の夢の話をしているときと同じように真剣に聞いてくれた。だが、一通り話し終えると、ソフィアはコックのときとは違い、神妙な面持ちで考え事をしていた。
「……どっかで、何かが繋がってるのかもしれない」
 そうソフィアは呟いた。意味はわからなかった。強引に理解しようとするなら、ソフィアとオレの夢は繋がっているのかもしれない。大家さんの言ったとおり。
「と、統流君っ!」
 ソフィアが突然、息を荒げながらオレを見つめた。
「どうしよう、変な気分だよ……。胸がドキドキするの。破裂しそうなくらい……」
 ソフィアは胸を押さえていた。耳を澄ませば、ソフィアの鼓動が聞こえそうな気がした。そう思うってことは、かすかに聞こえているのを耳が感知してるのかもしれない。ソフィアが訴えかけている症状は、何かの発作なのだろうか。胸の鼓動が早く大きくなったんなら、何か悪い病にかかってしまった、と思うのが普通だ。でも、そんな心配は何故かない。むしろ当たり前の反応だと安心する。ソフィアの言うとおり、どこかで何かが繋がっているとすれば、それはオレとソフィアを繋げる何かなんだろう。無意識のオレはその鼓動の理由を知っているんだ。
「私さ、統流君に言ったよね。『選ばれし者』は普通の人と変わらないって」
 胸の鼓動を抑えようとしてか、ソフィアの声は小さく震えていた。
「ああ、そういえば言ってたな」
 あれは、そう、ソフィアが崖から落ちたときに思い出したことだ。
「特別な力を持った人と物がないと探せないって、言ったよね?」
「ああ、言った」
 まさか、とオレは直感した。オレの勘は当たらないが、直感は当たる。特にソフィアに関連する直感は。
「統流君の夢で出てきたその人が『選ばれし者』なのかも……」
 オレの直感は見事に当たった。ソフィアの『選ばれし者』を探す力は、時空を超えても存在するのだった。
 ソフィアは、少し笑顔になった。
「なら、さ。私と統流君は、ずっと繋がってるってことだよね……?」
「え?」
 オレは聞き返していた。ソフィアも、オレと同じようにその鼓動がオレたちを繋げているもんだと思っているのだろうか。
「だって、そうでしょ? 統流君がずっと『選ばれし者』を見てるってことは、『トライブレス』を頼りに『選ばれし者』を探す私といつか出会うってことだもん」
「ああ、そうか……」
 でも、オレの見てるのは、あくまで夢って可能性もある。夢の世界が(普通の人間が見る夢のように)、単なるオレの想像の世界だったら、目の前にいるソフィアなんて出てこない。もちろん夢なんだから、オレの想像で出てくるかもしれないが、それは正真正銘のソフィアではない。
「統流君、だめだよ。不安になっちゃ」
 胸を押さえながら、ソフィアはゆっくりと言った。
「私だって不安だよ。もしかしたら、私が未来の世界に行っちゃったら、こっちの世界の記憶はなくなっちゃうかもしれないって思うと、怖くて眠れなかったもん。でもね、今統流君が夢の話をしてくれたから、そんな不安どっか行っちゃった」
「記憶がなくなっても大丈夫なんて……んなことないだろ」
 オレは不安で仕方なかった。夢で見ようと、そうでなかろうと、ソフィアが未来に行ってしまうのは変わりない。夢の世界では、オレは見ることしかできない。触ることも話すこともできないんだ。
 ソフィアは記憶がなくなってしまえば、オレたちと過ごした日々を思い出すことはないんだろう。それって、酷すぎるとおもわないか? なら、ここにいよう。ソフィアがここに……オレの隣にいてくれれば、記憶がなくなることはない。
 でも、ソフィアは首を横に振った。
「ううん。大丈夫。だって統流君が見てくれてるんだもん。それだけで私は幸せだよ」
 幸せ……? そうか、幸せか。ウソじゃないよな? いや、そんなわけない。ソフィアが今までウソなんてついたことあるか? ないよな。本当にソフィアはそれだけで幸せなんだ。
 それなら、オレもソフィアを見ていられるだけで幸せになれるかもしれない。
 オレは、ソフィアが未来に行ってしまえば一生会えないんだとばかり思っていた。でも、考えてみろよ。オレは、これからもソフィアにまた会えるんだぜ。それって、ソフィアの言うとおり、凄く幸せなことじゃないか。
 たったそれだけのことを信じるだけで、オレの気持ちを落ち着かせることができるかはわからないけど、それで十分だ。
 オレは、顔をほころばせた。
 ……そうだよな、それで十分だよな。
 ソフィアも笑った。
 ……早く『選ばれし者』に出会えるように、頑張るね。
 神秘な光がオレたちを包み込んでいる。
 ようやくオレは気が付いた。いや、それがオレたちの決断を待っていたのかもしれない。オレは柳桜の根本で光る場所へと歩きはじめた。ソフィアも後を付いてきた。
 光源は一定の光を放射し続けていた。不思議と眩しくはなかった。オレは、左手でその光源に触れた。一瞬閃光のようなものがほとばしった気がしたが、気のせいだった。それを持ち上げる。光が手を包み込んだ。
「あ……」
 ソフィアが声を漏らした。
「トライブレス……」
 トライブレス、と呼ばれたそれは親指と人差指で作った輪ほどの大きさだった。それに腕時計を思わせる小さなベルトが付いている。その輝きを除けば、腕輪……ブレスレットに見える。そう、この光こそが、このブレスレットこそが、オレたちの捜し求めてきた、小さなタイムマシンなのだ。
「見つかったんだね」
「ああ」
『トライブレス』が見つかったってことは、オレは約束を果たす時が来たってことだ。
 桜の木に見守られ、オレたちは見つめ合った。


 約束を果たす日が来た。
 オレもソフィアも、口には出さなかったが、二人ともわかっていた。
 あのとき言った、ソフィアの言葉を思い出す。
 ――だって、だって、私、統流君のこと、好き、だから……。統流君のこと、大好きだから。
 オレの顔をぼうっと見つめていたソフィアの顔を思い出した。
 ――告白に対してのオレの答えは『トライブレス』が見つかったときに、お前が未来へ帰る直前に答えてやるよ。
 オレはそう言って、その場を乗り切っていた。
 そして、今オレの手には静かに光る物を握っている。温かさも冷たさもない。この感触が『トライブレス』だ。
 ついにこのときがやってきた。ついに、ソフィアが未来に帰ることのできる術をオレは入手したんだ。嬉しかった。ソフィアに、オレの想いを伝えることができるんだ。
 でも、口を開けることができなかった。開けたら、ソフィアがどこかへ行ってしまいそうな気がした。
「統流君……」
 ソフィアが近づいてきた。そして、『トライブレス』を持ってない方の手を握ってきた。さっき木の幹を殴った手だ。今まで感覚がなかったくせに、やわらかくて温かい感触が伝わってきた。ソフィアはここにいる。どこかへなんて行ったりせずに、オレの話を聞いてくれる。
 泣きそうになった。なぜか泣きそうになった。嬉しさからなのか悲しさからなのかわからないけど、涙が出そうになった。でも、笑っていようって決めたんだ。せめてお前が未来に帰るまで。
「ソフィア、聞いてくれ」
 呟くように言った。お前は頷いてくれた。
「オレさ、お前がオレに好きだって言ったとき『お前のこと嫌いじゃない。むしろ好きな方だ』って言ったよな」
 目の前にいるお前は頷く。青い髪の毛からソフィアの匂いがした。
「でも、それウソなんだ」
「え……」
 オレはソフィアの戸惑いを無視し、一気に言った。
「『むしろ』どころじゃない。お前のこと、すげえ好きなんだ。オレは、お前のことが大好きだ!」
 しばらく沈黙が続いた気がした。知らずしらずのうちにオレは俯いてしまっていた。オレは今、泣いているのか? なら、何に泣いているんだ? わからない。普通、どんなときに泣くんだろうか? 泣くという感覚すら忘れてしまったような気がする。
 オレの頬に温かい手が触れた。顔を上げると、お前は笑っていた。オレを慰めようとしているのか? いや違う。お前は慰めなんて上っ面なことはしない。ただ、笑顔で全てを包み込んでいるだけなんだ。でも、その笑顔もオレと同じように嬉しくて泣いてしまいそうで、すぐに崩れてしまいそうなものだった。
「オレさ、きっとこんなに人を好きになったことがないんだ。だから、何をどうすればいいのかわからない。でも、オレがお前の側にいると、いつも笑ってくれてる。だからオレはずっとお前の側にいたい。恐いことがあったら何でも相談してほしい。助けてほしかったらお前を守ってやりたい。いろんな服を一緒に買ってさ、お前に着させてやりたいよ。オレ貧乏でさ、お前にお茶ばっか飲ませてきたけど、デートのときみたいにたまにはジュースとか炭酸とか飲ませてやりたい。デートっつっても、ここら辺で楽しいところなんてほとんどないけどな。もうネタ切れだよ」
 お前はふっと微笑んだ。笑ってくれていた。オレの話を聞いてくれていた。
「オレが学校やバイトから帰ってきたらさ、お前が出迎えてきてくれて、オレが夕飯作りながら、何気ない話をしてさ、つまんないことでも小さな笑顔をたくさん作ってやりたい」
 今、オレはお前との思い出が脳内を駆け巡ってるよ。ああ、オレはこれほどまでお前のことが好きだったんだな。明るくて、天然で、でもやさしくてちょっと涙もろいけど我慢しちまうお前のこと、すんげえ好きだ。
「……でも」
 でも、『でも』なんだ。
 オレは思い出したんだ。なぜお前の告白の返事をすぐに返さなかったのかを。
「……オレは、不安なんだよ。お前と一緒にいることは楽しいけど、同じくらい不安なんだ。お前がいない間に、未来の世界がどうなってしまうんだろう。未来の世界の人はどうなってしまうんだろう。そう思うと、怖くてそれしか考えられなくなっちまうんだ。それに、もし未来に何かがあってしまったら、お前はどうなっちまうんだよ?」
 お前はじっとオレを見つめていた。
 ……わからない。そう言っているようだった。
「未来の世界が滅んだら、お前は消えてしまうかもしれない。それどころか、ソフィア・ブルースカイなんてもともと存在しないことになって、オレはお前と過ごした記憶はなくなるんじゃないか? そりゃ、お前は消えることなく普通にいられるのかもしれないけど、オレってネガティブだからさ、別に大丈夫だろ、なんて楽観的には考えられないんだ」
 お前は今、何を思ってる? 勝手に存在を消すな、と怒ってるだろうか。それとも、そういう可能性もあるよね、と同情してくれているだろうか。
「だから……未来に、帰ろう」
 オレの夢とか、未来の事情とか、そんなものが何もかも繋がっていればいいのに。未来と過去なんて、手と手みたいに繋がってたらいいのに。
「統流君……」
 お前は囁くように言う。両手でオレの右手を包み込む。
「私は、統流君が想いを言ってくれることを楽しみにして、ずっと捜してきたんだよ」
 オレの右手で輝くトライブレスが、オレたちを見守ってくれている。そして、柳桜も。
「想いを伝えるっていうのは、私のこと『好き』って言ってくれるだけだと思ってた。私もそれで満足だったんだけど……。でも、統流君は私の期待以上に想ってくれてたんだね。好きとか嫌いとか、そんなことよりもっともっと大切なこと、ずっと考えてくれてたんだね」
 ソフィアの翼が広がった。バーダーの感情表現なんだろうか。
「ほんとはね、私もずっと迷ってたの。未来の世界に行ったら、私の記憶はなくなっちゃうんだろうなって……夢で見たから」
 さっきも言っていた。記憶がなくなってしまうなんて、それはとても不安で、怖いことだ。きっと、ソフィアもオレと同じくらい、またはそれ以上に不安で、怖くて、迷っていたんだろう。オレも夢でソフィアが消えちまうことを知った気がする。ソフィアも同じような夢を見たんだろう。
 ソフィアの記憶がなくなるってことは、オレたちと過ごしてきた今までが、まるで白紙のように忘れてしまうってことだ。そんなの寂しすぎることだって思った。
「今日、奏ちゃんからは未来に行ってきなさいって背中を押されて、大瀬崎君からはこの世界に留まってもいいんじゃないかって言われて、ずっと迷い続けてたんだよ」
 オレと同じだ。オレだって、ソフィアを帰すべきか否かをずっと迷い続け、大瀬崎から二つの意見を聞いた。ずっと葛藤を続けた。
「でも、統流君の見る夢の話とさっきの言葉を聞いて、やっと心が決まったよ!」
 ソフィアが翼をバタつかせた。本当に嬉しそうだった。
「私……未来に帰るねっ!」
 ソフィアはそう言って笑った。
『やめるんなら、今よ』
 奏の真剣なまなざしを思い出した。
 未来に帰るってことは、お前の記憶がなくなってしまうってことだぞ? オレと一生会えなくなるってことだぞ?
 ……でも、いいんだよな? それが、オレとお前の決めたことだもんな。
『二人なら正しい判断ができると信じてるぜ』
 不意に大瀬崎のセリフが浮かんだ。
 ソフィアが未来に帰る。それがオレたちで決めたことだ。大瀬崎、お前ならわかってくれるよな? 奏だって許してくれるよな?
 ソフィアの瞳を見つめる。
「ああ、未来に行ってこい」
 ソフィアは頷いた。
 未来へタイムスリップするには、どうすればいいんだろうか。きっと、ソフィアは知ってるはずだ。それは、トライブレスを持つオレにもわかってしまった。ソフィアにトライブレスが渡れば、ソフィアはタイムスリップされるんだ。
 オレはトライブレスをソフィアに差し出した。だが、ソフィアは頷いたまま動かなかった。
「統流君……」
 ソフィアの声は、自信なさげだった。
「タイムスリップするのって、とっても不安なことなんだよ」
 ああ、わかるさ。大切な人と別れるんだから、オレだって不安だ。それに、何が起こるのかわからないんだし。
「だからさ、最後にわがまま言っても、いい?」
 ああ。最後だもんな。
「なんだっていいぞ。今してやれるもんならな」
 そう言うとソフィアは笑った。
 幻想的な光がソフィアを包み込んでいたからかもしれない。最後の微笑みが、今までソフィアを見てきた中で一番美しかった。
 ソフィアが一歩、二歩と近づいてくる。徐々にソフィアの顔が近づいてきた。ソフィアが背伸びをする。視界の全てがソフィアの顔になった。ソフィアの眼、ソフィアの鼻、ソフィアの口、こんなに間近で見たソフィアははじめてだった。まつ毛の一本一本を数えることだってできそうだ。
「統流君、あの……恥ずかしいから目を閉じて」
 ソフィアが目を閉じた。口を軽く閉じ、顔を横に少し傾けた。少しずつ近づいてくるソフィア。オレは戸惑った。このままだと、ぶつかってしまう。
 ……いや、これがわがままなんだって。
 オレはソフィアに言われたとおり目を閉じた。
 すぐに、唇にやわらかくて温かい感触が広がった。すぐに溶けてしまいそうだった。
 オレはソフィアを抱きしめた。背中に生える翼がやわらかかった。ソフィアに包まれて眠ったら、とても寝心地がいいんだろうな、なんて思った。オレは安心できた。
 ソフィアもオレを抱きしめていた。密着する肌と肌。早く高鳴るソフィアの心臓の音が聞こえた。もっと繋がりあいたかったが、それ以上は無駄だとわかっていた。ソフィアは右手で何かを探し求めていたからだ。
 ソフィアはこの安心しきったなかでタイムスリップをしたいのだ。オレも、このままソフィアを未来に帰したかった。感覚のない右手と右腕でソフィアをしっかりと抱く。ソフィアの左腕にも力が入った。そして、トライブレスを持つ左手でソフィアの右手を探した。
 この間も、ずっと唇を合わせ続けていた。息が苦しい。でも、このまま窒息しても悪くはないな、なんて思ったりもした。
 ソフィアの髪を撫でたくなった。オレはソフィアの背中にあった右手を上へ移す。ソフィアが不安にならないように、ソフィアから手を離さないように、ゆっくりとソフィアの背中をなぞった。そして、髪をくしゃくしゃと撫でた。リンスの香りが漂う。気がつけば、ソフィアの左手はオレの服を強く握っていた。唇が震えている。オレは、ソフィアの唇を包み込んだ。
 ふと、ソフィアの手とオレの左手が触れ合った。
 オレは、その手をしっかりと握りしめた。オレの手の内に入っているトライブレスをソフィアに渡した。その手は震えていた。オレの手も震えてるのかもしれない。だから、ソフィアを落ち着かせるために、オレの震えがバレないように、強く握り締めた。強く、強く。
 ありがとう……統流君。
 そんな声が聞こえたような気がした。
 幸せにな……ソフィア。
 だから、オレはそう答えた。声には出なかった。


 ――あなたは、選ばれし者でしょうか? いえ、違うのでしょう。あなたは未来に存在を与える者です。見事、役目を果たしてくれましたね。どう感謝すればいいのかわかりません。未来の運命の渦に巻き込んでしまい、今まで申し訳ございませんでした。ですが、次元の歪みを未来に帰ることができました。しかも、あなたはしっかりと『小さな繋がり』を残していきました。最高のお土産です。歪みを経由して形に無い『存在』を未来に繋げてくださいました。あなたは必然だったのです。だから、この世界に来ることができ、あなたは私の音が聞こえる。歪みが元の世界に戻るとき、歪んだ世界の記憶は失ってしまうでしょう。ですが、微かな記憶だけは留まっています。歪みが未来から来たと知っていたように……。
 オレはどこかにいた。
 それだけはわかった。
 ――申し遅れました。私は『トライブレス』の意識です。あなたが未来に繋げた『形に無い存在』は、時が来るまで私が守ります。そして、時が来たらこの世界にいた唯一の『存在』に委ねたいと思います。ですので、これからはじっと、夢の中で見守っていてください……。
 そんなことが、耳の中で囁いていたような気がした。


 不意に、何かがなくなったような気がした。手の感触がなくなり、密着していた肌の感触がなくなり、最後に唇の感触がなくなった。
 目を開けると、そこは闇に包まれていた。ただ、天上がひらけたここからは星空が見えた。光はただそれだけだった。
 何かが降り注いできた。雨だと思った。だが、そうではなかった。次に、星のカケラだと思った。でも、そんなものは降るわけもないとわかっている。ぼんやりと雫の一枚を手に取った。桃色の、薄い和紙のようなそれは柳桜の花びらだった。全ての花びらが舞い散っていた。それは、時間の乱れが治まったからだとわかった。だが、オレにはその花びらが、老桜から流される涙に思えてならなかった。
 一気に淋しさが増してきた。
「ソフィア……」
 そう呟くと、さらに淋しさが増してしまった。
 終わったのだ。
 そう思うと、一気に涙腺が緩んだ。今まで堪えていた涙の粒が一気に溢れる。
 オレは、柳桜の幹を借りて大声で泣いた。


 今日の昼も、いつもと変わりなく学食だった。
「二人とも、お待ちどうさん! 豚丼の穂枝君! 日替わり定食の神子元さん!」
 いつになくハイテンションな大瀬崎だった。オレと奏にそれぞれの食いもんが載ったトレイを渡す。
「そして、オレにはとっておきのカレー一丁!」
 自分の席にでんとカレーが載ったトレイを滑らせるようにして置いた。
 何かが物足りないと思った。それにすぐ気付く。
「大瀬崎、飲み物がないぞ」
「そりゃ、頼まれてなかったからな」
 じゃあ頼んでやろう。
「オレ、紅茶な。ストレートで」
「私はカフェラテね。カフェオレなんて頼んだら折檻だから」
「お二人揃って人使い荒いっすね!」
 大瀬崎がツッコんだ。それでもオレたちがお金を渡すと黙って受け取るところが大瀬崎らしかった。
 走って自販機へとぶっ飛ぶ大瀬崎の背中を見送る。
「ほんと、あいつって尽くすタイプよね」
「まったくだ」
 オレは箸を手にし、豚丼につけた。
「そうそう、今日はソフィアにお風呂、入れさせてあげられるから」
 奏はまだ食う気はないようだった。その代わりオレと話をして時間を潰す。
「おじさんとおばさん、いないのか?」
 奏が頷いた。
「その代わり、夜には帰ってきちゃうから、すぐ済まさないとダメよ。……バイトは?」
「今日はない」
 運がよかった。
 と、ズボンに入っている携帯電話が震えはじめた。電話だった。
「やれやれ……」
 オレが携帯を開くと、大家さんからだった。大家さんから電話だなんて、珍しい。
 ――統流君!
 受話器のボタンを押すと、大家さんではなくソフィアの声が飛び込んできた。興奮冷めやまぬといったような声で、オレが返事をするのを今か今かと待っているようだった。オレの部屋に電話はないから、大家さんの部屋の電話を借りているようだ。
 わざわざ電話を借りるほどの急用なのか? 嫌な予感がした。
「ソフィアか、どうした?」
 ――思い出したんだよ!
 思い出したって、記憶をか? わざわざ電話をするほど大切な記憶を取り戻したのか?
 それって、まさか……!
 ――この世界に来た場所を、思い出したんだよ!
 ソフィアがタイムスリップをし、この世界に行きついた場所を思い出した、そう言っている。そこに、タイムマシン……トライブレスが存在している可能性が非常に高いのは言うまでもなかった。鳥肌が立つ。それは、嬉しさからなのか、不安からなのか。
「そっか。よかったな……」
「どうしたの?」
 奏が小さな声で尋ねてきた。トライブレスのありかがわかったかもしれない、と言っておいた。
「四時に学校の正門で待ち合わせって言って。すぐお風呂に入れるように」
 奏の声もソフィアと同じように弾んでいた。胸がドキドキしてやまないのだろう。オレだって止まらない。二人とは違うドキドキだが。
「ソフィア、四時に学校の正門で待ち合わせだ。奏の家に行って風呂に入る。リュック忘れずにな」
 ――うん! ありがとうって奏ちゃんに伝えといて!
「ああ」
 そう言って、オレは携帯を切った。ソフィアの嬉しそうな声が耳の中で木霊した。
 なんでお前はそんなに嬉しいんだ? だって、お前が未来に帰っちまったらオレたち一生会えなくなるんだぞ?
「今日が、ソフィアとお別れの日……なのね」
 オレの曇った顔を見たのか、奏はそう呟いた。
「紅茶とカフェオレ、おまた……せ?」
 誰かの声が背中からした。オレは振り向けなかった。奏も、オレの背中の奴とは目も合わせず、ただオレを見ていた。
「ソフィアが未来に帰っちゃうの、イヤ?」
「え、マジ……?」
 奏の声と、背中からの声がステレオのように響く。
「嫌じゃないけどさ……。寂しくなるよな」
 オレはそれだけ言った。でも、思いはそれだけじゃない。言葉にできないような不安が頭上から降り注いできていた。怖い、という感情も含まれている。
「で、あの、よろしければ飲み物を……」
「統流、アンタがしっかりしてないと、ソフィアだって帰ろうにも帰れないわよ。あの子、そういうのに敏感だから」
 奏の言う通り、オレがしっかりしなくちゃいけない。わかってるんだ、そんなこと。
「あの、飲み物……」
 様々な光景や感情が混ざり合っている。立ちあがったらすぐ倒れてしまいそうだった。だが、そんなこと許されない。ソフィアだってきっと不安なはずだ。
「あれ? 駿河は?」
 我に返ったところで、オレは後ろを向いた。大瀬崎の姿はない。
 ……その後、テーブルの下でいじけている大瀬崎を奏が発見し、ソフィアの件の一部始終を語ったという。あと、奏の飲み物はカフェラテなのに、こいつはカフェオレを買ってきやがったから、また買わされていた。


 放課後、オレたちはホームルームが終わるとすぐに正門へと走っていた。約束の時間を過ぎても、担任曰くとても重要な話が続いていたからだ。抜け出そうと思ったが、雰囲気がそれを阻んでいた。
 ようやく正門に着いた時には、もう十分も遅れてしまっていた。ソフィアはいた。周囲から変な目で見られている。でも、ソフィアはオレたちを目で探していた。そして、オレと目が合ったときにとびきりの笑顔を見せた。
「統流君! 奏ちゃん! 大瀬崎君!」
 嬉しそうに駆けてきた。オレたちを見てひそひそと耳打ちしながら歩く奴らが無性にムカついたが、無視した。
「それじゃ、話は歩きながらしましょう」
 ソフィアが何かを話したそうにしていたので、奏がそう言った。ソフィアは頷き、オレの隣を歩いた。
 奏の家に行くまで、ソフィアは色んなことをしゃべっていた。この世界に来た場所にトライブレスがあること。つまりトライブレスは代樹山にあること。少し危険なところにあるから今まで行けなかった、など。でも、オレはほとんどそんな話を流して、ただ前のほうをぼんやり見ながら歩いていた。
 ソフィアがいなくなったら、オレはどんなオレになっているのだろうか。部屋のドアを開けたら、誰もいない真っ暗なアパートの一室に立っている……。電気はオレが点けて、自分が食うためのコンビニ弁当を食うんだろう。当たり前のことが、もう当たり前じゃなかった。
「告白、すんのか?」
 いきなり大瀬崎がそんなことを言ってきた。ふと現実に戻ってきたようだった。今オレは木製の椅子に座っていて、大きなテーブルを挟んで大瀬崎が座っていた。天井にはシャンデリアがあり、床には絨毯が敷かれている。ここは、奏の家のリビングだ。無意識のうちにここまで来てしまったようだった。もうソフィアは風呂に入っているのだろう。奏がいないのは、タオルでも渡しているのかもしれない。第一、あの二人がいるところで大瀬崎がそんなことを訊くわけもなかった。
「告白か? するぞ」
 オレは大瀬崎の質問に答えた。
「簡単に言う奴だな。それで失敗したら、ソフィアちゃん嫌な気持ちのまま帰ることになるんだぜ」
「いや、平気だ。あっちはもう告白してきたからな。オレはその答えを出すだけだ」
 そう言って深呼吸をした。自分の気持ちを整理する。ソフィアに好きだということを伝える。ソフィアはそれを受け止め、未来に帰る。それだけのはずだ。それ以上何を望むというんだ。
 大瀬崎のほうを見ると、口をポカンと開けていた。
「お前……。告白されてたんだな」
「知らなかったのか?」
「知るわけあるか!」
 ああ、と今更気が付いた。こいつが上半身裸で大家さんのところに行ったときに、ソフィアがオレに告白してきたんだっけか。
「……じゃあ、お前は告白したらさようならってことになるのか? 一度もデートせずに?」
「デート? したぞ」
「早すぎだっつーの!」
 確かにそんな気もする。
「でも、迷ってることは確かだ。ソフィアを未来に帰すか、そうじゃない方がいいのか……」
 振子時計がゆっくりと時を刻む。何もしていなくても、ソフィアと別れる時間が近づいてきていた。
「つまり、ソフィアちゃんのことなんて考えずに、自己中心的に考えれば、ソフィアちゃんをこの世界にいさせたいんだろ? 本来、未来に帰してあげるのがベストだけど」
 オレの気持ちを簡単に説明すればそうなる。
 大瀬崎は続ける。
「俺が思うに、その葛藤は俺たちみんな持ってると思うぜ」
 俺たちっていうと、お前も、奏も、そしてソフィアも葛藤しているというのか? まさか、そんな顔してないじゃないか。オレは大瀬崎を睨んでいた。
「だって、俺たちソフィアちゃんの友達じゃねえか。迷うに決まってる」
 ……そうか、忘れてた。友達だから、ソフィアといるときは素直に未来へ帰れることを喜んでいるんだけど、本当はもっと一緒にいたいんだ。ソフィアとオレは同じ立場にいるんだから思いは一緒だ。みんなの葛藤に気付けなかったのはオレだけなのかもな。
「俺もソフィアちゃんと会えなくなるのはめちゃくちゃ淋しいよ。それがソフィアちゃんのこと大好きな、だーいすきな穂枝だったらなおさらなんだろうね」
 皮肉だろうか、冗談っぽくオレがソフィアのことが好きなことを強調させた。でも、オレは黙って大瀬崎の話を耳にしていた。
「きっと、俺の千倍くらい迷ってるはずだ。いや、そんなに凄くはねえか。……前言撤回、それ以上だ」
 大瀬崎なりに、オレの想いを理解しようとしていた。それがどこか安心する。
「だから、お前の迷いを解消するために俺が意見を出したって、さらさら参考にならないけど、あえて話しておくぜ」
 大瀬崎が笑った。ふと、オレの顔が固まっていたことに気付いた。
「ああ、頼むよ」
 オレはぎこちない笑顔を作った。ただ顔を歪ませただけに見えるかもしれないが、笑ってやった。
「了解。じゃ、これから俺の家族のこと、話してやるよ」
 大瀬崎の長いお話が始まる。
「お前には言ってなかったが、俺には二十一になるアネキがいるんだ。頭もいいしスマートで、よくオレをいじる奴なんだけど、去年な、男と婚約したんだ。オレが見る限りいい奴だと思うぜ、アネキの相手は。で、アネキの両親にそいつが挨拶来たんだよ。そんとき、ジジイがすげー怒ってさ、うちの娘は渡さん! って、ドラマみたいなこと言って結婚認めなかったんだよ。特にアネキの相手は無礼なことしてないのにさ、むしろ礼儀正しいほうだと思うんだけどさ、頭のかたいジジイは認めないの一点張りだったんだ。そのとき、俺はなんでジジイが反対するのかわからなかった。
 アネキはジジイの反対を押し切って結婚して、結婚式開いたんだ。それでよ、ほら、花嫁が両親にお礼の言葉言うやつあるじゃん。あれ言ってるときに、あのジジイが泣いたんだぜ? 俺のばあちゃんが死んだときも涙堪えてたジジイが、悲しいわけでもなく、悔しいわけでもなく、嬉しくて泣いたんだ。結婚式が終わってから、ジジイが花婿に『娘を守ってやってくれ』ってぎこちなく言ったとき、初めて理解したんだ。ジジイがどれだけアネキを愛してたのかが、な。本当は、アネキを手離したくなかったんだよ。でも、アネキが幸せになることがジジイにとっても幸せだって思ってたんだろうな。だから、穂枝、お前の愛とジジイの愛は違うもんかもしれねえけど、そうやって思うことは難しいか? ソフィアちゃんを信じて、未来の世界を信じることはできないか? ジジイがアネキとその相手を信じたようにさ」
 とても長い話だった。でも、疲れなかった。
 オレが大瀬崎の父親だとしても、同じことを言うと思った。たぶん、結婚を認めなかったのは最後のわがままだったのかもしれない。でも、最終的には大瀬崎の姉を尊重したんだ。愛する娘の幸せを第一に……いや、娘の幸せは自分の幸せだと思い。
「なあ、大瀬崎」
「なんだ?」
 大瀬崎は特に変わりなく返事をした。大瀬崎にしては、姉の結婚も一つの思い出になっているんだろう。
 オレも、思い出になるんだろうか。ソフィア? ああ、懐かしいなあ……。なんて思えるようになるんだろうか。
「ありがとう」
 お礼を言った。背負っていた荷が軽くなった気がした。
「そんな、わざわざご丁寧にありがとうなんて言われても、どう対応すればいいのかわからないんだが」
 そういえば、真剣にお礼をこいつに言ったのは久しぶりか初めてだった。いつもいじってばかりだったからな。
「つーかさあ」
 大瀬崎がため息まじりに呟いた。
「ソフィアちゃんが穂枝のこと好きになっちゃうなんて、めっちゃくちゃ羨ましいんだけど! すぐ側にこんなハンサムな俺がいるのに……灯台とても暗しだな!」
 嫉妬していた。男らしくないな、と乾いた笑みを浮かべた。それに、お前はそれほどハンサムでもない。あと、言うなら灯台下暗しな。
「男はオープンとムッツリしかいないなんて大きな声で言ったからだ」
「よく覚えてらっしゃいましたね!」
 なぜか敬語で返してきた。ソフィアと過ごしてきた日々は大瀬崎も大切な思い出となっているんだろう、そう思った。
 そして、しばらく大瀬崎をいじっていると、ソフィアと奏がリビングにやってきた。青い服はさすがに洗えなかったが、身体はとてもきれいになっていた。


 アパートまで来ると、駐車場で大家さんが待っていた。オレたちに気付くと、無言で大家さんの部屋まで案内された。
 大家さんの部屋は、オレの部屋にはない畳の香りがした。ちなみに、オレの部屋も畳だが、緑茶臭がこびりついている。同じ広さなのに、幾分大家さんの部屋のほうが大きく見えるのは、コタツがなく、ちゃぶ台しかないからだろう。床が電気カーペットなので、寒さ対策はできているようだ。そして、ちゃぶ台の上にはそれからはみ出るほど大きな地図が載っていた。この地域の地図だ。
「それでは、早速話をするかね」
 部屋にオレたちが入ったことを確認すると、大家さんが口を開いた。
 ちゃぶ台に座り、このアパートがある場所を指差した。オレたちは大家さんの指先に注目した。
「ここがアパートじゃ。それで、ソフィアさんの大切なものはどこにあったと言ってたかな?」
 大家さんのやさしい目がソフィアに向けられた。
「私が覚えてるのは、代樹山のどこかです。すぐ近くにピンク色の葉っぱが付いてる、とても大きな木が一本立ってました。平坦なところだけど、すぐに崖があるところです」
 ソフィアがハキハキと言った。本当にトライブレスのありかを思い出していた。
「ピンクの葉っぱが付いてる木ってなんだよ。どこのワンダーランドツリーっすか?」
 大瀬崎が言った。
「桜よ」
 奏が即答した。なぜわかった。
 まあ、確かに初めて見た人なら桜がピンクの葉をつけてるって思うかもしれないな。でも、一つ疑問点があった。
「今、冬だよな? ソフィアがこの世界に来たときも冬だ。なのになんで桜が花つけるんだよ」
 奏があごに人差し指を添えてしばらく考え込んだ。そして、一つの結論に至ったのか、顔をあげてオレたちを見た。
「これは仮定に過ぎないんだけど……。ソフィアは時間を超えてここまでやってきたのよね? だから、時間を超えたタイムマシン……トライブレスによって周囲の時間が歪んでも完全に否定することはできないわ。だから、桜の木が冬に花を咲かせてても文句はないわよね?」
 まあ、そこら辺の所は奏がわかってればいいと思う。
「話を戻すぞ」
 大家さんがオレたちに言った。
「ワシはここら辺の地理は全て把握しておる。特に代樹山は古くから遊んできた庭みたいなもんじゃ。じゃが、桜が一本しか咲いてない場所はたった一つしかない」
 大家さんは指を移動させた。アパートから代樹山の頂上へ滑らせる。そして、ある一点で止まった。頂上のすぐ近くだった。
「ソフィアさんから聞いたんじゃが、一度代樹山の崖から落ちてしもうたようだな」
 ソフィアが崖から落ちたといえば、ハイキングのあの日しかない。ソフィアが告白してきた、あの場所だ。
「そのさらに一段下に、桜はあるんじゃよ」
 マジか……。オレは胸の高鳴りを覚えた。確か、大瀬崎がソフィアを質問攻めにした日、奏がはじめてトライブレス捜しに参加したあの日、オレは直角に切って落とされたような崖を見た。懐中電燈に照らされた土。三メートルほど上に懐中電灯をかざすと、木の根っこが見えた。その根っここそが、桜の木だというのだろうか?
「あそこは、戦時中高射砲が設置された場所なんじゃ。そのために山を削って人工的に平坦にしたところだったんじゃよ。戦争が終わって、跡には桜の木が植えられた。昔は梯子があって、そこまで簡単にいけたんじゃが、錆びて壊れてしもうたようじゃな」
 そんなものがあったなんて信じられなかった。きっと、代樹山は東京を守る要塞のような場所だったのだろう。
 大家さんが立ちあがった。
「ロープを持っていきなさい。あなたたちが統流くんとソフィアさんを下ろしたり引っ張ったりすれば、安全にいけるじゃろう」
 大家さんは戸棚から束ねられた二本のロープを大瀬崎と奏に渡した。一本目は、ハイキングのときにソフィアが落ちた場所へオレたちを下ろすためのもので、もう一つはそこからトライブレスのある桜の木の場所へと下ろすものだ。
 そこへ行けば、トライブレスは見つかる。ソフィアを見た。とても嬉しそうに笑っていた。
「おい、ソフィア」
 オレはソフィアに声をかけた。
 ソフィアが振り向く。
「なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
 オレは、こんなにも不安なのに。ソフィアがいなくなってしまうのが怖いのに……。大瀬崎に励まされても、完璧に吹っ切れたわけじゃないんだぞ。
 でも、なんでソフィアは笑ってられるんだ。
「だって、私の質問に統流君が答えるときが近づいてきてるんだよ! ワクワクして仕方ないもん!」
 お前は、それだけで不安な気持ちが紛れるのか? そんなにオレの言葉で救われたのか……?
 どうなっても知らねえぞ。
 と、オレは笑っていた。なんだかんだ言って、ソフィアを支えられている自分が嬉しかったのだ。
「それじゃあ、行きましょうか」
 奏が言った。大瀬崎とソフィアが頷いた。
「ほれ、頑張ってきなさい」
 大家さんがオレたちを見送った。
 オレも外に出ていくことにする。
「っと、待ちなさい、統流くん」
 大家さんに腕を掴まれた。振り向くと、大きな目でオレを見つめていた。
「ソフィアさんに、夢の話はしたのかい?」
 夢? コックのことか? そりゃもちろんだ。オレは自分の夢を初めて語ったのはソフィアだ。オレは大家さんの目を見て頷いた。
「本当か? ワシに話した夢だぞ。切実に話した、あの夢だぞ」
 ……いや、大家さんに話したことないからな。
 思わず苦笑してしまう。
「ワシには、ソフィアさんと夢が関係していると思ってならないんじゃよ」
 まあ、確かにいつも料理を作ってやってるけどな。でも、そんなに関係はないんじゃないか?
 大家さんのボケだろう。オレは適当に頷いてソフィアたちのあとを追った。


 外に出ると、日はもうとっぷりと暮れていた。星が点々と見える。
 山を登った。ソフィアと登る最後の日だと思うと、ワクワクよりも苦しみのほうが強かった。結局、オレは弱い人間なのだ。簡単なことですぐに折れてしまうんだ。
 隣にソフィアがいた。オレは、手を握ろうとした。ソフィアから優しく手を包んでくれた。冬の寒さから、そこだけが守られているような気がする。温かかった。でも、この温かさも今日で最後なんだ。そう思うと、涙が出てきた。
 どうしたの? ソフィアが訊いてきた。
 なんでもねえよ、とオレは顔を逸らした。もちろん、涙をぬぐうために。
 大瀬崎と奏はずっと無言だった。
 それぞれの思いを抱きながら、道なき道を登る。ただ、淡々と。


 代樹山の頂上に着いた。ここから見える星は、何度見てもきれいだった。でも、その光ですら心にチクチクと刺さって痛かった。星がきれいに見える場所にいるってことは、もうすぐソフィアと別れるってことだ。オレにその決意ができるのだろうか……。不安だった。
「それじゃ、私はここに残るわ。駿河は下で待機ね。で、統流とソフィアがトライブレスのあるところまで行く。これでいいわね」
 オレは頷いた。せめて最後は笑顔でいよう。今は辛いかもしれないけど、いつかは笑えるようになると信じて。
「神子元、ソフィアと何か話さなくていいのか?」
 大瀬崎が奏に訊いていた。
「別に。家でたくさん話したから、それで十分よ」
 そう言って、奏はソフィアを見た。ソフィアは照れ笑いをしていた。一体何を話したのだろうか。
 しばらくして、ソフィアが奏のロープにつかまった。そして、少しずつ崖を降りてく。次に大瀬崎が続く。
 大瀬崎も降りると、今度はオレの番だ。奏の白いロープを掴んだ。
「待ちなさい、統流」
 奏に呼び止められた。イラッとして睨もうとしたら、奏は今までにないほどじっとオレのことを真剣に見つめていた。その瞳にオレは動揺し、ロープを落とした。
「なんだよ……」
 オレの声が弱々しく聞こえた。
「やめるんなら、今よ」
 真剣な表情を保ったまま、奏はそう言ってきた。
 やめるって、それはつまりソフィアを未来に帰さない、ということか? 未来に帰したくない……その気持ちは大瀬崎の意見を聞いても揺るぎなかった。でも、ソフィアを未来に帰す。その決意もまた、不動だった。
 だから、オレは首を横に振った。オレはソフィアが一番幸せになることをするだけだ。
「思い出してごらんなさい。未来は危機に立たされているのよ。危ない世界なのよ」
 わかってる。そして、ソフィアはそれから逃げてはいけない運命を背負っている。危機を救うために、命をかけて未来の世界を守るんだ。平和ボケした日本じゃ考えられないようなことが未来の世界では日常なのかもしれない。
「でも、この世界で生きるよりかはマシだ」
 オレはそうはっきりと答えた。
 思い出せ。ソフィアはずっとオレの帰りを待つことだけが楽しみだったんだ。外にも行けず、テレビも見れず、ただじっとオレの帰りを待つだけの日々。しかも、寒い部屋の中でだ。
 少し危険な世界でも、未来は自由な世界なんだ。友達もいる。親もいる。ここよりも遥かに楽しい世界だ。
 と、奏の真剣な眼差しが和らいだ。代わりに重く深いため息が漏れた。
「はあ、そこまでソフィアのことが好きだと、妬けるわ」
 奏が妬くほど、オレはソフィアのことが好きらしい。それって、凄いことじゃないか?
 また重いため息が聞こえる。
「いいわよね、アンタたちは。特に統流は」
 え、オレ? オレのどこが羨ましいんだ?
「いつもいつも、私のことなんてムシして、どっか行っちゃうんだもんね」
 奏が目を逸らした。そして、黒い空を見上げた。
「覚えてる? 小四の頃、私がいつもアンタの近くにいたこと」
「……覚えてない」
 オレは正直に答えた。大体、小学校のころの記憶なんて覚えてる人のほうが稀だ。
 奏はとても呆れた様子だった。
「でしょうねえ……。じゃあ、あのとき私が言ったことも覚えてないのよね」
 覚えてないだろうな。
「私さ、そのとき友達とうまくいってなかったの。だから、私はアンタに助けを求めた。知らずしらずのうちにルールが決まって、知らずしらずのうちにリーダーが決まる。知らないうちにできたリーダーが、知らないうちに決めたルールを破るとグループで無視されるの。私はそんなルールわからないのに破っちゃったみたいで、グループから無視されたの。そんなのありえないでしょ? だから統流、助けなさいって」
 んな助けを求められた覚えないって。そう思ったのだが、どこかで聞いた覚えがあった。
「そしたらアンタはなんて言ったと思う? ルールがわからなかったら、リーダーに聞けばいいだろって、そんな適当なこと言ったのよ。ま、最初から期待してなかったけどね」
 思い出した。金曜日に大瀬崎が奏に訊いた質問の答えだ。
『私はね、そういうの嫌いなの。一つのグループに集まって、その中で暗黙にリーダーが決まって、暗黙に主従関係ができて、暗黙に掟ができるような、そういう友達ってものがね』
 奏の気持ちがわかったのは、昔そういう話を聞いたことがあったからだ。誰から聞いたのか、あのときは顔を思い出せなかった。でも、今思い出した。奏がオレに言ってきたのだ。
 心にあった小さなしこりが取り除かれた気がした。
「ずっと私がアンタの側にいたのは、ずっと監視だって言ってたけど、それは自分に言い訳をしてたんだと思う。本当は、自分を安心させたかった。それだけなのよ」
 今更ながら、奏は昔話をしていた。ソフィアに嫉妬してるって話はどこに行ったんだ?
 でも、奏からこういう話を聞けるのは珍しいから、じっと話に耳を傾けることにした。
「アンタって鈍感だから、私の訴えなんて伝わらない。だから、言ってもムダだってわかってたけどね。でも一番信じられたのよ。でも、いつかはアンタとも別れる日が来る。突然アンタが離れていっちゃうのは嫌だったから、私から故郷を離れてこの町に来たの。それなのに……そういうときだけ、アンタは家出半分で私にノコノコついてきて……。そのときの私の気持ち、わかってんの?」
 奏の口調が荒かった。それに、表情も硬かった。正直、怖い。
 だから、オレは苦笑いをしながらこう言った。
「スマン、わからない。でも、ごめん」
 謝りまくった。
 そしたら、奏はもっとムスッとした。やばい、癪に障ってしまったようだ。
「ようやく、アンタは一生私の気持ちなんて理解できないって胸を張って言えるようになったわ」
 ぽつりとそう呟いた。そして、不意にもこいつは笑った。いつもつまらない顔をしてばかりいるこいつが、笑った。
「そのとき、私は嬉しかったのよ。とっても嬉しかったのよ」
 ああ、オレも理解した。お前の気持ちなんて、一生理解できないよ。
「ずっとずっと、アンタが離れていきそうで、いつも私が必死になって繋ぎとめてたアンタが、私の手を借りずについてきてくれたんだから」
 そう言って、空に散らばる星を仰ぐ。北から吹きぬける風で髪が流れた。
 横顔を見て思ったことを、勘で言った。
「お前さ、なんかオレのことが好きだって、そう言ってるように聞こえるぞ」
「……はぁっ?」
 奏が反射的にオレのほうを見た。その顔は夜でもわかるくらい赤かった。
「バ、バカッ! そんなわけ……ない、わよ……。ただ、嬉しかったから、つい……」
 そりゃそうか。オレの勘はいつも外れるからそんなところだと思った。
 ふっと、奏の表情が和らいだ。大人の落ち着きがある。
「それでね、私思ったの。アンタと一緒に高校生活を楽しもうって。そのあとで会った駿河も仲間に入れて、一緒にバカやろうって思ったのよ」
 オレは大瀬崎と初めて話したあの日を思い出した。あのときからアイツはいじられキャラだった。
「……でも、しばらくしてそれだけじゃダメなんだって思ったの。この町に来た本当の理由を思い出したから。統流がいなくてもいいように、たくさん友達を作るってことをね。だから、友達を作った。アンタも少し前に会ったでしょ?」
 奏の友達と言われて思い出すのは、田舎のギャルみたいな格好をしたミズキとかいう香水臭いあいつだ。
「私は暗黙のルールをまさぐるようにして覚えて、必死に生きたわ。アンタに心配されないように頑張ったわ」
 星の光に照らされた奏の目は死んでいた。絶望に満ちた瞳を、オレは今まで見たことがあっただろうか?
「必死に生きたって……。そんな友達あるわけないだろ。それは、友達なんかじゃない。そりゃただの奴隷だ」
「……じゃあ、どうしろって言うのよ! 私がリーダーになって、他の人を苦しめればいいわけ?」
 奏が叫んだ。
 星の砂が奏の頬辺りで輝いていた。紛れもない涙だった。初めて見た涙。
「違う! オレや大瀬崎のような友達を探せばいいってことだ!」
 奏が泣きだしたのは驚いたが、オレも叫び返した。
 しばらくの沈黙が代樹山の頂を包み込んだ。ソフィアや大瀬崎はオレを待っているだろうか?
 オレがここに来たのは、奏の悩みを聞くためではない。
 もう下に行きたい……と思ったのは奏が『そこまでソフィアのことが好きだと、妬けるわ』と言った辺りまでだ。今は、奏の悩みをしっかりと聞いておきたかった。奏の悩みを聞いて、それからでないとソフィアにオレの意志を伝えることなんてできないと思ったからだ。
「そんな人、いないわよ」
 奏の弱々しい声のあとは、また静寂だった。
 いつも強がってる奏は、すぐに崩れてしまいそうなくらい弱い存在なのだ。すぐに心が潰れてしまいそうなオレと同じくらい、奏も弱かった。
 だから、子どものように泣く奏を少しでも励ましてやりたかった。
「オレたちみたいな奴ら、いると思うぞ。いや、絶対いる。考えてみろよ。女子が全員グループになって、暗黙暗黙ばかりだったら逆に寒気がすると思わないか? それに、お前がそう思ってるんなら、学校にも同じこと思ってる奴、いるって」
「いるわけないわよ。私は特別な人間だから……」
 しゃくり声を上げながら奏は言った。
 そう、奏はある意味特別な人間だ。小学校の頃、友達は男ばかりだった。中学校に入って、奏が女の子……男の子とは違う存在だと気付いた男子は去り、友達はオレだけになった。女子の友達は作ろうとしなかった。きっと、小四の頃の友達がトラウマになってしまったんだろう。その原因の中には、助けを求めた奏の手をとらず、適当に流してしまったオレにも少なからず責任がある。そして、人付き合いがうまくない奏は勇気を振り絞って、自ら独り旅をしようとした。でも、オレが付いてきてしまった。だから決心が揺らいでしまったんだろう。本当の友達と言えるようなもんは、オレと大瀬崎だけになってしまったんだ。
 でも、これだけは言える。
「お前と同じこと思ってる奴なんて、たくさんいるに決まってるさ。現にソフィアは暗黙のルールなんて作らないし、あったとしても従わないだろ?」
「ソフィアだって、私と同じように特別よ」
 奏は目を逸らした。ソフィアは特別か? 確かに未来の人間だ。でも、特別なんかじゃない。オレは首を横に振る。
「ソフィアの住む世界には、ソフィアの友達がいる。決して特別なんかじゃない。あと、あいつはオレにこう言ったんだ。どんな世界にも、似てる奴がいるって。それは、未来とか過去とか、そんな巨大なものだけじゃない。高校に進学したら、中学校のとき顔見知りだった奴に似てる奴がいたり、引っ越した先で何も知らない人のはずなのに、どこか親近感がわいたりとか、そういうのも含んで、だ」
 これは実際に体験したことだから、胸を張って言えた。
 でも、奏はそんなことわからないかもしれない。奏に友達といえる奴はオレくらいしかいなかった。だから、これからがスタートなんだ。
「それに、今のクラスにそんな奴がいなかったら、二年になってクラス替えがあったときに探せばいいじゃないか」
 オレは奏に微笑みかけた。こんな表情を奏に向ける日が来るなんてわからなかった。
「奏、お前は自分で思ってる以上に友達思いだから大丈夫だよ。大晦日の前日のこと、覚えてるか? お前、ソフィアのためにプロフィール作ってくれただろ?」
 だって、普通あんなに詳しいプロフィールを作るか? 作らないだろ。それなのにお前は作ったんだよ。それってすげえことだ。
「それ以外にも、ソフィアに色んなことしてやってたろ? いいか、奏。お前ならいい友達をたくさん作れるさ。自信持てって」
 奏にこれほど長いセリフを止められずに言いきった記憶がない。
 ……奏は泣くのをやめ、オレをじっと見た。
「アンタがそんなに言っても、不安なことに変わりはないのよ」
 奏の視線が揺らぐ。
「だから、さ。その、統流も……。統流、も……」
 奏はそこで言葉を詰まらせた。恥ずかしくて言えないんだろう。でも、奏の言いたいことはよくわかった。
 ――統流も、一緒にいてくれる? 友達作るの、手伝ってくれる?
 オレは、大きく頷いた。
「ああ、もちろんだ。あのときみたいにお前を置いていったりはしないさ。今度は一緒に友達探してやるよ」
「嘘だったら……承知しないんだからね」
「そんときは本気で蹴っていいからな」
 冗談っぽくオレは言った。きっと、奏は冗談で済ましてはくれないだろうけど。
 奏が背を向けた。そして、大きくため息をするのがわかった。
「ホント、アンタはソフィアのことが好きなのね。そりゃもう、嫉妬するぐらいにね。ソフィアがいなかったら、私にそんなこと言えなかったでしょ?」
 奏の背中がそう言った。まあ、確かにそうかもしれない。オレだって女子で友達といえるのは奏のソフィア(ソフィアは友達以上、といえるが)しかいないから、もしソフィアと出会わなかったり、仲が良くなかったりしたら、奏をここまで励ますことはできなかっただろう。
 奏が振り返った。涙のあとが見えるが、もう奏は泣いていなかった。
「行くんでしょ? ソフィアのところへ」
「ああ」
 もう迷いはない。ソフィアのところに行く。ただ、ソフィアを未来に帰すか、帰さないかはまだ少し迷っているが。
「一緒に未来へ行こう、だなんて言わないでよね」
「行かねえよ」
 その手は浮かばなかったが、そもそも行けるかどうかすらわからないし、行けたとしてもソフィアの二の舞にだけはなりたくないから嫌だ。第一、奏や大瀬崎、親に心配かけたくない。
 奏が微笑み、ロープの端を差しだした。オレはそれを手に取り、崖のほうへ移動した。
「あ、忘れてた」
 オレが崖を降りようとしたら、奏が待ったをかけた。
「ソフィアが行っちゃう前に、これだけは言いたかったの。未来の世界に、翼の生えた人間がなんでいるかってこと」
 そんなことわかるわけない、頭がパンクするだけ。いつかはそう言っていた奏だが、ちゃんと考えてくれていたのだ。
「きっと、翼の生えた人間……バーダーは、平和の象徴なんだと思うわ。だからきっと、未来の世界は平和な世界なんだなって」
 平和の象徴……。危機が迫る世界。たくさんの人々が死んでしまうと騒がれている世界。世界のほとんどが消滅してしまった世界。その中でバーダーは平和を象徴している。空を舞うソフィアの笑顔。全てを包み込んでくれそうな優しさ……。
「それ、意外と御名答かもしれないな」
 そんな気がした。
 奏はニコリと笑い、そして呟いた。
「行ってらっしゃい」
 オレは、ロープを支えに崖を下った。光は樹木にさえぎられていき、最後には消えた。


 枯葉の潰れる音がした。地面の感触がする。その二つが感じ取れなかったら、オレは今地面に立っていることなんてわからなかっただろう。暗黙に閉ざされていて、視覚は役に立たないということだ。
 大瀬崎とソフィアを探そうかと思ったが、大家さんの言葉を思い出した。トライブレスがある場所へ行くには、もう一つの崖を降りるのだ。つまり、下手に動くと足を滑らせて崖から落ちてしまうかもしれない、ということだ。ここはおとなしくじっと待って、目が慣れるのを待つのがいいだろう。それから大瀬崎たちを探しても遅くはない。というか、大瀬崎とソフィアが落ち合っていたら(二人とも崖から落ちてしまった、という意味ではない。二人とも出会ったら、という意味だ)、話し声くらいは聞こえるはずだ。
 耳を澄ませてみる。しばらくは胸の鼓動しか聞こえなかった。奏と話していたから、心拍数が上がっていたようだ。オレは心を落ち着かせる。
「……俺は、ずっとずっとソフィアちゃんとタイムマシンを捜してきた」
 どこからか大瀬崎の声が聞こえた。さらに耳を澄ませる。
「少しずつだけど、心に溜まっていく想いがあったんだ」
 会話の途中だったから全く内容がわからなかった。
 大瀬崎の一方的な話はまだ続く。
「それでな、俺の気持ちに応えること、できないか?」
「できません」
 大瀬崎の声のあと、やさしい声がした。ソフィアだった。大瀬崎の問いに即答している。
 ……会話から察するに、大瀬崎はソフィアに告白してるのか? そう思うと、二人の会話に入れなくなってしまう。飛び出して止めようとするのが普通なのに、それができないのはオレがヘタレだからか? いや、大瀬崎には不可能だとわかってるからだ。そうに違いない。
「今まで三十分くらい話してきたことも全部込みでもか?」
 告白なのか何なのかわからないが、大瀬崎は三十分もソフィアに気持ちをぶつけていたようだ。
「それでも、です」
「やっぱり即答っすか!」
 大瀬崎がオレにツッコむような勢いでソフィアにぶつかっていた。
「くそ……。どこからそんな堅い決心があるんだよ……」
 独り言のように呟いているが、遠い場所にいるオレにも丸聞こえだった。
「それは、私が統流君のこと、好きだからです」
 きっぱりとソフィアは言い切った。予想通り、大瀬崎はソフィアに告白していたようだ。ま、オレに敵うわけない。諦めろ。
「そっか……。なら仕方ないな」
 そうだ。きっぱり諦めろ。
「でもな、俺はソフィアちゃんがこの世界に居続けて欲しいんだ」
 な……。オレは何も言ってないのに言葉に詰まった。奏の家でオレに言ったことと、正反対のことを言ってるのだ。あのときは未来に帰すのがいいって言ってたじゃないか。なのに、こいつはそんなことを言いやがって……。オレに言ったお前の姉の話はウソだったのか?
「でも、私は帰らないといけないんです……」
 ソフィアの声が明らかに戸惑っていた。ソフィアの表情がわからないからだろうか、なんとなくソフィアもオレと同じく迷っているように思えた。
「よし、じゃあソフィアちゃんを引きとめちゃおう大作戦として、俺が穂枝と神子元に出会ったときの話でも聞かせてやろうか」
 やめろ。オレたちと大瀬崎の出会いになんら感動するもんはないけど、もし大瀬崎が変な演出でもして、ソフィアまで未来に帰ることを躊躇してしまったらどうすんだよ……。未来に帰れなくなったら、どう責任とってくれるんだよ……。
 しばしの沈黙のあと、大瀬崎はやたらと大きな声で言う。
「大丈夫、穂枝にとってヤバイことは言わねえからよ」
 そのあとで、鼻で笑ったような息の音がかすかに聞こえたような気がした。まさか……。
 大瀬崎は、オレがここにいること、わかってんのか?
「俺は、中坊の頃、すっげえいじめっ子だったんだ。そりゃもう、俺が自覚するくらいのいじめっ子だ」
 大瀬崎の昔話はこの冒頭で始まった。大瀬崎が中学生だった頃、よく弱い奴をいじめてたってのは聞いたことがある。だから、この話は本当のことなんだ。
 不安が脳裏をよぎった。
「別に理由はなかった。強いて言うなら、ストレス発散かな? 弱い奴殴るとさ、スカッとするんだ。周りの戦慄がたまらなかった。先公の対応も格別だった。そんな暴れん坊な俺は、そのまま高校に入った。そしたら高校じゃ、いじめはタブーってオーラが、まるで文字になってそこらじゅうに浮かんでるみたいだったんだよ。だからオレはいじめられなくなった。別に、わざわざいじめをすることなかったんだけど、でもストレスは溜まった」
 オレから見た大瀬崎の第一印象は、その金髪頭から不良だった。そして、実際不良みたいなことをやってきた奴だ。まあ、タバコとかアルコールには手を出してなかったみたいだし、それなりに頭もよかった(そうしないと今の高校に入れないからな)から、ドラマに出てくるような不良にまでは至らないだろう。ただのいじめっ子だ。どこの中学校にもいるような。
 ちなみに今言ったことだけ聞くと大瀬崎はただの悪役だが、そんなわけないぞ。
「そんなとき、神子元と仲良さげに話す穂枝がいたんだ。無性にムカついて、二人のところにヅカヅカ寄ったんだよ。イチャイチャしてんじゃねえよって言ったんだ。そりゃもう、不良らしく真正面から睨みを利かせてさ」
 ああ、そういやそんなことしてたな。
「そしたら、神子元の奴にうまく言い返されたんだ。さんざん弱い奴らの助けを嘲笑ったオレが何も言えなくなるくらいに見事にな。穂枝も調子に乗って、変なこと言いやがってさ、なんだか恥ずかしくなって、ノコノコと席に戻ったわけだ」
 懐かしい。確かにそれがオレと大瀬崎の出会いだ。奏は男子相手にならどんな奴でも口でなら勝てる。男友達ばかりいるからだ。
 ちなみに今言ったことだけ聞くと大瀬崎がめちゃくちゃ恥ずかしい人間に見えるが、これが本性だ。
「それ以降俺はあの二人には関わらない方がいいって思ったんだ。でも、あいつらはそう思ってくれなかった。その昼にさ、穂枝と神子元は昼飯を誘ってくれたんだ。ケンカ吹っかけた罰だって、購買で昼飯買わされたよ。そのときは嫌で嫌でたまらなくて、ムカムカしてた。でも食堂に戻って二人が幼馴染みで、静岡からやってきたって聞いたとき、少し面白そうな奴らだなって思ったんだ」
 確かに、自己紹介のときはオレが奏にヘコヘコと頭下げまくってたから、大瀬崎から見れば面白い奴らって思ったかもな。いや、大瀬崎は退屈で仕方ないときに、オレたちがやってきたってところで、そう思えたのかもしれない。一般人が、外見から不良に見える奴にわざわざ寄ってくるなんてないだろう。不良が寄ってくることはあるが、この高校に不良(ドラマに出てくるような本当に怖い奴ら)はいないからそれはありえない。
「ストレスばかり溜まってた俺だけど、穂枝と神子元といれば、そんなの感じないって思ったんだよな」
 その結果、大瀬崎はいじられキャラに抜擢され、ストレス溜まりっぱなしの役に就いてしまったわけだ。
「俺、今じゃいじられてばかりだけど、穂枝から奏の性格とか経歴とか聞かされてたから、別にどうって思わなかった。少なからず今までいじめてきた奴らへの償いも込みだったけど。でも、三人でいるのがめっちゃ楽しいのは、胸張って言える」
 大瀬崎は更生しはじめた不良だった。そして今では、こんな友達思いの人なんて見たことない、と思えるほど、友達のために動いてくれる奴になっている。大瀬崎って、本当にいい奴だと改めて思った。
「だから、ソフィアちゃんも、俺たちと友達になれたのはスゲえ幸運なことだと思うぜ」
 そう言って、大瀬崎はソフィアに笑いかけているに違いなかった。
 少し沈黙が訪れた。そして、オレは思い出す。
 今までの話は、大瀬崎の『ソフィアちゃんを引きとめちゃおう大作戦』の一環なのだ。オレが感動してしまうくらいなんだから、間違いなく作戦は成功してしまっていた。
「なあ、ソフィアちゃん」
 大瀬崎が猫撫で声で呼びかける。
「はい?」
「穂枝のこと、好きなんだろ?」
 こいつは紛れもなく悪だ。この作戦のあとでその言葉を発するなんて反則だ。
 間が空いた。きっとソフィアは頷いている。
「好きになった奴は、世界でたった一人しかいないんだ。断言しよう、穂枝という人間は過去にも未来にも存在しない。現在というこの世界に、たった一人しかいない。ソフィアちゃんが未来に帰っちゃうってことは、穂枝と一生会えなくなるってことだ。未来に穂枝みたいな奴がいるって思ってたら、それは間違いだぞ。穂枝は一人しかいない。未来の世界に『穂枝みたいな奴』がいても『穂枝』はいないんだ」
 怒りに燃えあがってくるのがわかった。拳が震える。わかってることだった。ソフィアが未来に帰ったら、一生オレに会えないんだ。
「しかも、死別じゃないから穂枝と過ごしてきた日々が一生思い出として残り続ける。それは、穂枝も同じことだぜ」
 最後の一言が強調された。それはオレに向けられた言葉だった。
 もし、この後の人生でソフィア『みたいな』奴に出会ったとしたら、多分オレは惚れるだろう。でも、相手はオレのことなんて何も知らない。アパートの駐車場で倒れてたことや、一緒にタイムマシンを捜したこと、コックになることが夢だってこと……。何もかも知らないんだ。それに気付いたオレは、どうなってしまうんだろう?
『どんな世界にも、似ている奴がいる』
 オレたちの背を押してきたその言葉が、刃を向けてくるなんて……。
「ま、答えは下で穂枝に言ってくれ。俺はただ、二人を引っ張り上げるか、一人を引っ張り上げるかの違いだけでしかないんだからな」
「うん……」
 自信なさげにソフィアは呟いた。
「じゃ、行ってこい」
 ソフィアは桜の木があるはずの場所へ下りているはずだ。そこは、最後の場所にも、スタートにもなりうる場所だ。
 しばらく、ロープが擦れる音がする。そして、いつしかその音はやんでいた。
「穂枝、そこにいるんだろ?」
 大瀬崎の声がした。オレはただ怒りにまかせて声の聞こえるほうへ走りだした。
 そして、大瀬崎がいるだろう場所に辿りついたとき、全力で拳を振り上げた。怒りだけを詰めたパンチは、何か固いものにぶつかった。はじめ、何を殴ったのかわからなかった。感覚がなかったから痛みはない。そして、ようやくオレは木の幹を殴ったんだと理解した。
「穂枝、一応言っておくが、俺は本気でソフィアちゃんをこの世界に留めさせるつもりはないぜ」
 すぐ隣から大瀬崎の声がした。殴ろうにも、感覚のない手で殴ることはできなかった。
「うるさい……。じゃあお前は、何が目的であんなことしたんだよ」
 怒りはまだ治まっていなかった。
「ただ俺は、お前とソフィアちゃんに考えてもらいたかったんだ。お互い向き合って、しっかりとな」
 大瀬崎のやさしい声がムカついた。
「ソフィアちゃんを未来に帰すか帰さないかは、お前とソフィアちゃんにしか選べないことだ。二人の友人として、平等な選択肢のなかから選ぶのが一番いいって、必死に考えた結果だ。それで恨まれたら、俺は申し訳ないとしか言えない。でも、俺はお前らが選んだ選択が一番正しいと思うし、二人なら正しい判断ができると信じてるぜ」
 ふと我に返った。
 こいつは、平等な選択肢を選ぶことができるように、二つの昔話……一つは大瀬崎の姉の話。もう一つはオレたちが出会ったときの話……をしたんだ。オレたちに恨まれたっていい。だから、それ以上のものをムダにしないでほしい、と大瀬崎は思って行動したんだ。
 バカな大瀬崎だが、バカなりに頑張って考えたんだろう。
「もう一度言う。俺はどんな結果になっても、お前やソフィアちゃんを責めたりはしない。男の約束だ」
 オレは無言で頷いた。何も言わなくても伝わっただろうか? いや、伝わった。オレは大瀬崎に細長い何かを握らされたからだ。ロープだとすぐわかった。
 怒りにまかせて幹を殴った右手が痛かったから、左手を縛るようにしてロープに掴んだ。
「お前らに、未来を委ねたからな」
 大瀬崎は『またな』と言う代わりにそう言った。
 今まで、たくさんの人に支えられてきた。お袋や親父、大家さんや店長、そして奏と大瀬崎。
 未来を救うとか、一生会えなくなるとか、そういうことは置いておこう。
 ただ、ソフィアのために何が一番いいことなのか……。それを、ソフィアと一緒にこれから考えていけばいい。
 崖を降りていくと、なぜか徐々に明るくなってきた。今まで見たことのない光だった。下がっていくにつれ、闇が深くなるはずが、眩しくなっていった。
 地に着き、振り返るとやっとわかった。
 満開の桜の根本から、白とも青とも緑ともつかない光が放射されているのだ。
 そして、目の前にソフィアがいた。
 翼の生えた少女が、そこにいた。


 ――また会いましたね。
 知らないうちにオレは何もない世界にいた。少し前までオレは何をしていたのだろうか。オレは、ずっとこの世界にいたのだろうか。色も感情もない、この世界に。
 いや、違う。オレはこの世界にいない。これは夢なんだ。夢だ。もう一人のオレがいた世界だ。どうやらオレはその世界に迷い込んでしまったようだ。
 自分を落ち着かせる。
 ふと気付いたことがあった。
 オレは、耳の奥底から聞こえる誰かの声に聞き覚えがあった。いつか聞いたことのある声。いや、音と言ったほうがいいかもしれない。それは実体のない世界の全体から聞こえてくるようだった。この世界がこの世界であることを示してくれる唯一の光だ。
 そして、思い出した。
 この音はオレに忠告をしてくれた。想いを伝えてしまえば、それはすなわち世界を崩壊させると、そう教えてくれた。
 オレは、この音のおかげでソフィアを助けることができたんだ。
 ――あなたの世界では、未来は限りなく分岐を続けます。
 確か、初めてこの音を聞いたときは何が何なのかわからなくなって、自分が抜け殻になってしまうような、精神と肉体が離れてしまうような感覚を味わった。
 ――そして、あなたはその中からたった一つの道を選びました。それが、私にとって最善の道だと思います。
 目の前に……といっても、距離感がわからないが、ぼんやりと見えるそれは微かに動いているのか、微動だにしないのか、それともオレが動いているのだろうか。とにかく音はそこにいた。
 ――歪みとの繋がりは必要ありません。繋がれば、きっと私は消えてなくなってしまうでしょう。つまり、未来は消えてしまうのです。未来への分岐も全て、可能性は失せます。
 音は警告していた。まだ危機は去っていない、と。
 でも、オレはいつしかその『歪み』と繋がりを求めていた。手と手のように、離そうと思えばすぐに離れてしまうような繋がりではない。永遠の繋がりを欲していた。
 だから、オレは音に尋ねた。
 ……オレとそいつは、繋がってはだめなのか?
 ――はい。
 答えはすぐに返ってきた。不快の感情が流れる。
 ……なんでだよ。そんなことも許されてはいけないのか? オレは。
 ――許されていないのは、あなたではありません。歪みのほうです。
 オレではない。それはなぜだろうか。歪みだからなのか? そうだな、歪みだからだ。
 ――ただし。
 音は連なる。
 ――未来は小さな繋がりを求めています。
 ……どういう意味だよ。
 わからなかった。繋がってはいけないと言いながら繋がれと言っている。それは、あなたは死んではいけない、だから死ねと言っているようなものだ。
 ――あなたは、その歪みを経由して形に無い『存在』を未来に繋げてほしいのです。
 何かの罰ゲームに思えた。頭の悪いオレに対して相対性理論を三十文字以内で説明せよと問われても答えられるわけがない。形のない『存在』なんてあるもんか。
 ――これは、未来が二本の道しかない世界ではできないことなのです。私はあなたとあなたたちの世界にしかできないことを託しているのです。
 これは夢なのだ。しかもオレの夢だ。オレの夢なのに、オレの考えを超える世界があった。理解なんて一生できないんだろう。
 なんてことはその数秒後には忘れ、さらに数秒後、オレは目を覚ましていた。


 学校が始まり、退屈な勉強の時間が始まった。勉強の合間の十分休みのときや昼休みはいつもどおりオレと大瀬崎と奏の三人で他愛無い話をし、放課後は食堂でバイト。それから帰ると、ソフィアと夕食をとりつついろんな話をして、それからトライブレス捜しをする。疲れたオレたちはトライブレス捜しから帰るとすぐに眠り、宿題をするのは朝学校で、という忙しい日々が始まっていた。
 疲れは当たり前のようにたまるが、慣れてしまうと疲れを忘れてしまうようだった。それだけ忙しいのだろう。
 そして、あの夜のハイキングから二週間が経った。
「穂枝! 今日はお前が昼飯買ってこい!」
「なんでだよ」
 昼休み、食堂で大瀬崎がそんなことを言ってきたので、オレはやる気なく言った。奏の昼飯を買わされるのは慣れてるからまだいい。だが、わざわざ大瀬崎のために購買という戦場に足を運びたくなかった。
「冬休みが終わってからずっと俺がお前と神子元の飯買ってやってるんだぞ!」
「おお、そりゃ凄い。新記録出してみようぜ」
「冗談じゃねえよっ!」
 びしっと大瀬崎のツッコミが決まった。
「……ったく、俺たちが初めて会ったとき、お前は言ったはずだ。オレはツッコミ王だ、とかなんとか。なのにこの様はなんだ! これじゃあ、お前はボケのトベリストじゃねえか!」
「わかったわかった。買いに行ってやるか」
 オレは席を立ちあがる。たまにはバレない程度に先輩を蹴散らして前へ進むのもストレスの解消になる。
「あの、トベリストってなんじゃい! ってツッコんでもらわないと微妙な後味になるんですが……」
 大瀬崎が苦笑いを浮かべていた。そりゃそうだ。今、オレは大瀬崎にツッコむべき場面であえてスルーし、逆に大瀬崎の分まで買ってやるって言ったんだからな。
 ふと奏の視線が目に入った。じっとオレを見つめ、そして目で何かを伝えようとしていた。オレには長年の勘でわかる。
 大瀬崎に買いに行かせろ。そう言っている。理由はわからないが、なにか企んでいるんだろう。
 オレは小さくうなずき、大瀬崎に向き合った。
「あー、いいことを教えてやろうか」
 オレは大瀬崎を購買に行かせるための言い訳を始めた。
「実はな、今奏はめちゃくちゃ機嫌が悪い」
「え? いつもと同じじゃねえかよ」
 大瀬崎が奏の顔をまじまじと見た。奏はいつも通りのムスッとした表情だ。だが、決して機嫌が悪いわけではない。いつも通りだ。
「そうよ。私はいつもと同じよ」
 そう奏も平然と言った。奏の機嫌はむしろいい方だと思える。ちなみにさっきオレが言ったのはハッタリだ。
 大瀬崎にだけ聞こえるように耳打ちした。
「あの口調は、絶対にイライラを押しこめてるぞ。そんなときにオレがいなくなったらどうなると思う? 奏の怒りが突然爆発して、憂さ晴らしに何やられるかわからないぞ」
「マ、マジかよ……」
 大瀬崎の声が強張っている。オレの嘘を信用しているようだ。
「だから購買行ってこい。その間にオレが機嫌を直しておくから。お前は奏に日替わり定食とチーズケーキとアイスレモンティー奢ってやれ。オレはカツサンドと焼きそばパンとイチゴクリームサンドを頼むな」
「お、おう。マジで宜しくな」
 大瀬崎が親指を突き出して言った。そして、購買に群がる生徒たちの塊に突っ込んでいった。
 巧みな話術で、今日の昼は大瀬崎のおごりになった。
 大瀬崎が戦場に紛れこんだのを見て、オレは席に座りなおした。そして、奏のほうを見る。
「ご苦労さま」
 奏はそう言ってオレ顔をじっと見つめた。
「アンタにどうしても言いたいことがあったのよ。ソフィアの世界に関してだけど」
 ソフィアの話。それは、オレが奏の家に行ったときのやつだ。なぜバーダーが生まれたのか。未来の世界は一体どんな世界になっているのか。それの答えが出たのだろう。
 奏はざっと周辺を見渡した。食堂のざわめきの中なら、逆に誰もオレたちの話なんて聞きはしないだろう。奏はオレに呟く。
「ソフィアのいる世界には、科学では立証できないような力が現実として存在してるわ」
 え……?
 オレは理解ができなかった。それはどういうことなのか、見当もつかなかったからだ。
 今、この世界では科学が全てだと思う。そりゃ、海底に沈む遺跡や、空からみないとわからない地上絵や、人が消えてしまう地帯、たくさんのオーパーツがあったりする。でも、そんなものも(オレの考える科学の究極体である)タイムマシンが発明されれば全て立証できてしまう。神秘の力、と呼ばれるものにだって、ただの自然現象だったり、手品のタネのようなものがあるとオレは思う。
 だが、こいつは何を言っていた? 科学では立証できないような力? そんなもの、今述べた『科学じゃないように見える力』以外オレには考えつかない。
「いい? これは未来の話よ。そして、未来からやってきたソフィアを見たら、科学以外の何かが存在しているって認めざるを得ないの」
 オレは黙って奏の話に耳を傾けた。
「思い出してごらんなさい。ソフィアは空を飛べるわよね? そのとき、なんて言ったか覚えてる? 楽しかったり、心が温かかったり、怖かったりしないと飛べないって言ってたでしょ?」
 ああ、確かに言っていた。オレはあのときのソフィアを思い出していた。とても悲しそうな顔をして俯いていた。そして、そのときオレも疑問に思っていたんだ。なんでそういう気持ちにならないと空を飛べないのかって。
「そりゃ、メンタル面も大事だと思うわよ。野球だってイラついてたり焦ってたら打てないじゃない? 気持ちを落ち着かせれば打てるようになるはずよ。
 でも、あの翼の大きさじゃあそう考えたって人の体重を支えられることなんてできないわ。だって、世界一大きい翼を持つ鳥が、アホウドリで開張三メートルなのよ? きっと、体重は十キロもないと思うわ。それに比べて、ソフィアの翼は開帳五メートルくらいかしら。とてもじゃないけど、アホウドリの四、五倍以上の重さがあるソフィアがそんな翼で飛べるとは思えないわ。
 無論、翼が大きくなれば、それを動かす筋肉だって発達しないといけないのに、あの容姿よ? 一度ソフィアの翼の根っこを見たことあるけど、普通の人間かそれ以上にスラッとしてたわ。私が妬むぐらいに、ね」
 ソフィアが飛んでいる姿を想像してみた。あれは、飛んでどこかへ移動するという鳥本来の使い方というより、人間が嬉しくなって踊ってしまうような、そんな感じの使い方だった。なら、コンパクトな方がいいのはわかる。だが、飛べない翼はただの飾りだ。なのに、比較的小さな翼でソフィアは実際に飛んでしまっているのだ。
「つまり、物理的におかしいの。それに、ソフィアは本当に感情によって飛べるかどうか決まってくるみたいだし……。だからね、バーダーってのはクローンみたいに科学の集大成じゃないってこと。ソフィアの住む世界には科学に代わるものが進歩した世界なのかもしれないし、科学と新たな技術が共に発展している世界になってるってことよ」
 すぐには理解できないような内容だが、要は今の世界では考えられないものがある、ということらしい。
「でもさ」
 しばらく奏の話を聞いていただけだったオレは口を開く。
「それでも、なんでバーダーが生まれたのかはわからないよな。それに、新たな技術ってのが何なのかわからねえし」
「それ言っちゃったらおしまいよ。未来の話なんだから私たちがいくら頭をひねったって、ただ脳みそがパンクするだけ」
 ごもっともな意見だった。納得いかないところがあるが、納得しない方がいいこともあって、このことは納得しない方がいいの類に入るのかもしれない。
 とにかく、ソフィアの世界には科学の他の何かがある。そして未来の世界地図は、一部しか描かれていない。その理由が、新たな技術によるものなのだろうか。それとも、科学技術のピリオドとなる出来事だったのだろうか。新たな技術は戦争の産物なのか、平和への祈りなのか、それさえもわからないことがわかった。無知の知、と哲学者は言っていたな。
 未来は何が起こるのかわからない。それは、何億年経った宇宙でも、二秒先の学校でも同じだ。だから未来に絶望なんてしちゃいけない。未来に希望を持っていけば、どんなに辛いことも乗り切れるはずなんだ。
 歴史を習う教科書があるのに、未来を予測する教科書がないのはそういうことなのかもしれない。
「おいっす。お待たせ!」
 背中から声がして、ようやく今オレは食堂にいることを知った。誰ともわからない不特定多数の雑談が耳に入ってきた。
 振り返ると、二つのトレイを持った大瀬崎がやってきた。
「穂枝には言われたとおり、カツサンドと焼きそばパンとイチゴクリームサンド、それとおまけでミルクティーをどうぞ」
「お、サンキュー」
 オレの前にパンとミルクティーの乗ったトレイが置かれた。今日の大瀬崎はやけに気が利く。
「おい、穂枝」
 大瀬崎がオレにだけ聞こえるよう、耳元で囁いた。
「神子元の機嫌は直ったか?」
 オレの嘘を本気で信じているようだ。まあ、あれを信じないのなら、大瀬崎じゃないんだが。
「ああ、もちろんだ。今は超機嫌がいいぞ」
 今度は本当のことを言った。奏の機嫌なんて最初からよかったんだから。
 大瀬崎が一つ咳ばらいをし、体を奏のほうに向ける。
「そして、神子元さんには日替わり定食……今日はベジタブルスペシャルとチーズケーキとアイスレモンティーをチョイス致しました」
 なぜか敬語を使う大瀬崎は、うやうやしくそれらの乗ったトレイを奏の前に差し出した。
 すると、大瀬崎は手ぶらになった。
「お前の飯はどうしたんだよ」
 そう聞くと、大瀬崎は青ざめた。
「やべえ……買い忘れた……」
 バカだこいつ。バカという言葉が褒め言葉に聞こえるくらいこいつはバカだ。バカという言葉をバカという小包に包み、バカと書かれた手紙を添えて贈呈したいくらい、こいつはバカが似合う。
「……あのねえ」
 奏がため息をつく。
「今日はあんかけチャーハンを頼もうと思ったんだけど……。それに、私はチーズケーキが嫌いなの。しかもこの季節にレモンティーがアイスってどういう意味? ホットにしなさい、ホットに!」
 奏の怒りが爆発した。
「ほ、穂枝! 話が違うじゃないか! 機嫌最悪じゃんかよ!」
 大瀬崎の怒りが爆発した。
「いや、これはお前が選択ミスして機嫌損ねたんだと思うぞ」
「お前がこいつらを選べって言ったんでしょっ!」
 確かにそうだ。オレは、わざと奏の機嫌を損ねるようなメニューを選んだわけだが、まあ罪は全部大瀬崎のほうに行くからオレはのほほんとしている。
「いいから、早く買いなおしてきなさい!」
「じゃあ、買ったやつはどうするんだよ!」
 大瀬崎が選択ミスしたトレイを指差して言った。
「お前が食えよ」
 そう言ってやった。
「俺が野菜嫌いなのわかってて言うのかっ!」
 大瀬崎が絶叫した。今日の日替わり定食はベジタブルスペシャルと言って、野菜サラダはもちろん、野菜スープに野菜の天ぷら、青汁、野菜丼など、ありとあらゆる野菜が詰まっている定食なのだ。
 その前に大瀬崎よ……。野菜嫌いってお前は小学生か。
「残さずきれいに食べなさい。もちろん私の奴買ってきてからね」
 奏がにこやかに笑いながら言った。ものすごい殺気が漂っている。
「は、はいいっ!」
 ひ弱な声を漏らし、大瀬崎が逃げるようにして購買へと駆けだしていった。


「そういやさ」
 あんかけチャーハンらを買って戻ってきた大瀬崎がケーキを食いながら口を開いた。
「神子元、お前友達と一緒に昼食わなくていいのか?」
「あら、アンタと私は友達って関係じゃないと思ってたの?」
 ホットレモンティーを口にする奏がそっけなく言った。
「いや、確かに俺たちは友達だ。でもな……」
 大瀬崎が言葉に詰まったように俯く。
 奏がマグカップを置いた。
「あ、間違えたわ。私たち主従の関係だったわね」
「わざとらしく訂正するなって!」
 大瀬崎が目を見開いてツッコんだ。
「主人が二人で、下僕が一人って大変だよな」
 オレも話に参加してみた。
「俺たち親友じゃないのかよっ!」
 親友? 大瀬崎が戯言を言っているようだった。
「とにかく、だ」
 話を戻そうと大瀬崎はフォークをトレイに置いた。
「神子元、女の友達とは昼一緒にしないのか?」
 ああ、なるほどな。少しオレも気にしてたことだ。焼きそばパンを頬張りながら話を聞くことにした。
「私はアンタたちと一緒にいたほうが楽しいの。だから昼はこうしてアンタをいじりながら昼食をとってるのよ」
「一言余計な気もするけど……でも、やっぱり女友達って、男とは違ってよ、なんか複雑なんだろ? 同盟みたいにいつも一緒に活動してるっていうか。俺の偏見かもしれねえけどさ、一回一回の食事が大切だったりするんじゃないのか?」
 オレは女子のことについて詳しいことは知らないが、たぶんオレの意見も同じようなもんだ。そういう話を昔女子から聞いたことがある。
 奏が深く長いため息を漏らした。
「私はね、そういうの嫌いなの。一つのグループに集まって、その中で暗黙にリーダーが決まって、暗黙に主従関係ができて、暗黙に掟ができるような、そういう友達ってものがね。そうなると、ありのままの自分が出せないから疲れるの。だから、私はありのままの私でいられるアンタたちと一緒にいるの」
 なんとなく奏の気持ちがわかった。というのも、昔そういう話を聞いたことがあったからだ。そのことを言った女子の顔は忘れてしまったが、とても疲れていたのだけは覚えている。
 オレたち三人のグループにも、リーダーがいるし主従関係もあるし、掟もある。だが『暗黙』という言葉は入っていない。誰もがありのままの自分でいられるから疲れもしないのだ。
 きっと、奏の気持ちが分かるのはオレだけじゃない。ちらと大瀬崎を見た。伸びをしてそして何かから吹っ切れたような満足感が顔から感じ取れた。
「なるほどな……。ま、俺が何か言うような立場の人間じゃないからな。ただ、そう思っただけだ」
 そう言って、大瀬崎は野菜丼をかきこむように口に入れた。
 その直後、自分が野菜嫌いなのに気付いたらしく、撃沈した。


 放課後、オレは家とは反対の方向へ足を運んでいた。
 今日はバイトがある。だから家に帰るのは九時過ぎになってしまう。銭湯に入ったりすると、十時を回ってしまうこともたびたびあった。飯は帰ってきてからになり、ソフィアもそのときに食べる。大家さんに頼んで、先に食べていろと言っても、ソフィアは聞かなかった。それならオレはコンビニで済ませられるし、トライブレス捜しも長くできるというのに……。まあ、強制できないオレもオレだが。
 商店街の裏にある定食屋がバイト先だ。オレは一番客の入る五時半から八時半までの間働いている。昔は皿を洗ったり会計をしたりするだけだったが、今ではギョウザやレバニラ炒め(オレの実家ではニラレバ炒めだった。それとどこが違うんだか)を作らせてもらえるようになった。
 店の中は暑いし、ヘマするとすぐに店長に叱られる。でもお客から注文が来て、オレの作った料理を食って、それで「うまい」と言ってくれる。それだけで本当に嬉しかった。
「お疲れさん」
 バイト時間が終わり、店長が声をかけてきた。
「今月のバイト料、忘れんなよ」
 店長はオレに小さな茶封筒を差しだす。そういや今日はそうだったなあ、と思い出した。
「ありがとうございます」
「ああ、これからも頑張ってくれよ」
 そう店長は励ましてくれた。とても温かかった。


 オレの家へ戻る。ボロアパートは、冬の寒さと夜の闇でブキミな雰囲気を漂わせていた。お化け屋敷というか、ドラキュラの館といわれてもおかしくはない気がする。
 でも、これがオレの住むアパートなのだ。中に入るとソフィアが待っている。明るい部屋の中、ソフィアが待っているのだ。
「統流君! お帰り!」
 ドアを開けると、ソフィアが飛びついてきた。
「静かにしろよ。バレるだろ?」
 そう言ってもう二週間が経っている。ハイキングに行ったあの日から、ソフィアは前以上に活発になった。ソフィアを抱きあげ、ドアを閉めて靴を脱ぎ、居間でソフィアを下ろす。
「嬉しいのはわかるが、もう少し静かに喜んでくれよ。アパートの住人にバレたらやばいって何度も言ってるだろ」
 ため息をついてから、ジャンパーを脱ぎ、台所に向かった。早々に夕食の支度をしないとトライブレスを捜す時間が短くなってしまう。
「なんか食いたいものはあるか?」
 オレは蛇口のほうを向きながら言った。
「統流君の作ったものなら、何でもいいよ!」
 言ってくれるじゃないか……。頬が緩んでしまう。今日は中華風肉と野菜炒めにしよう。
 まな板を出し、洗ったニンジンを切りはじめた。
「統流君の作ってくれたお昼ごはん、とっても美味しかったよ!」
 今日一日の出来事をソフィアは話しはじめた。テレビもないこの部屋に籠りっぱなしなのに、ソフィアは実に色んなことを話した。オレは相槌ばかり打っていたがそれでソフィアは満足のようだ。
「そういえばね、夕方に大家さんが来たんだよ」
「ほう、何しに来たんだ?」
 野菜と肉の入ったフライパンをかきまわす。油が跳ねる音がし、香ばしい香りが漂う。
「コタツの横に置いてあるダンボールをくれたんだけど……」
 フライパンから目を逸らし、コタツの周辺を見た。想像以上にデカいダンボールにすぐ目がいった。それは、毎月くれる親からの仕送りだった。
 どうせ、中は少しの金と茶っ葉と近所で採れた野菜だろう。
「開けてみたら、手紙があったの」
 ソフィアが立ちあがり、オレに手紙を渡した。味気のない白い封筒だった。送り主は、お袋だった。
 フライパンの取っ手を持つ手に封筒を挟んだ。野菜炒めに特製のタレを加え、素早く絡ませてから火を止めた。
 フライパンをコタツに置いてから封筒を開封した。中には一枚の便せんと数枚の一万円札が入っていた。金はいつも送ってくるが、便せんと一緒に送られてくることは今までなかった。
 便せんには、ずっと見ていなかったお袋の達筆で、こう書かれていた。
『統流へ
 元気でやっていますか? 私はいつも通り楽しくやっています。お父さんも頑張ってお茶を育てています。翔流も生意気ですが、相変わらず元気です。四月から中三になるんですよ』
 弟の学年くらいちゃんと覚えてるって、とオレは笑った。
『このお金はいつものように生活費に使ってください。あと、少し余ったら彼女のソフィアさんのプレゼントにでも使ってください。
 お父さんはずっとあなたのことを心配していましたが、私のほうから説得しておきます。きっと、あなたの夢を応援してくれると思いますよ。
 それでは、これからも頑張ってください。体調にはくれぐれも気を付けて。
 あなたの母より』
 お袋の言葉が心に沁みこんでいった。
 もう一度封筒の現金に目を向ける。入っている札の枚数がいつもより一枚多かった。しかも、今オレのカバンには店長から貰った茶封筒がある。ふと思いつきでカレンダーを確認する。今日は金曜日で、明日は土曜日。学校は休みだ。
 オレはソフィアが告白してきたあとに、無意識に思ったことをもう一度思い出していた。
『ソフィアと二人で買い物をしたり、ファミレスで飯食ったり、湖の畔で色々なことを話したり、笑ったり、夢を語り合ったりしたかった。本当の、恋人同士のように』
 思い立ったら、すぐに行動に移したほうがいいんだろうな……そんなことを思った。


 次の日の正午前、空は雲ひとつない青空だった。風は少し冷たいが、でも過ごしやすい。行楽日和だろう。
「ソフィア」
 オレは計画を始めた。
 オレはミカンを食べるソフィアに声をかけた。
「なに? 統流君」
 ソフィアはミカンを丸ごと口の中に入れていた。どうやら、大瀬崎がいつもやっていることをマネしてしまっているようだ。
「今日さ、外で昼飯食わねえか?」
「むぇ? まんもほほえああえんめめあ?」
「何か言いたいことがあるんなら、食ってから言えよ……。全くと言っていいほど意味がわからん」
 なんか、こういう会話を結構前にやったことがあった気がする。
 ミカンを少しずつ噛み、呑みこんだ。
「ええっと……。なんで外で食べるんですか?」
 ソフィアが首を横に傾けていた。
 そりゃ、お前と一緒に色んなところ行って、買い物したり遊んだりしたいからだ……。なんて言いたかったが、そんなことは恥ずかしくて言えない。
「日に当たらないと、白い肌がもっと白くなるぞ。外食ついでに色んなところ歩こうぜ。ほら、お前のソックス切れちまったしさ。買ってやるよ」
 だから、そう言った。
「デート、だね!」
 オレは盛大に吹いた。思ったことでもあえて文中に書かなかったようなことをこいつは平然と言ってのけたのだ。忘れてた。こいつは天然だったんだ。こいつなら、そんなの普通に言えるに決まっていた。
「まあ、そんなところだ」
 オレは苦笑いをし、そして立ち上がった。
「じゃあ、行くか。リュック背負ってけよ」
「え? ちょっと待ってよ」
 オレがジャンパーを持って玄関のほうへ行こうとすると、ソフィアが声をかけてきた。しょうがない、待ってやるか。オレは玄関の側で立ち止まった。
「お弁当は持っていかないの?」
 そうか、そうだったな。忘れてたな。オレは台所へと足を運び、弁当の準備をした。
 まな板を出した辺りでソフィアのほうを向く。
「って、持っていくわけないっつーの! 外食だぞ? わかるか?」
 久しぶりのノリツッコミだ。感覚が鈍っている気がする。
「外で食べるのに、お弁当がなきゃ食べられません!」
 ソフィアが反論する。
 ……お弁当がなきゃ食べられない? 少し冷静に考えてみる。
 そして、ある仮定を立てた。
「お前の世界には『レストラン』というものがないのか?」 
 そういうと、ソフィアが驚いて手を口にあてた。
「この世界にもあるんですか! 知りませんでした!」
 現代文明を完全に舐められていた。まあ、仕方ないといえば仕方ないんだが。
「あるよ。当たり前だ。行くぞ」
 オレは部屋の隅に置いてあるリュックをソフィアに放った。


 この町の市街地に出ると、やはり車や人が多くなる。ソフィアは辺りをきょろきょろと見回していた。
「人がたっくさんいるね!」
 白い息と共に、ソフィアは言って笑った。
「まあ、東京……都会に比べちゃこんなのたくさんのうちには入らないんだろうけどな」
 日本の首都をソフィアが知るわけもないので、都会と訂正しておく。しかし、この程度の人で驚くくらいなんだから、ソフィアが東京にでも行ったら目を回すに違いない。朝の通勤ラッシュに巻き込まれたら気絶するんじゃないか……? 想像したら笑えた。そして、あることに気がついて胸の中で何かが渦巻いた。
 この世界で、ソフィアはこれだけの人を見たことがあったか? いや、ねえな。だからソフィアは人がたくさんいるね、なんて悲しいことを言ったんだ。
「ソフィア……」
「ん? なに?」
 何も知らないソフィアがオレに微笑みかける。
「トライブレス、早く見つけような」
 オレは無感情に言った。どういう顔をして言えばいいのかわからなかったからだ。その言葉でソフィアは傷つくかもしれない。でも、ここで不自由な生活をするよりかは、オレのいない本来の世界で過ごしたほうが幸せなんだ。
「うん!」
 ソフィアが大きく頷く。
「見つけたら、統流君の想い、教えてくれるんだよね?」
 ソフィアの理由がそれだけでもいい。ソフィアが笑顔で帰れるのなら、それでいい。オレも、最後に見るソフィアが笑顔ならそれで満足だ。
「オレの想いを聞いたら、未来に帰るんだぞ」
「……うん」
 実際はどうなるかわからないけど。色々な意味で。


 国道沿いにあるこの町唯一のファミレスにオレとソフィアは入った。中は暖房が効いていて程良い暖かさだった。休日の昼時なのに、空席が点々とある。でも、ファミレス独特のにぎやかさは確かにあった。
「暖かいね」
 ソフィアが言った。今更だが、ソフィアはあの青い服を着ている。オレとソフィアが初めて会ったときに着ていた未来の世界の服だ。薄い生地で出来ている。この服でソフィアはずっと過ごしてきたのだ。きっとオレなら寒くて毎晩トライブレスを捜せるわけがない。
 ソフィアはずっと我慢していたのか……。そう思うと切なくなった。
「ここには、きっと温かい食いもんがたくさんあると思うから、いろいろ選べよ」
 オレは、それだけしか言えなかった。
 すぐに店員が来た。禁煙席か喫煙席のどちらかに座りますか? と訊かれたから、禁煙席にした。店員はすぐさまオレたちを窓際の席へと案内する。そこは四人座れる席で、やわらかそうなソファーが置かれていた。オレたちは向き合って座る。ソフィアはリュックを背負ったまま、相変わらず辺りを見渡していた。
「このメニューで食いたい物を選ぶんだが、それはそっちでも同じか?」
 ソフィアは天井で回っているシーリングファンをじっと見つめていた。オレの話を聞いていないみたいだった。だから、意地悪してやろうとソフィアの頭をメニュー一覧の本で軽く叩いた。
「いたっ。え、あ、うん。ありがとう。お、同じだよ」
 叩かれたソフィアは反射的に一瞬目を閉じ、そしてオレのほうを見た。少し動揺していたがオレの話は聞いていたようだ。表情の変化に富んでいて、見ていて楽しい。メニューを受け取ったソフィアはテーブルにメニューを置き、まじまじと見つめた。オレも反対側から見た。といっても、今日外食するのは昨晩から決めていたことだったので、何を食うのかはだいたい決まっていた。なにしろ、明日デートをしようと決めたとたんに緊張して眠れなかったから、昼は何を食うか、食ったあとはどこへ行こうか、など細かいところまで考え込んでしまったからだ。
「オレはハンバーグセットとチョコパフェにしようかな」
 昨夜考えに考えた結論がこうなった。なぜこうなったのかは、寝る直前のオレに聞かないとわからない。
「え! ちょっと待って。私まだ決まってないよ!」
「わかってるって。ちゃんと待ってやるから」
 想定していたが、ソフィアは絶対に何を食うか迷いそうだった。そして、その予想は的中した。だが、まさか十分も迷うとはさすがに思わなかった。
 最終的に、オレが手助けしてやり、ラーメンとチョコパフェに決まった。パフェはオレと同じものを食べたいという願いからで、ラーメンはラぁめん王の味を思い出したい、とのことだった。ラぁめん王のうまさには嫉妬する。
 店員を呼んで、ハンバーグセットとラーメン、パフェとドリンクバー二人分を頼んだ。
「ドリンクバーってなんですか?」
 ソフィアが訊いてきた。マジかよ、未来の世界にはあの画期的なドリンクバーがないっていうのか……?
「セルフサービスで、色んな飲み物が好きなだけ飲めるんだ」
 簡単に説明をすると、ソフィアが合点した。
「ああ、じゃああれのご先祖様なんだね!」
 あれってなんだよ。ってか、ご先祖様ってことは、ドリンクバーをも超越するものが未来にはあるのか? 気になるじゃないか。
 それから話題は変わり、オレたちは大家さんの話をした。大家さんは不思議な人だ、と言ったらソフィアはやさしい人だよね、と言った。会話が成り立っているのかどうか微妙なところだ。
 しばらくして店員からハンバーグセットとラーメンが出された。
 時刻はすでに一時を回っていた。原因の七割はソフィアが何を食べるか迷ったからだが、そのおかげだろうか、程よい空腹感でファミレスのハンバーグでもおいしく感じられた。
 ソフィアのほうはどうだろうか。オレはちらとソフィアのほうを見ると、ラーメンを上手にすすっていた。
 昔を思い出す。懐かしい。まだソフィアを地球を征服する奴だと疑っていた頃、こいつは箸すら上手に使えず、ぎこちなくラーメンをすすっていた。
 もう、ずっとこいつと一緒に住んでるんだな……。そう思えてきた。
 ソフィアの箸が止まった。
「……あれ? ラーメンってこんな味だったっけ?」
 ソフィアは不思議そうな顔をしている。変なものでも入っているのだろうか。
「ちょっと食っていいか?」
 少し気になって、オレはソフィアの持つ箸を奪うように取り、麺を数本口に入れ、メンマでスープを飲んでみた。
 特に変わったところはなかった。
「普通のラーメンだと思うぞ」
「え……そうなのかなあ。もっと美味しいと思うんだけど」
 ソフィアは納得していないようだった。
「きっとさ、あのときお前、めちゃくちゃ腹空かしてたろ。だから、どんなものでもおいしく感じられたんだよ。第一な、手作りのもんよりインスタント食品やファミレスのほうがうまいなんて、普通は思わないんだよ」
 そう言って、オレはソフィアの頭に手を置いた。恥ずかしそうにうつむくソフィアを見ると、どこからか安堵感が込みあげてきた。
 と、ソフィアが小さく笑いはじめた。
「統流君、もしかし前私が言ったこと、ずっと覚えてたの?」
 前に言ったこと……。そうだ、思い出した。あれは、ソフィアと出会ってからまだ一週間も経ってなかったころだ。オレや奏たちと一緒に初めて代樹山に登ったときだ。あのとき好きな食べ物について大瀬崎から訊かれたとき、ラぁめん王が好きだと答えていたな。あれをオレはずっと覚えていた。今思えば、あんなことすぐにでも忘れてしまうようなことなのにな……。
「そうだな。お前の好きなもの、覚えてたよ。なぜか」
 あのときはまだソフィアに好意を寄せてなくて、でもオレはソフィアの好きな食べ物を覚えていた。偶然なのか、あのころから意識していたのか、どっちかなのだろう。
「でもね、統流君」
 ソフィアが笑った。
「私は、統流君の作った食べ物なら、なんでも大好きだからね」
 その笑顔をいつまでも見ていたかった。ずっと、ずっと。
「夕食がオレ手作りのラーメンだとしても食うか?」
 だから、そんな冗談まじりに聞こえることでも、言った本人であるオレは本気だった。それは、ソフィアがどんな返答をしてくるのかも当にわかっていたからだ。
「うんっ!」
 ソフィアは大きくうなずいた。
 ……ああ、こんな生活が、いつまでも続いてほしい。ずっと、ずっと。いつしかオレは、そんなことを望んでしまっていた。ソフィアは未来に帰ったほうが幸せなのを知っていながら。この世界にずっとい続ければ、いつかは消えてしまう存在だと知っていながら。
 オレはソフィアとずっと一緒にいたいと、心の底から願ってしまっていた。


 会計を済ませたオレたちは、ファミレスから外に出る。ドアを開けた瞬間冷たい風が隙間から入り込んできた。オレから何かを奪ってしまうような、そんな感触だった。
「統流君、パフェ、おいしかったね!」
 オレのすぐ隣には、ソフィアがいた。いてくれている。『今』という時が、オレの心を穏やかにさせる。
 そうだな……。パフェ、おいしかったな。クリームを頬につけても気が付かないほど、お前はおいしそうに食べていたよな。
 こういう至福の時も、いつまで持つのだろうか。オレたちは、明日にはもう壊れてなくなってしまうような、脆い橋の上を渡っているのだ。だが、その橋が壊れるというときは、オレがいじいじとソフィアを未来に帰さない、ということだと気付いた。じゃあ、今オレが拒絶しようとしているのはなんだ? ソフィアを対岸へと送り届けることじゃないか? もしそうなら、オレは谷のどん底にソフィアを落とそうと企んでいることになるのか……? そんなの望んでない。オレはソフィアを対岸へ送るのが役目であり、義務なんだ。違うか? そうだろ? それとも、役目も義務でもない、違う何かのためにソフィアを送るのか?
「統流、君?」
 ソフィアの不安そうな声が白い息と一緒にオレの耳に届き、ドアの隙間から入ってきた冬の風に、ようやくオレは足が地に着いたようだった。
「ああ、わりい。少し考え事をしてた」
 もうやめにしよう。考えてるだけじゃソフィアを心配させるだけだ。
 今は楽しもう。楽しませよう。
「よっしゃ、次は商店街を案内してやるよ。どっか行きたいとこ、あるか?」
 ソフィアの顔がぱっと明るくなった。
「本当に? じゃあ、アクセサリーショップ行ってみたいな!」
 アクセサリー、ね。さすがに二万円超すのはきついけど、それ以下だったらソフィアにプレゼントしてやってもいいと思った。
「じゃあ、行くか!」
 オレにしては珍しく、とても明るい口調だった。
 そして、オレたちは寒い真冬の商店街へと歩きはじめる。


 アクセサリーショップなんて人生で一度も行ったことなかったが、さすが装飾品を扱う店だ。店はとてもきれいで、店が一つのアクセサリーだった。
 ソフィアはここでも辺りをきょろきょろと見渡してから商品をじっと眺めていた。よくもまあそんなに興味がわくもんだ、とオレはソフィアのうしろから彼女が手に取って見ているペンダントをぼんやりと見ていた。
「それ、欲しいのか?」
「え? あの、欲しいというか……」
 ソフィアがオレのほうを向き、そしてそのペンダントを見つめた。
「なんか、懐かしい気がするの……」
 ソフィアがそのペンダントを渡してきた。黄色の蔓らしき紐に、鈍色に輝く涙型のペンダントトップが付いている。いや、ペンダントトップだと思ったものは手で簡単に開けることができたから、ロケットと呼ぶべきだろう。ロケットには羽根をもっと簡潔な記号にしたような模様が浮き出ていた。言葉で説明すれば、アルファベット『E』を四十五度傾けて、縦棒を下に伸ばしたような模様だったが、そんな表面的なものよりも何か直接心を射抜いていくようなものがあった。
「買うか?」
「えっと……」
 口先では迷っているが、顔には「買いたい買いたい! 統流君買って!」と書かれていた。わかりやすい。
「買ってやるよ」
 オレはカウンターまで行った。
「三万九千八百円です」
 ……。
 だから、ソフィアは迷っていたのか。理解するのがあと十秒早かったらよかった、と反省した。
 決めた、今月は倹約月間だ。ここでこのペンダントをあきらめないところがオレらしい。というか、オレもこのペンダントをソフィアに渡したかったから、この値段が均衡なのかもしれない。ただペンダントに毒されてるだけだったら再検討の余地はあると思うが。
 色々と考えた結果、オレは財布を開けた。
 そして、そのあとも色々なところを回った。小物を買ったり、屋台に出ていた鯛焼きを一緒に食ったり、夕食のための食材を買ったりした。夕食を買うところが、一緒に住むオレたちらしかった。あ、もちろんソフィアの靴下も買ったぞ。でも、こいつはなんと買い甲斐のないことか、切れたニーソックスとさほど変わらない物を気に入ってしまった。もちろんそれを買ってやったけどさ。
 冬の短い日が沈みかけた頃、オレたちは湖の畔にある公園にいた。冬の湖は、たまに凍るそうだが、夕方の今は凍る気配はない。今の時刻、山と山の間から消える太陽は見事なものだった。
 今日は休日だというのに、公園にはオレたち以外の誰もいない。寒いのと時間の関係でだろう。東京には近いが、ただでさえ人口の少ないこの町の小さな公園だから無理もない。誰もいない公園のベンチに寄り添いながら座る。息を吐くと、白い靄がオレンジの夕陽を浴びて輝いた。
 今まであれほどはしゃいでいたソフィアも、ここまで来ると無言で自分の吐息と遊んでいた。今までこんなにソフィアが歩いたことはなかったと思う。いきなり歩きすぎたかな、と初めてのデートを反省した。
「統流君」
 不意にソフィアが話しかけてきた。
「ん、なんだ?」
「私ね、なんか知らないうちに、色んなことを思い出してたの」
 思い出したって、それは未来のことか? お前が本来住むべき世界のことか?
 ……ああ、思い出してしまう。オレはソフィアを未来に帰したいのか? 違うのか? どうなんだよ、いったい。
「私の住む世界には……」
 やめてくれ。オレは考えたくない。考えて、ソフィアを不安にしたくない……。
「統流君に似てる人がいるんだよ!」
「……え?」
 少し驚いた。不思議と共感できるものがあったからだ。今まで、タイムマシンだとか、世界は消えたとか、選ばれし者だとか、そんな現実味のないことばかりだった。さっぱりわからなかった。でも、似ている人がいる……。それは共感できた。高校に入ったとき、まだ奏以外の誰とも親しくなかったときだ。隣の人が中学校の頃よく遊んだ友達に似ていたり、ふとすれ違った生徒と小学校のときのクラスメイトに似ていたりした。オレの実体験とソフィアの言ったことが重なり、現実味を帯びていたから、無駄なことを考えずに済んだ。
「それに、大瀬崎君や奏ちゃんみたいな人もいたよ!」
「そう……なのか」
 オレは俯いて自分の手を見つめた。寒さでかじかんだ指先が赤くなっていた。たくさんの顔見知りがいる……。よりオレの経験に近づいてくる。
「あのさ……」
 ソフィアが小さな口を開いた。
「どんな未来も現在も過去も繋がっていて、どんな世界にも私みたいな人や、統流君みたいな人がいるの。世界中の繋がりの中で、どんなに苦しい時でも哀しい時でも、小さな嬉しさを見つけて、それで笑ってるの。それってとっても素敵なことだよね」
 不思議なことを言う奴だ、なんてソフィアを思い始めたのはいつ頃からだっただろうか。最近かもしれないし、ソフィアが未来からやってきたと言ってきてからかもしれない。
「ま、オレと全く同じ奴がいつの時代にもいるって想像すると、ゾッとするけどな」
「統流君! 違うよ! 統流君みたいな人、だよ!」
 今のオレには、もうどんな物事でも前向きに考えられる。だからこうやって冗談だって言えた。
 オレは笑った。ソフィアの脹れっ面がとてもおかしかったから、声を出して笑ってやった。ソフィアはムッとオレを睨んだあと、失笑して一緒に笑った。
 そうだ、オレは一日一日を楽しく生きていけばいいんだ。たくさんの思い出を詰めていけばいいんだ。簡単なことだとようやく気が付いた。せめて、ソフィアが帰る、その日まで。
「あとね、統流君。私、小さな頃の夢も思い出したんだよ」
 ソフィアが立ちあがった。きっと、その夢を思い出したことがとても嬉しかったんだろう。オレも夢の話をしっかりと聞くことにする。
「まだ私が小学校にも入ってないときの夢で、今はもう違うと思うんだけどね」
 思えば、ソフィアの昔話を聞く機会が今までなかったような気がする。もちろんソフィアの記憶がなかったからだ。だから、今ソフィアの記憶が蘇りつつあることにオレは喜びを感じた。
「私の夢はね、お姫様になることだったんだよ!」
 お姫様……? いや、わかる。ソフィアが小さい頃の夢だ。仕方がない。でも、お姫様は予想外だったから、思わず吹き出しそうになった。
「お姫様になって、かわいいドレスを着るのが夢だったんだ!」
 とてもかわいらしい夢だと思った。小さなソフィアを想像してみる。あどけない顔に、小さな翼。まるで天使のようなソフィアにドレスを着させて、白銀のクラウンを茶色い髪の毛の上にちょこんと乗せてやった。きっと、とても似合う。
「お姫様か……。お前らしい夢だよな」
 お前らしい夢……。それは自分に問いかけているようだった。オレらしい夢。オレがまだ小さかったころの夢は、コックさんになることだった。コックさんになって、美味しい料理を作るんだって、そう思っていた。
 でも、現実的にそんなの不可能に近いことだ。コックになるためには、何年も下積みをしなくちゃいけないし、いろんなことを勉強しないといけない。なにより、口に入れるものを作るんだから、少しも気を抜いちゃいけない。食器を洗ったり食材を選んだりなど、地味な作業が山ほどあったりする。当時描いたカッコよさとはかけ離れたものだった。
「どうせだからさ、オレの夢も聞くか? まだ誰にも言ったことのない将来の夢なんだが」
 オレの夢はソフィアのように幻想的で、異空間のような夢ではない。もっともっと現実的な、つまらない夢だ。
 ソフィアは頷いた。オレの夢を聞きたいらしい。家族にも、友達にも、幼馴染みの奏にすら言ったことのない夢を、今オレはソフィアに話そうとしている。
「オレの夢は……」
 ソフィアの目を見た。そして、ゆっくり、はっきりと言う。
「……コックさんだ」
「コックさん?」
「ああ。ガキんときからずっとなりたい夢なんだよ」
 オレは、まだ小さい頃の夢を諦めたわけじゃない。そりゃ、コックへの道は厳しいと思う。でも、オレの料理でたくさんの笑顔が作れたらいいなと思っている。好きなこととか趣味とかはあまりないけど、でも料理なら少し自信がある。だから、料理でたくさんの笑顔を作れたらいいな、なんてガキのオレは懸命に考えていた。それに、コックの道は厳しいかもしれないが、他の道も同じくらい難しいもんなんだと、茶を作る親父の背中を見てわかった。だから、オレはコックの道を進んでいる。
 オレはめんどくさがりだが、冷酷ではない。オレらしい夢だと思わないか?
 ソフィアがオレの夢を知り、目を輝かせていた。
「統流君なら、きっと叶えられるよ! だって、統流君の料理おいしいもん!」
 そうソフィアはオレを励ましてくれた。とても嬉しい。オレの夢を笑わず、応援してくれる。
 きっと、なんでオレがずっとこの夢を一人で抱え込んで誰にも言わなかったのか、と訊かれたら、笑われるって思ったからと答えるだろう。でも、ソフィアならきっと笑わずに激励してくれるってわかっていたから話したんだ。
 おのずと勇気が湧いてきた。オレは自身から込みあげてくるエネルギーで立ち上がった。
「よっしゃ、夕飯作るか! ラーメンだったよな!」
「うん! 手伝うね!」
 ソフィアがオレの隣に寄り添ってきた。
 そして、どちらかが先、というわけでもなく、同時に手を握り合った。
 真冬の小さな公園。夕陽に輝く湖を背景に、オレたちは初めてお互いを知り合えたような気がした。


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