ほえぶる!

ファンタジーやら現代もののエンタメ小説やら紀行文やら書いてます。自転車にも乗る。「文藝サークル~綴~」の中の人、「おにこくらぶ」の中の人、「ドジョウ街道宿場町」の中の人です。

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翼の生えた少女はもういない。
著 城ヶ崎ユウキ

目次

・第ニ部『迷境』
   序 章 『告白
  第一〇話『夕陽と陰影
  第一一話『追想
  第一二話『リアクト/ゴング
  第一三話『塩胡椒/異国の潮騒
  第一四話『植付けられた種/宿る木持ち
  第一五話『音ずれ/ニラレバ炒め
  第一六話『てんき/つむじ
  第一七話『白昼霧/サンドウィッチの気持
  第一八話『統流回顧録/蝕む
  第一九話『迷境
  第二〇話『明鏡
  第二一話『LIMITER/春咲く紫苑/追奏New!!
  二部終幕『榠莢New!!


前置き『翼の生えた少女はもういない。』

・第一部『不安』
  第一話『まるで昨日の話のように――。
  第二話『いずみちゃんとなかよしこよし計画公布で施行
  第三話『白いきれと布
  第四話『源流の泉
  第五話『冷暖房
  第六話『拠り所を探して
  第七話『Die Jetzt, die Vergangenheit und die Zukunft
  第八話『水辺の夕陽
  第九話『不安
  第二部予告版+α



・第三部『深紅(仮)』
・結末部『??』
・末文『???』

   前作『翼の生えた少女~Another Story of WORLD FUTURE~』
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 その世界の穂枝統流は、私のことを「何もない世界」と名付けました。
 私の中にある、離れた世界から眺めた貴方はそう名付けました。
 貴方にとってそれは正しいけれども、私にとっては間違っています。
 私は貴方の識るもの全てを抱えていて、抱える予定なのですから。

 その世界の翼の生えた少女は、私のことを「榠莢の胎盤」と名付けました。
 私を胎内に見立て、貴女たちを生命の粉と擬似させた貴女はそう名付けました。
 貴女にとってそれは正しいけれども、私にとっては間違っています。
 私の胎盤としての役割はごくごく一部を示唆しているにすぎないのですから。

 私は貴女の住む世界と接していながらも、貴女の方から触れることは不可能な存在なのです。
 縦があり、横があり、高さがある世界が貴女の世界だとすると、時間は貴女の世界を進めて眺めたり、遡って観察することが出来ましょう。
 しかし、私は「時間」ではありません。
 時間の眺める幾多の世界を、私は眺めているのです。
 貴女の識る穂枝統流の識る人間――あれは大室いずみ――及び貴女の識る穂枝統流の識る大室いずみの識る人間――あれはミナト・フォン・シュヴァルツヴェルト――はこう呼びました。
 大室いずみ及びミナト・フォン・シュヴァルツヴェルトのいる世界は一つではない、と。
 即ち、世界は無限に分岐を繰り返しているのだ、と。
 大室いずみ及びミナト・フォン・シュヴァルツヴェルトは「可能性の世界」と名付けました。
 その世界を客観的に眺めている存在、それが私とも言えるでしょう。

 しかし貴女に対しては「榠莢の胎盤」という譬えを使用することに抵抗しないと約束しましょう。
 貴女にとって私は「榠莢の胎盤」そのものなのですから。

 榠莢とは人の空想する草の名です。
 榠莢の葉の生え散りを元に暦を識ったのです。

 貴女が棲むべき本来の世界――穂枝統流に言わせれば、未来の世界――には可能性というものがありません。
 私であって私でない私の中の何かがたった一つだけのシナリオを作っているのです。
 それは異常な世界です。
 貴女があの穂枝統流のもとにやってきたのも、異常な世界のシナリオに書かれていたものなのです。
 穂枝統流の住む世界は時の最小単位毎に起こり得る全ての可能性によって分岐していきます。
 その中に異常な世界の貴女――貴女が可能性によって分裂する前の貴女――が植われば、他の存在と同様、時の最小単位毎に起こり得る全ての可能性によって分岐していきます。
 やがて元の世界に還ろうとしても、還れるのは無限に増殖した貴女たちのうちの一なのです。
 それは生命の誕生に似ています。

 無限の貴女たちのうちの一は元の世界に還っています、及び還ってゆく予定です。
 一を除いた無限の貴女たちはここを漂うか、あるいは「小さな繋がり」を辿ってそれぞれ穂枝統流のいる世界に戻る他ありません。
 「小さな繋がり」とは貴女が貴女でいるための道標です。
 もし「小さな繋がり」のない貴女が私のもとにやってくるならば、貴女は私と同化することになります。
 なぜなら、貴女は私を構成する一部分でもあるのですから。貴女が生まれる前、または貴女が死んだあとの貴女は私なのですから。
 「小さな繋がり」は私と貴女を区別するための証なのです。
 私が水だとすれば、「小さな繋がり」を持った貴女は油です。
 決して一つになることはありません。

 私にとって「小さな繋がり」を持つ貴女は異物でしかありません。
 そしてここは私です。
 私は私でない何かを想定していません。
 ですから、私とは違う貴女にとって私の中を漂うことは過酷であるとしか言えません。
 想像して下さい。
 世界の全ての情報が貴女の小さな思考回路に押しこまれていくその図を。
 目に見えない存在、貴女の言葉で言い表せない観念言語、そういったものが可視という存在で立ち現れているという事実を。
 貴女たちの言う「自分」の出来事、「自分」の周りの出来事、及び未来の出来事、過去の出来事、異国の出来事、可能性の世界の出来事……。
 それら全てが、貴女の中に入ってくるのです。
 出来事だけではありません。
 意志までもです。
 貴女の中に、私がいる状態です。
 大抵の貴女は宇宙より大きな私を抱えることで精神を崩壊させ、廃棄物となります。
 辛うじて精神を保つ他の貴女は、「小さな繋がり」を辿って穂枝統流のいる世界へと引き返します。
 ですが。
 貴女はそのどちらもしない。
 異物として私の中に留まっています。

 「小さな繋がり」はあらゆるものがその役を為し得ます。
 貴女の場合はあの穂枝統流の「貴女を思う気持ち」です。
 即ち、貴女とあの穂枝統流の思考は「小さな繋がり」として繋がっているのです。
 それは貴女以外の貴方にも言えることです。
 しかし同時に、世界というものは、他の時間からやってきた存在を忘却するように出来ています。
 貴女という存在は異時代にとって均衡を乱す存在でしかありません。
 世界は均衡を保つため、貴女という存在を忘却させるのです。
 ですが「小さな繋がり」を持つ人間――貴女にとってはあの穂枝統流――は違います。
 「小さな繋がり」は決して断たれることはないからです。
 あの穂枝統流は「小さな繋がり」を保つため、即ち「貴女を思う気持ち」を忘却させないため、定期的に貴女を思わなければなりません。
 また、貴女とあの穂枝統流の思考は繋がっているため、貴女の思考もまたあの穂枝統流に流れます。
 それをあの穂枝統流は不安や恐怖として認知します。
 貴女のほぼ全てを忘却しているあの穂枝統流にとって、貴女は未知の存在であるからです。

 ですから貴女が異物として私の中に留まることは想定されていない事態なのです。
 貴女にも、あの穂枝統流にも、苦痛しか生み出しません。
 貴女が廃棄物となれば貴女の思考があの穂枝統流に流れることはないでしょう。
 貴女があの穂枝統流の世界に戻るのであれば、全てが解決します。
 ご存知ですか?
 あの穂枝統流は、貴女が異物として存在しているために、不安を抱き、恐怖を抱き、不安と恐怖の心情を紛らわす為に伊東吉佐美と付き合い、また増幅していく不安と恐怖に呑まれたため、伊東吉佐美と別れたのです。
 その直後、あの穂枝統流は神子元奏と付き合うことになりますが、それもまた同じ結末を辿ることでしょう。
 あらゆる可能性が、それを示しているのです。
 その全ての理由は異物の貴女がいるからです。
 私は助言というものをすることも、提案することも不可能な干渉せぬ存在ですが、しかし貴女に言いたいことはあります。
 異物としての貴女は、存在してはいけない存在なのです。

「もしも……」
 いいでしょう、問いがあれば奏でます。
「私が壊れちゃって、他の私みたいな人になっちゃっても、統流君の不安が全部なくなるわけじゃないんだよね?」
 そうです。
 「小さな繋がり」を保持するため、定期的に貴女のことを思うことでしょう。
「なら、私はこのままでいたい」
 あの穂枝統流のいる世界には戻らないのですね。
「世界に意志があるって、言ってた」
 はい。
 世界は均衡を保つため、貴女という存在を忘却させるのです。
「もし、私が統流君のところに戻ったとして……その均衡が元に戻らないくらい崩れちゃったらどうなるの?」
 世界は私に還ります。
 即ち星が死ぬように、人が死ぬように、世界が死ぬのです。
「そんなの……そんなの、やだよ。統流君がいなくなっちゃうなんてやだよ。奏ちゃんや大瀬崎さんがいなくなっちゃうなんて……」
 それは貴女とあの穂枝統流が苦しみ続けても構わないと、そう述べていることと等しいです。
「違うよ。統流君を助けたいの」
 助ける。
 貴女のような存在に何が出来ると思考しているのでしょう。
 御覧なさい。
 この広大な私の、ほんの一原子に過ぎない人間の一に。
 空虚な王者として慢心する人間の一に。
 何が出来ると思考しているのでしょう。
 貴女の傷付いた羽根を「小さな繋がり」に辿らせるあの行為に何の意味があるのでしょう。
 私は貴女を見下しているわけではありません。
 当然、思慕の思想も存じません。
 私にはそのような感覚は不必要なのですから。
 しかし、不思議でならないのです。
 無限の存する貴女たちのうち、ここまで貴女を保っている異物は貴女しかおらず、また貴女だけの予定なのですから。
「私は……諦めない」
 諦めなければあの穂枝統流は苦しみ、やがて他の貴女たちのように精神を侵しましょう。
 それでも、貴女は諦めないと主張しますか。
「私、諦めないから。絶対、統流君を救ってみせるんだから」
 それが貴女の選択なのでしたら、私はもう何も言いません。
 しかし、周りを御覧なさい。
 廃棄物となった他の貴女たちが漂っています。
 その事実を忘れないで下さい。
 常に廃棄物となった他の貴女たちが隣にいることを。
 自我を保つ貴女は耐えられるのですか。
 まばたきすらおぼつかぬ瞬間を。
 一つの恒星が息を引き取る恒久の時を。
 その貴女の意志を保つことが出来るのですか。

「……統流君」
 翼の生えた少女は一人語ります。
「ごめんね、こんなこと言ってちゃ、苦しいよね。
 でもね、私統流君のこと、助けたいの。
 助けるためにはね、統流君の助けが必要なの。
 前に言ったよね?
 統流君のやさしさを、たくさんの人に分け与えてほしいなって。
 統流君のやさしさがね、統流君を救うことができるんだよ。
 そうしたらね、私も『小さな繋がり』から解放できるはずだから……。
 だから、

 助けてね、統流君」

 その声は、私の音に掻き消されることなく、私の中をかき混ぜていきました。


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目次
   Tsuisou-9  LIMITER


 冬休みが終わり、何週間か経った、とても星のきれいな夜だった。何十回と登ってきた代樹山は、今日を境にぱったりと登ることがなくなった。
 久しぶりに二人きりで頂に立っている。風は強い。日に日に気温は下がる一方だったから、登ってきた中で今日が一番寒い日だったのかもしれない。
 あいつの瞳は、私ではない所に向いていた。最近ずっと感じてきた、かすかな恐怖。揺るがぬ恐怖。中学時代の恐怖の対象。あいつの心が離れていってしまうこと。最近感じていたのはこれだ。あいつは確実に私への関心が薄らいでいる。だからあいつを惹くために、あらゆる手段を使ってきた。本当に私は醜い女だと思う。でも仕方がなかった。そうする他に、一体何をすれば良かったのだろうか。
「いいわよね、アンタは」
 溜息交じりの白い息が身を潜めるように出てくる。
「いつもいつも、私のことなんてムシして、どっか行っちゃうんだもんね」
 こいつはいつだってそうだ。不器用で、鈍感で、私の気持ちに、この恐れに、不安に気付いてくれたことが一度とあっただろうか? ないと断言出来る。今でさえも、関心がなくなってしまっている今でさえも、あいつは今まで通りの振舞いを続けているのだ。とても卑怯に思える。
 もうこれ以上離れていってしまうのは嫌だ。だから、気付いてほしい。この苦しみを、悲しみを。思いの内を明かしてしまいたい。私を知ってもらいたい。埋まるはずのない心の穴を埋めてほしい。現実はそう上手くはいかないと、何度も何度も心に言い聞かせておきながら、今なお希望に追いつくため、一心不乱に手を伸ばし、抗い続ける。
 その裏側で、私の気持ちを曝露した途端に世界が粉々になる妄想を何度したことだろうか。この場で、リーダーに訊けばいいだろ、なんて言われたら、私は間違いなく泣きだしてしまう。胸に空いた大きな穴を見せつけてしまう。
 迷う。空は黒く、でも星の僅かな光を反射させてうっすら藍のベールもまとっている。今しかない。
「覚えてる? 小四の頃、私がいつもアンタの近くにいたこと」
 私を包むベールをそっとめくるあげる。じっとその視線が注がれる。爪先で立っても同じ視線で世界を見渡すことは出来ない、遥かなる高みの存在なのだ。
「……覚えてない」
 一気に落胆し、呆れる。だが呆れていたように見せただけだ。だからそのあとに出た溜息は安堵によるものだ。私が初めて助けを求めた事件。この期に及んで助けを求めることが恥ずかしいことだと思ってしまう。あれ以降こいつに声を上げて助けを求めたことはない。あの事件のあらましをざっと説明する。あのあとこいつが男子のリーダーに相談しただろうことや、男子一丸となって私を救ってくれたことは秘密にしておきながら。
「……そしたらアンタはなんて言ったと思う? ルールがわからなかったら、リーダーに聞けばいいだろって、そんな適当なこと言ったのよ。ま、最初から期待してなかったけどね」
 本当は期待しかしていなかった。あのときはあいつしかいないのだと、ゲームやマンガのように、必ず私を護ってくれる騎士なのだと信じて疑わなかった。
「ずっと私がアンタの側にいたのは、ずっと監視だって言ってたけど、それは自分に言い訳をしてたんだと思う。本当は、自分を安心させたかった。それだけなのよ」
 私は何を言っているのだろうか、一体何を話している途中だったのか、もう頭が真っ白で、でも伝えたい何かが額の上近くに浮いていて、とにかく伝えたいことを伝えるための時間稼ぎのため、口から出るがままの言葉を織りなす。こいつと離れるためにこの高校へ入ったこと、それなのに家出と称して一緒に付いてきてしまったこと……。
「そのときの私の気持ち、わかってんの?」
 多分、私は怒っているように見えるだろう。きっとそう演じているのだ。瞬間しおらしくなって話したら、こいつはどんな反応をするだろうか。でも、そんな姿を見せるのなら、それはきっと私ではない。私はお転婆娘で、ずっとずっと目の前の男の子を引っ張り続けていたはずなのだから。
「スマン、わからない。でも、ごめん」
 目の前の少年は繰り返し謝罪をする。まるで壊れたレコードのように。
『ごめんね、ごめんね』
 あの呪文が脳裏をよぎる。一番耳にしたくない言葉。私は謝られるのが一番嫌いだ。まるで上辺だけの謝罪が特に嫌いだ。活字原稿を読んだ挙句、遺憾の意を表しますと言って頭を下げる責任者が気持ち悪くて仕方がない。あの行動に意味があるのか疑問視してしまう。
「ようやく、アンタは一生私の気持ちなんて理解出来ないって、胸を張って言えるようになったわ」
 そう言った途端、私はおかしくなってしまったのか、破顔して、それから、一気に怒りの衝動が頭上から吸い取られてゆく感覚を味わった。
「そのとき、私は嬉しかったのよ。とっても嬉しかったのよ」
 これほど正直に気持ちを伝えられたのはいつぶりだろうか。きっと初めてのことだろう。今までこいつにはバカバカと連呼していた。実際バカだし鈍感だから、無事受験に合格してくれたときの私の嬉しさなんて想像出来ないだろう。
「ずっとずっと、アンタが離れていきそうで、いつも私が必死になって繋ぎとめてたアンタが、私の手を借りずについてきてくれたんだから」
 ここまで言えば、バカなこいつでも理解するはずだ。
 風が吹く。私の長い髪の毛が揺れる。この髪の毛はいつから伸ばしているのだろう。女子の友達が欲しいと思い始めてから、ずっと伸ばしているような気がする。
「お前さ、なんかオレのことが好きだって、そう言ってるように聞こえるぞ」
「はぁっ?」
 思わずその顔を見返す。
「バ、バカッ! そんなわけ……」
 久しぶりに見た正面の顔。そんなわけ……ないのだろうか? 私の言葉――嬉しかったという言葉――は本物だ。本物の言葉の中に、こいつのことが好きなのだという意味が含まれているというのだろうか。私の感情を理解出来ていなかったのは、自分の方なのだろうか?
 不思議そうに見つめる表情は、昔から変わっていない。
「ただ、嬉しかったから、つい……」
 その、言い訳とも思えない、逆に肯定するような言葉に、こいつは妙に納得する。自分の勘は、当たらない勘であることを再認識したような納得だ。所詮、こいつはこいつなのだ。
 それから中学までの自分を捨てて、新しい自分となって高校生活を始めた旨を伝える。
「……でも、しばらくしてそれだけじゃダメなんだって思ったの」
 ここに来た本当の理由は、一人立ちでもなければ大学に近いことでもない。女子の友達を作りたかったからだ。
 しかし、女子の友達は、私の思っていた友達とは違うものであった。同じ、同じ、同じ。何もかも同じ。出る杭は打たれる。究極的な日本文化ともいうべきか、異常なほど空気を読まなければならない息の詰まった空間だった。
「私は暗黙のルールをまさぐるようにして覚えて、必死に生きたわ。アンタに心配されないように頑張ったわ」
「必死に生きたって……。そんな友達あるわけないだろ。それは、友達なんかじゃない。そりゃただの奴隷だ」
 奴隷。疎まれる存在。そうかもしれない。小学校でやったレクリエーションゲームを思い出す。まず鬼を一人決め、鬼以外の全員で代表を一人決め、輪を作る。鬼はその輪の中心に立たされ、輪になった人々は代表の動きを真似して動く。その中で鬼は代表が誰かを探すのだ。
 私が鬼で、あの女子のグループに囲まれて、みんなに笑われている。もし私が代表を当てたらどうなるだろうか。確かに私は輪の中に入ることが出来るだろう。しかし代わりの鬼が必要になる。鬼がいなくては成立しないゲームなのだから。
「……じゃあ、どうしろって言うのよ! 私がリーダーになって、他の人を苦しめればいいわけ?」
 そんなの、そんなの嫌だ。こんなに苦しいことを無責任に押し付けるだなんて出来ない。
 結局人間は最低な生き物なんだ。何かを虐げなければ生きてはいけない。差別反対と言っておきながら、そもそも大半のその考え自体が差別的で、必ずやその人だってどこかしらで区別の気持ちを持っているのだ。目が見えないからと言って可哀相にと思ってしまえばそれは差別と捉え得るのだ。盲目の少年の手を取ってあげただけで、ネットの世界で偽善者だと叩かれる世の中だ。自分とは違う人間と変わりなく接するには才能が必要であり、そんな能力は私にはない。そんな器用じゃない。そんな楽天的じゃない! 私には疑うことしか出来ない。友達を疑い、先生を疑い、大切な人でさえも疑う。そうして、私は、人間は、自身が孤独なのだと自覚するのだ。


   ****


「いやあ、いい天気だ」
「そうだな、お前の頭もいい天気だな」
 人はそれを能天気という。
「あの、どういう意味っすかねえ?」
 まったく、オレがこれほど緊張しているというのに、こいつは何を言ってるんだ。
「……あれ、穂枝?」
 いい天気だ?
 そんなの全くもってどうでもいい。いやむしろ視界三メートルの記録的豪雨であった方がよかった。
「おい、聞いてるか? 穂枝ぁ?」
 なぜかって? そりゃ、そっちの方が気持ちがいいからだ。
 告白寸前のこの気持ち、分かるか?
 そんでもって、その相手が欠席だって状況、分かるか?
 吉佐美からのメールで奏が休みだって知ったあの衝撃を、難易度の上昇に高鳴る胸の鼓動を、金髪自称不良少年のデシリットル頭脳に理解できるとでも?
「顔にやけてるぞ、大丈夫か?」
 ちゃっかり吉佐美とメールをしてしまっているオレだが、まだ別れたという実感が湧かない。卒業式の翌日や受験合格の一週間後に近い感覚だ。
「そうか、問題ないか。ならいいんだ」
 でも吉佐美のメールの追記に打たれていた『奏に宜しく言って下さい』に、彼女なりの決意も表れていた。
「いや、よくねえよ! 反応示せよおい!」
 こうして万全の態勢で今日を迎えられたのは、吉佐美のおかげだとしか思えない。もし吉佐美が吉佐美でなかったとしたら……いや、そんなことを考えるのはよそう。
 今すべきことは、大瀬崎への依頼だ。
「大瀬崎、お前に言っておきたいことがある」
「無視からの頼みごとっすか」
「無視なんてしてないだろ。いい天気だなって言ったじゃないか」
「いつの話してんだよっ!」
 いつって、今さっきの話なんだが。全く大瀬崎の言語は理解に苦しむ。
 とにかくいつ奏に自分の思いを告げるかだが――。
「大瀬崎、オレは昼休みになると同時に頭が痛くなって早退する予定だから、そうやってみんなに伝えておいてくれ」
「はい? お前、さっきから言ってることが意味不明だぞ?」
 それは多分お前の日本語理解の能力が乏しいんだ。
「いいから一字一句そのまま伝えろ。いいな?」
「お前に命令される筋合いなんてねえよ。……ったく、荷物はまとめておいたほうがいいのか?」
 溜息をつきながらもそう言ってくれる大瀬崎は、天性の奴隷根性だと見た。ありがたいが、その必要はない。
「いや、昼休み中に回復するからそのままでいい」
「なんでだよ! 日本語喋れよ! 穂枝統流語で喋るな! 理解に苦しむわ!」
 それはこっちの台詞だ。今ので分からない方がおかしいだろ。
 オレの計画はこうだ。
 昼休み、チャイムと同時に教室を飛び出し、そのまま奏を学校へと連れ戻す。
 好きだ、そう言ってあいつの手を握って、走るんだ。
 返事は待たず、全力で走る。もし成立だったら奏は小三のあのときみたいに付いてくるだろうし、決裂だったら振りほどこうとするだろう。
 でも大丈夫だ。付いてきてくれるはずだ。そうして、その足でみんなに報告する。オレたち、付き合い始めましたってな。
 あとはオレがヘマをしないようにする、それだけだ。昨日の二の舞だけは避けたいし幸先も悪い。
 まいける先生の授業中何度も頭の中でシナリオを思い描いたんだ。きっと成功する。
「まあなんか知らねえけど、お前今日機嫌いいな」
「ああ、そうだよ」
「昨日なんかあったのか? 嬉しいハプニングでも起こっちゃったか?」
 そういえば、こいつは何も知らないのか。
「あったよ、最悪の出来事がね」
「……お前の感覚は一般人と違うんだな。もうワケ分かんねえよ」
 半ば呆れ気味の返事をして、大瀬崎は机に顔を埋めた。
 奴の言う通り、オレの感覚は特別なんだろう。
 そうでなきゃ、昼休みに学校を抜け出そうとは思わない。
 放課後じゃあ遅いんだ。
 なぜかって?
 少しでも奏と一緒にいたいからに決まってるだろ。


 四時限現代社会は全く内容が入ってこなかった。時計ばかり眺めていた。どうしてこう、一分というものは長いのだろう。秒針が八十回くらい刻んでやっと一周してるんじゃないかと何度疑ったことだろう。二秒毎に針が進んでいるやる気のない時計なのではないかと何度怪しんだことだろう。
 唯一の救いは授業が延長しなかったことだ。昼休みの知らせが鳴り響いてすぐに解放される。当然号令の瞬間席を立ったさ。そのまま廊下に飛び出したさ。
「ト、トベルくん!」
 前のドアから大室が現れた。短い距離なのに息を切らしてしまっている。余程慌てたんだろう。
「えと、行っちゃう……かも?」
 呼吸を整えながらの問い掛けだった。
 諸件は白渚から聞いているようだ。さすがに昼休みに実行するとは言っていないが。
「おう」
 短く返答し、頷く。
「みんなで、屋上で待ってる……かも」
「おう。楽しみにしてろよ」
「わたし、応援してるかも!」
 輝く瞳に、上限だったやる気がオーバーブーストした。大室に激励されたんなら、辛いことを全部清算して、丸くおさめるしかないな。
「行ってくる」
「待ってるかも!」
 かも、か……。
 いや大室にとって断言を意味する終助詞なのは重々承知なんだけど、「待ってるね」みたいな断言調で言ってくれたらもっと嬉しいんだが、そんな名残は捨て去ってしまおう。
 廊下を走り、昇降口で上履きを脱ぎ捨て、靴を無理矢理履く。走れ。革靴で来たのはまずかった。奏が来てることを前提に登校してしまった自分を呪ってやりたいね。浮かばれてたんだ。地面を踏み締める衝撃が直に伝わる。……この感触。走ってるって実感。これはこれでいいかもしれない。
 国道を跨ぐ歩道橋を駆け抜ける。水の苑地――二週間ほど前にバスケをした公園――なんて見向きもせずに細い県道を疾走する。喉が熱くなってくる。肺胞がオキシゲンを求めている。くそ、吸っても吸っても不満ばっかり漏らしやがって。運動不足がここで祟るとは思わなかった。帰りもまた走るのか。そこまで体力が持たない自信がある。だからと言って足を緩める気はこれっぽっちもない。
 なぜかって? 言わせるな、さっきと同じ理由なんだから。
 並木とは言い難い細い木々の生い繁った道から脇に逸れる。葉の影と狭間から漏れる陽光の斑が揺れる急勾配を飛び降りるように下る。奏は坂を降りたところに建つ館に住まっているはずだ。
 後のこと、先のことなんて何も考えずに走駆した。
 走った、走って、走ることをやめず、ただ走り続けた。走り走るうちに、木々に囲まれた大きな門に辿り着いていた。細かいところにまで丁寧に手入れの為された庭園が門の内側にあった。
 さて、オレは十二分に走った。まずは深呼吸をしようか。落ち着こう。何をするのか、今一度確認する余裕くらいあってもいいはずだ。
 まずチャイムを押そう。そしたらおじさんかおばさんが出てくるかもしれない。奏を攫いに来たとでも言ってやろう。押し入って、階段を駆け上がり、ノックもせずに部屋のドアを開ける。奏は怒るだろう、でもそんな喚きを一言「好きだ」で制し、彼女の手を掴む。そのまま学校へ行ってしまえばいい。いや、学校じゃなくてもよさそうだ。どこか遠いところへ、二人で走っていくだけ、それだけ。奏はまた怒るけども、それでも心の底では許してくれていて、そして二人で一緒に、何も知らない土地で暮らして……。
 っと、さすがに飛躍しすぎた。
 とにかく全ては目測四十センチに位置するチャイムを鳴らさなければ始まらない。
 その音はきっと新たな物語の幕開けとなるだろう。
 手を伸ばす。
 人差し指がそのボタンに触れる、その直前。
「行ってきます」
 神子元邸の玄関が、優雅に開いた。
 呆気にとられるしかなかった。そこから姿を現したのは、セーラー服を着た神子元奏だったからだ。
「あら」
 目と目が合う。
 フライングだ、と思う。
 一瞬にして、全ての計画が崩れ去った。
 せめて福音の鐘くらい響かせてくれてもいいじゃないか。
「授業サボって、空き巣でも企てる気?」
「空き巣が堂々とチャイム鳴らすかよ」
 鳴らせもしないオレはなんて惨めなんだろう。
「今時の空き巣はそうやって留守を確認するもんなのよ」
「マジかよ……って、待て待て待て! オレは早退してるんだ、人を勝手に空き巣にすんなよ」
 調子が狂う。
 そういえばいつだってそうだったな。
 先導は奏で、オレはその後ろを付いていく。これが本来のオレたちなんだ。
「で、おサボりさん」
「サボりじゃねえよ」
「なら早退理由教えなさいよ」
「五月病……ってところかな」
「サボりじゃない、やっぱり」
 解釈はご自由にしてくれ。病ってのは疲労から来るだけじゃないんだ。
「というか、お前もサボりだろ」
「風邪ひいてて休んでたんだけど? 三十八度の頭で余弦定理使わせるつもり?」
 あの日、傘を投げ渡した奏はそのまま雨の中を走って帰ったんだ。そりゃ、びしょ濡れになりゃ風邪くらいひくだろうな。
「何とか動けるようになったから午後の授業から出ようと思ってたの」
 なんてバッドなタイミングで出てくるんだよ。これだから勤勉は困る。
「で、何を狙って侵入しようとしてたの?」
 すっかり呆れ果てた奏。
 やれやれ、これじゃあ冷やかしに来ただけになってしまう。本腰を入れよう。
「そりゃ、無論――」
 力任せに門を引き開け、音を立てて庭園を渡る。閉ざすドアに追い込まれた奏との距離が近付いていく。
「な、何する気――」
「お前の心を、盗みに来た」
 ドアに片腕を付く。鼻先が触れるんじゃないかってくらい、顔を近づけた。
 見開いた奏の眼にオレの姿が映っていた。
 今、誰よりも近くに奏がいた。
「え……?」
 奏の唇が微かに震える。奏が息を呑み込んでいる。奏の全てを把握できた。動揺していて、戸惑っていて、何が起こっているのか理解の域に達していないことも、全て掌中の出来事のように理解できる。
 灯台の下は暗い。
 そこに生えるハルジオンに、ずっとずっと気付けなかったんだ。
 でも。
「……って、言ったら嬉しいか?」
 その花を見つけたとしても、その花をすぐに摘み取りたくはなかった。
 摘み取らず、いつものように。
「台詞がクサすぎよ、バカ」
 摘み取ってしまえば、ここで奏の花を奪ってしまえば、もう育つことはないのだから。
 だから、共に根を伸ばし、茎を伸ばしていきたかった。
「どうせ吉佐美と別れたから、慰めに来たんでしょ? まだ弱虫引きずってたの?」
 溜息交じりに憶測を立てる。
「なんで分かるんだよ。吉佐美から聞いたのか?」
「バカ。聞くまでもないわよ。アンタがここに理由なんてそれくらいしか考えられないじゃない」
 そうだな、それしかない。
 距離がこんなに近くにあろうと、遠くに離れていようと、オレのことは全て把握していたようだった。昔からそうだったんだ。
「で、本当に言いたいことは?」
 ジトリと見上げる奏。吐息が頬をくすぐった。
「好きだ、奏」
 その瞬間、奏ははっと目を丸くするわけでも、息を呑むわけでも、ましてや顔を真赤にするわけでもなかった。
 その代わり、とは言い難いが、なぜか脛に……『オレの』脛に激痛が奔った。
「何飛び跳ねちゃってんの?」
 勢いを付けることなく、小悪魔の笑みを浮かべる奏が蹴りつけてきたんだ。
「な、何すんだよ!」
「忘れたの? 『オレがお前を置いていったら、そのときは蹴り飛ばしていいぞ』って。あんな情熱的に言ってくれたじゃない」
「いつ言ったんだよ、そんなこと」
 オレには見覚えのない言葉だった。
「……秘密」
 そう言って、奏は悪戯っぽく笑った。
 蹴り飛ばす口実なのだろう。まあ確かに奏を置き去りにしていたのは確かだった。
「やれやれ、ほら、急ぐぞ」
「急ぐって、どこへ?」
 その問いに、奏の手を握り締めて答えた。
「学校だ!」
 同時に走りだす。
 二人は駆けて門をくぐ――らなかった。
「あのねえ、私病みあがりなんだけど。こじらせるつもり?」
 奏は立ち止まったままだった。
 でも、手はしっかりと握り返してくれていた。
「休み時間が終わるまでに行けばいいでしょ?」
「いや、みんなに報告して、一緒に飯食おうぜ。屋上でお前を待ってるんだ」
「……はあぁ」
 今までの記録を塗り替えた、重々しく、長々しい溜息が炸裂した。
「なんだよ、その溜息」
「嘘でもいいから、少しでも長く二人きりでいたいとか、そういう台詞は言えないの?」
 たいそうご不満な様子であった。全く、腐れ縁のお姫様はこれだからいけない。
「言ってほしいのか?」
「そそ、そんなわけないわよ! 何言っちゃってんのよ! ほほ、ほら、急ぐんでしょ!」
「おい顔赤いぞ。ゆっくり行こうぜ!」
 忠告にもかかわらずオレの腕を引く。
 仕方がない。
 オレは、オレたちは駆けだした。門をくぐり、斑の道のりを走った。
「統流」
 隣で走る彼女の方を見る。黒く長い髪の毛が、笹波のように揺れていた。
「前見てなさい、危ないわよ」
「あ、ああ」
 空を見上げた。祝福の声を上げるブナの木々の狭間から白い光が降り注いでいた。
 こういうときはいつも白い羽根が風に吹かれてやってきているような気がする。林に隠れて見えないが、今なら二人で大空を舞うことだってできるような気がした。
 ――ありがと。
 そんな恥ずかしそうな声が、くすぐったかった。


   Tsuisou-10  追奏


「違う!」
 らしからぬ大声に、あなたを直視する。そして、自分が泣いていることに気付いた。逃避は全ての制御装置を放棄して、夢に還ることだけに全力を注がせていた。胸の穴は既に全身の蝕みを完了し終えていた。寂しい、悲しい、独りは嫌だ……空洞から漏れだすぶよぶよとした液体が瞳から膜を破り、ドロドロと流れている。
 もう、終わった。今までずっと隠し続けてきた恥部を曝された。私にとってこの傷は恥部と同等の存在なのだ。
「オレや大瀬崎のような友達を探せばいいってことだ!」
 なのに、こいつは物怖じせずに訴え続けてくれる。私の瞳を、汚い液体を垂れ流す瞳だけをじっと見据えて。あなたは私とは違う。私はもうあなたの澄んだ瞳なんて見ていられない。昔はつむじを、前髪を。今は襟元に視線を逃がす。
「そんな人、いないわよ」
 私はもう随分と弱々しくなってしまっていた。もう何もかも投げやりで、全てが絶望で溢れていた。私の白い吐息は漆黒の闇夜に消え失せる。小さな呟きのあと、代樹山は静寂に包まれ、ただ私のしゃくり声だけが虚しく響き渡る。
 私は強がってばかりいるだけなのだ。アンタと言って上位に立っているつもりで、でも本当はすぐに崩れてしまいそうなくらい弱い存在なのだ。あなたみたいに強くなくて、奇異の目で見られるか弱い鬼の子、それ以外の何者でもない。
「オレたちみたいな奴ら、いると思うぞ」
 どうしてまだ捨てることを選ばないのか。どうしてこんな私のことを……。その、やさしく仄かに甘い声が私を溶かしていくようだった。粉々になるのは怖いが、とろけていく感覚は不思議と気持ちがいい。
「絶対いる。考えてみろよ。女子が全員グループになって、暗黙暗黙ばかりだったら逆に寒気がすると思わないか? それに、お前がそう思ってるんなら、学校にも同じこと思ってる奴、いるって」
「いるわけないわよ。私は特別な人間だから……」
 言い返す。言い返さなければならない。小学校の頃は男ばかりの友達で、中学ではあなただけが友達だった。あなただけを頼った結果だった。これがあなただけにしがみついた成れの果てだ。
「お前と同じこと思ってる奴なんて、たくさんいるに決まってるさ」
 その瞳は遠くを眺めている。私なんて眼中になく、まるで違う誰かを見つめながら話しているような錯覚を生む。だが、何故か説得力のある言葉に聞こて、納得してしまっている私がいる。
「高校に進学したら、中学校のとき顔見知りだった奴に似てる奴がいたり、引っ越した先で何も知らない人のはずなのに、どこか親近感がわいたりとか、あるだろ?」
 そんなこと、知らない。私と仲がいい中学の知り合いなんていない。あなたしかいない。クラスメイトなんてどれも同じような顔をしている。どれも全く異なった容貌をしている。でもきっと、本当ならそんな不思議な経験も出来たのだ。自信を持って言ってくれているのだから、本当のことなのだろう。
「それに、今のクラスにそんな奴がいなかったら、二年になってクラス替えがあったときに探せばいいじゃないか」
 俄に全身に震えが訪れる。二年生。これからのこと。私の概念にはなかったそれは、まるで遠く南海からやってくる春風のようであった。過去を引きずる今しかなかった私に、未来を与えてくれた。こんな私にも、まだチャンスは残っている。
 そして、あろうことか、私に向かって、ふっと笑顔を見せたのだ。心臓が――そう、私の胸は空洞ではなく、確実に鼓動する温もりが存在しているのだ――不意に高鳴り、孤高にまで響き渡る。
 そのあとのあいつの言葉は耳に入らなかった。先程の台詞で止めていれば合格でも出してあげただろうが、つまるところあなたは何があろうとあなたでしかないのだ。
 一度だけ俯き、そっと涙を拭う。それは水晶のように星々の光を集約している。それはさらさらと風に流れて消えた。汚泥色をしているわけでも、粘着性を有しているわけでもなかった。闇夜の中、きっと涙を流したことは気付かれていないだろうなんてどうでもいい考えが浮かび、そして、あいつを打ち負かすつもりできりりと睨む。
「アンタがそんなに言っても、不安なことに変わりはないのよ」
 そして、このとき私は違和感を覚えるのだ。心臓の音が一鼓動ごとに大きくなり、体内の血液がぐるぐるとぐるぐると全身を駆け巡る。生温かい血が一気に沸騰しそうな勢いで、体温が高く、高く、もう何も考えられず、でも伝え足りずに口だけは辛うじて揺れ動き……。
「だから、さ」
 息を吸いすぎて、上手く話せない。
「その、統流も……」
 視界がぼやける。また泣いてしまいそうだ。
「統流、も……」
 それ以上は言えなかった。
 私は人魚姫のような明鏡止水の心を持っていない。でもその儚い気持ち、心に来る辛み苦しみ、それは痛いほどよくわかる。思いを打ち明けられない。それはきっとこんな気持ちなのだ。
 ――統流も、一緒にいてほしい。ずっとずっと、一緒にいてほしい。
 その星屑の思いに応じるかのように、統流は大きく頷いてくれる。
「ああ、もちろんだ。あのときみたいにお前を置いていったりはしないさ」
 もう二度と、私を置いていかないでほしい。……いや、私を置いていったことなんてきっと一度たりともなかったのだ。小学四年生のあのときだって、バカと言って私が統流を置いていってしまったのだから。
「今度は一緒に友達探してやるよ」
 統流がいれば、もう安心だった。もう、何があっても大丈夫だ。統流と一緒なら、統流が近くにいるのだと知った今、私はもうなんだって出来るのだ。
「嘘だったら……承知しないんだからね」
「そんときは本気で蹴っていいからな」
 今すぐにでも蹴りたい気分に駆られる。じゃれあって、それで統流が怒って、私は笑って、それから統流もいつしか笑ってしまう。
 夢は辛い現実から逃れるための防衛規制なのだ。
 私にとっての夢は、統流だ。ずっとずっと、統流と一緒にいることだ。
 でも統流は私の気持ちなんて気付くわけもなく、私はいつの間にか大きくなった背中を追い続けるのであり、嘘でも何でもない、正真正銘現実のお話なのだ。
 だからこれは夢などではない。
 私の隣には統流がいるし、それに駿河もいる。二年生になって、吉佐美やいずみ、慶二とも知り合った。本当に瞬間の出来事で、まだ信じられない私もいる。
 これが現実だ。
 幸せだって、ちゃんとそこに芽吹いている。


五月一日(木)


 なんというか、隣の金髪野郎はお気楽なもんだ。朝っぱらから熟睡状態なんて。
 昨日のオレがそうだったらしいけど、こんな風に見えたのか。みっともない。これから熟睡は避けるようにしよう。
 大瀬崎に決意表明でもしようかと思ったのだが、これでは埒が明かない。かと言って起こして自白するには見苦しいと思う。
 快眠中の男を叩き起こして、今日吉佐美と別れてくるなんて、馬鹿馬鹿しくて言ってられるか。
 しかし、誰かに言っておかないとせっかくの決心が自重で曲がってしまいそうだ。
 他に腹を割って言える人は……大室か、白渚の二人くらいだな。やわでも一人の男として、ここは白渚に抱負を語ろう。もしかすると咎められるかもしれないが、そいつを跳ね返せない程度じゃ吉佐美に切り出せられるわけがない。
 この休み時間を最大限使おう。
 早足で廊下を進む。白渚のクラスが移動教室でないことを祈ろう。そうだったらオレの虚弱な意志はすぐにお手上げしてしまう。
 生徒で埋め尽くされた廊下を掻き分け、辿り着く。雰囲気から察するに、移動教室ではないようだった。一まず胸を撫でおろそうか。
 扉に手を掛け、開く。
「お」
 一番手前の席に、見覚えのある姿があった。
「あっ!」
 その前の席にも、見覚えのある姿があった。
「源、平野……」
 合唱部の二人と、思いがけず対面した、してしまった。
『穂枝君』
 見事なソプラノとアルトのハーモニーだ。でも中間、メゾソプラノの音色が抜けていて、しまりがなかった。
「吉佐美ン泣かした彼氏さんが何の用だべ?」
 平野の言葉に小さなトゲが生えていて、それがチクチクと鼓膜を突いていた。やっぱり、吉佐美泣かせちまったんだな。さぞかしこの二人には心配かけさせたんだろう。
「白渚に用があるんだ」
「……ふん」
 平野は機嫌が悪いものの、義理で呼びに行ってくれた。この義理も今日限りのものなのかと思うと胸が圧迫されて潰されそうになる。
 残った源と対峙する。
「なんだ、まあその――ゆきねえはあのサマだけどよ、私はその――どっちかっつーと、感謝してるっつーかさ――また歌に向き合ってくれてるようで嬉しいっつーかさ――吉佐美の根性叩き直してくれたっつーかさ――ま、クヨクヨ、すんなよな」
 そう言う源の目はウヨウヨと動いていたが。
「ありがとな」
「あ、ありがととか言うなよ。こ、こっちの台詞だろうが。……だからさ、これからも吉佐美のこと、宜しく頼むな」
 はにかむ源は、友を思いやるそれそのものだった。
 吉佐美は最高の友を持ったと思う。源や平野、それに大室だってそうだ。みんなみんな友達思いで、それは当たり前のことなのだろうけど、意外と難しいことでもある。
 だからこそ、嘘はつけなかった。
「やあ統流っち。このご時世、人を呼ぶときは携帯使おうよ」
 丁度のタイミングで白渚がやってきた。
「悪いな。源、それじゃあな」
「あ、おお。じゃあな」
 すまない、オレはお前を裏切ると思う。
 きっと憎まれる人間になるんだろう。
 それでいいんだ。別に間違っちゃあいないさ。それがオレという、別れを決めた人間なのだ。
「トイレ行きながら話すってことでいいか?」
「まあいいけど」
 改まって話す必要なんてない。吉佐美と別れ、奏と付き合う旨を伝えればいいだけなんだから。
「するがっぴーがいないけど?」
「あいつ熟睡してたから放置」
「あ、そう」
 なんて会話をして、トイレに辿り着く。入口で三名ほどふざけ合っている輩がいて、中で二人ほどが用を足していた。このくらいでちょうどいい。
 隣り合った便器の前に立ち、窓を解放する。蓄えはさほどなかったのだが、この場所に立つと腎臓が活発になるようだった。
「別れようかな、と」
「へえ」
 前触れもなく本題に突入するも、白渚は至って平然だった。昨日の様子からもう察していたのかもしれない。いや、わざわざ呼び出す話題といえばそのくらいしかないか。
「奏が、好きなんだ」
「そっか」
 決意表明は、あっけなく終わった。
 こんなものでよかったのだろうか。
 これだけで、オレの意志は歪むことなく全うできるのだろうか。
 既に用は終えていた。でもオレも白渚も、フラッシュバルブを押さず、陶器製のブツの前に突っ立っていた。
「それで話は変わってさ」
 白渚は曇りガラスの先の空を見上げていた。
「ギロチンって聞いて、どんなイメージ持つ?」
「は?」
 何をいきなり言い出すんだ。
「まあまあ、気軽に答えてくれよ」
 あんな斬首装置に気軽ってのも似合わないが。
「残酷……だよな?」
「僕もそう思うよ」
 なら訊くなよ。気軽に。
「でもさ、ギロチンって一瞬で人の命を断てるよね? そう考えると、首絞めよりも断然囚人さんにやさしいと思わないかい?」
「まあ、処刑に変わりはないけどな」
「うん。僕は死刑反対の立場だから同感だよ。首斬りも首絞めも残酷さ。でもギロチンは首吊りの縄と違って、どちらかといえば拷問具のように考えがちだったり、他の拷問具と同等に考えがちだったりしない?」
 確かに、ギロチンと聞かれて類型を推し量るとなると鉄の処女やらファラリスの雄牛やらが浮かぶ。突き刺したり炙ったり、苦痛を伴って命を奪う、紛れもない拷問具だ。
「ギロチンが残虐だってイメージがくっついたのは、フランス革命で王様や王妃の首が落とされたり、恐怖政治によって大人数の人々が粛清されていったりしたインパクトからなんだと思うよ。根拠のない都市伝説が偶発的にそれの利点を拭い去ろうとしていたってのもあるね」
「で、結局何が言いたいんだよ」
 決意表明のお返しにギロチンの豆知識だなんて、誰も欲しがらないっての。
「やれやれ」
 分かってないなあ、と溜息をつかれる。やれやれ、キミは鈍感だ、と。
「キミは、ギロチンになれるの?」
 その朝霧のような、肺を凍てつかせる調子の変化に呼吸が止まる。
「伊東さんに苦痛を与えないようその首を斬り落とせるかい? 奏さんと付き合い始めてからは、どんな悪い噂が蔓延ろうと、奏さんを守っていけるのかい?」
 それはまさに、ギロチンの宿命であった。
 容赦なく首と胴体を引き離し、その性能さゆえ人々から恐れられる。返り血を浴びてもなお鮮血を振るい、悠然たる態度で待ち受けなければならないのだ。
「本当はお説教なんてしたくないんだけどなあ……。僕の悪いクセだ。でもキミは僕と同じ道を辿るんだと思う。だから、余計なお世話かもしれないけど、言っておくよ」
 白渚は中学二年のとき、大室と付き合いだした。大室は過剰な無口だった。詳しい経緯は察するしかないのだが、きっと険しい道のりだったのだろう。
「クラスの人から、女好きだってレッテルを張られても耐えられるかい? それは奏さんも一緒だよ。弄ばれている女だって言われるかもしれない。噂っていうのは当事者にならなくちゃ恐ろしさを理解できないと思うけど。
 穂枝君、キミは奏さんへの冷ややかな眼差しから守っていくんだ。お互い辛い目に遭うかもしれないけど、奏さんだけは絶対に断頭台へ上げちゃいけない。特殊な人間になるっていうのは、そういうことなんだよ」
 白渚の言う通りのことが、これから起きるのだろう。いや、白渚の予想しえないことですら起きる可能性はある。
 そんなこと、できるのか?
 卑怯で、弱虫で、優柔不断なこのオレが。
「でも――」
 白渚の話は続く。
「僕は、キミ達が乗り越えられると信じてるよ。だって僕達でさえ乗り越えられたんだから。それに、キミ達には僕達がいる。今日みたいにさ、いつでも相談してくれよ。お金の絡まない話だったらいくらでも乗るからさ」
「白渚……」
 お前、キザで大室バカなだけじゃなかったんだな。
「ギャグがない分、本気で頼れそうに見えるじゃないか」
「はは、僕はいずみんといれば……いずみん『といれ』ばそれでいいんだけどね」
 お前に投資した株をトイレットペーパーと一緒に流してやろうか。


 昼休みになって、いつものように屋上へ向かう。オレと大瀬崎と大室で階段を登った。そういえば大室の隣はいつも誰と食べているんだろう。気になって大室に訊いてみると、「クラスの子と食べてる……かも」とのことだった。どうもこのクラスの女子はみんな仲がいいらしい。男子は中心となる人物がいないせいか、無数の都市国家が連合を組んでいるように思える。さすがにそろそろ大瀬崎以外のクラスメイトとも交流しないとヤバいよなあ。どんな噂が立とうとも、立つ前に土台を作っておかないと色々大変だと思う。
 屋上では吉佐美と白渚がレジャーシートを広げて準備をしていた。吉佐美から指定のクッションを受け取る。太陽の香りがした。定期的に洗って干しているのか?
「と……えと、ほ、穂枝君」
「いいよ、統流で」
「本当ですか?」
 彼女の緊張がじわりと溶けた。統流君、なんて呼んで、それからえへへ、と笑う。本当に幸せそうな顔をする。こちらが罪悪感を抱くほどに。
「あ、思わず忘れちゃいそうでした。あの、あたし歌頑張ることにしました。もうコンクールまで少ししか時間ありませんけど、でも精一杯尽くしていきたいと思います」
 吉佐美は頑張り屋だ。残り四日ともう数えるほどしかなくてほとんど調整だけしかできないだろうが、それでもやれることを一つ一つクリアしていくのが吉佐美だ。
「無理して喉潰すなよ」
「はいっ!」
 束ねた髪を揺らして頷く彼女を尻目に、空いた橙の座布団を見遣った。
 今日も奏は休みだった。
 これでは明日も、連休を明かしたそのあとになっても学校へ来ないのではないだろうか。まったく、容赦ない奴だ。
「吉佐美」
 でも今は奏の心配をするより、自身へのけじめをつけることを優先しよう。
「今日、バイトあるんだけどさ」
「あ、はい。行ってもいいですか?」
 落ちつけ、一つ間を置け。
「……ああ」
「本当ですかっ! えと、それじゃあ親子丼お願いします!」
「なら俺はミソラーメンで!」
 大室お手製ホットケーキを二枚頬張る大瀬崎が会話に割り込んできた。
「ラーメンなんてねーよ。つーか来るなよ」
「なんだその口のきき方は! お客様は神様だろおい!」
「そうだな、店の死神だな」
「俺死んでねえよ!」
「誰もそんなこと言ってねえよ!」
 神様ってもっと心の広い人間だよな。威張り散らしてるお客さんは王様だと思う。まあ人生に疲れているだろうからそっとしているけど。
 いつも通りの昼食だった。
 白渚と大室はいちゃついていたし、大瀬崎が新発売のキャラメルコーヒーを大室に与えて困らせていた。相変わらず吉佐美はオレに付きっきりだったが白渚ともごく普通に話していた。
 いつも通りという皮を被せた昼食だった。
 そう見えたのは、きっとオレだけじゃないはずだ。


 放課後は久しぶりに大瀬崎と帰ることにした。帰ると言っても、オレはバイト先へ向かうんだがな。大瀬崎家と途中まで同じ方向だから時々ワケの分からない会話をしながら歩くんだ。例えば今日は担任の現代社会の先生の十年後についてを髪の毛に重点を置いて語り合った。バーコードかカツラか、結局どちらも妥協することなく分かれ道に到達してしまった。
 明日になれば、会話の内容なんてきれいさっぱり忘れ去られているのだろう。
 引き戸を開き、いつもの調理着を着る。これを着ると途端に気が引き締まる。こびり付いた油の臭いに少しずつ集中力が高まっていく。
 しばらくすると親方が降りてきて店先に暖簾が掛かる。道路工事の兄さんたちがやってきた。泥だらけの顔はアルコールが入るにつれて茹であがっていき、勘定のときにはすっかり出来上がってしまっていた。
 入れ替わるようにサラリーマンの上司と部下三人が入ってくる。すっかり顔なじみの常連だ。いつものビールと枝豆、それから麻婆茄子定食。彼らはお酒が入ってもしんみりとしていた。景気のいい話もしていなかった。
 出来立ての定食をテーブルに置いた頃に吉佐美がやってきた。
「お前、なんか疲れてるぞ」
「えへへ、ちょっと歌いすぎちゃいました」
 無理するなと言ったはずだ。と吉佐美指定の席を拭いてやった。ありがとうございます、とお辞儀される。お冷を置くとまた礼をされる。本当に、礼儀正しい奴だ。
 親方は豚汁を煮込んでいた。親方、吉佐美の分、オレが作ってもいいですか? 品はなんだ? 親子丼です。そうか、やってみろ。そんな、厨房での会話。
「部活、どうだったか?」
 特注コンロを点火させる。
「えと……どうしてもみんなとずれちゃうんです。この前まで合ってたんですが」
「焦りすぎなんじゃねえのか?」
 小鍋に卵を投下して火にかける。調理をしながら会話を続ける。
「そう……かもしれません」
「急ぐ気持ちも分かるけどさ、みんなと息を合わせて――って、そのくらい分かるよな」
「あ、いえ! その、参考になります。とっても!」
 そんな感じの会話を続けているうちにも親子丼は完成に近付いていく。
 親子、か。
 吉佐美の母親には顔向けできないな。あなたの娘さんと別れました。たった一週間の付き合いでした……。
 喧嘩別れじゃないんです。好きな奴が……ずっと前から好きだった奴がいたんです。ごめんなさい。
 別に好きな人ができたら別れてあげて下さい、なんて言っていたが、はい是非別れて下さいなんて言って歓迎してくれる親がいるだろうか。
 たった一人の娘をこうもあっさり切り落とすなんて、思ってもみないだろう。
 ごめんなさいと言って目を瞑ろう。許しを請うためでなく、自身を納得するために。
 出来上がった親子丼に豚汁を付けて彼女の前へと置いた。彼女は喜々として割箸を割った。はふはふと口を動かしながら、おいひいです、と言ってくれる。
 心なしか、吉佐美の言葉数が少なかった。
 オレの言葉は無機質だった。
 やがて閉店の時間になると、吉佐美が席を立った。外で待ってますねと内に掛かった暖簾をくぐった。
 「その時」が刻一刻と迫っている。無事彼女に言い渡せることができるのだろうか。緊張が走る。
 吉佐美が告白したときも、この緊張に似たものを持っていたのだろうか。思いの方向は全く別のものになるけども。
 皿を丁寧に洗い終え、棚に戻しておく。親方はいつものように簿記を前に頭を抱えていた。一言声を掛けて外に出る。今夜は風が強かった。
「お疲れ様です、統流君」
 吉佐美は待っていた。待ってくれていた。
 もしここで吉佐美が先に帰っていたら……ありえない作り物語を考えて立ち往生する。
 隣り合わせになって、歩きだす。手を繋ぎ合うことはない。恋人らしいことを追求した吉佐美だったが、最後までその手を温めることはできないまま幕を閉じるのだろう。
 暗い夜道を二人で歩き続けた。バスには乗らない。以前白渚と大室に無茶だからやめておけと言ったが、オレたちはいつも代樹山のふもとまで徒歩で帰るんだ。
 共に無言だった。共に触れ合う空気と言葉を交わしているようだった。
 国道を歩き、コンビニを通り過ぎ、学校を横目に、天端を渡り……。ずっとずっと無言だった。通りすぎる車のテールライト。疲弊しきったサラリーマンという名の死人。エンジン音だったり、足音だったりを音楽に進む。風は湖から代樹山へ、真横から吹き上がり、彼女のスカートを揺らした。
 アパートが近付く。
 そろそろ、切りだすかな。
 なんてことを、思った。
「なあ」「あ、あの!」
 言葉が、重なった。
 いや、重ねられた。
「えと、えと……私から、話してもいいですか?」
 私。そうか、私、か。
「明日、久しぶりに顧問の先生が来るんです」
 間髪なく話しはじめた。
「あの、山田先生ご存知ですか? 古典の山田まいける先生です。独創的で素晴らしい方なのですけど、とってもビブラートの利いたテノールの歌声でして、きっと統流君も驚きますよ。
 それから、明後日からゴールデンウィークです。最初の二日間が練習で次の日が本番なんです。なんか、合唱合唱のゴールデンウィークですね。えへへ、張り切り過ぎて喉枯らさないようにします。
 月曜日の本番までもう時間はないですけど、精一杯大切に練習します。小田原市民ホールで開催されるんだそうです。小田原ってお城があるんですよね? ゾウさんがいるって噂ですけど、本当なんですかね? ……本番、緊張しちゃうと思います。自信無いんです。失敗しちゃうんじゃないかって、怖いんです。でも、統流君が見に来てくれたら頑張れる気がするんです。もしかしたら、銀賞とれちゃうかもしれません。
 あ、最後の火曜日はお休みなんです。統流君、その日にデートしましょう! 久しぶりのデートです。私、東京行ってみたいです。あ、でも丹沢もいいですね。湘南の海も見てみたいです。統流君は、都会の方が好きですか? それとも、自然がいっぱいのところの方が好きですか?」
 それは、どうでもいいと切り捨ててもいいような、埒もない話であった。
 しかし過去については一切触れておらず、統一してこれからの二人の幻想を物語っていた。
 そんなことより別れを切り出さなければならないのに。
「あのな、吉佐美――」
「答えて下さい、統流君」
 いつになく強情だ。こんなことを言う吉佐美に覚えはなかった。
 でも、言わなくちゃいけない。ここで言わなくちゃ、もう後はないんだ。
「吉佐美、オレの話を聞いてくれないか?」
「嫌です」
「そんなこと――」
「嫌です!」
 頑なに断り続ける。
 もう、自分がどうなってしまうのか、悟ってしまっているかのような。
「統流君、知ってますか? 今日で付き合い始めてから一週間になるんですよ? 私たち、まだまだ始まったばかりじゃないですか。昨日は喧嘩しちゃいましたけど、それでも私は至福です。これからのことを考えると、もっともっと幸せな気分になります。統流君と一緒にいられることを考えると、もう眠れなくなっちゃうんですよ? 遠足の前の日のわくわくが、毎日続くんです。早く寝ちゃえば、すぐ明日になって統流君と会えるのに、でももう少し考えていたくなって……私の体って矛盾してますよね。
 でも、それでいいんです。そうして眠れない夜を明かすことが至極なんです。ちょっとわがまま言って、自分でも取れるくらいの高さにあるお皿を取ってもらって、私の作った料理を食べてもらいたいんです。いえ、一緒に作った料理を、一緒に食べたいんです。一人で作るよりも、二人で作った方がおいしいですから」
 吉佐美の幸せは小さな小さな願いの集まりで、高望みなんて一つたりともなかった。日常を幸せだと思えられる、混じりけのない水晶のような輝きだ。
 ただオレが付き合い続ければ、いくらでも叶えられる。何もできない、貧乏なオレでも、吉佐美の笑顔くらいならたくさん作ってやれる。
「統流君、これから、楽しいことはたくさんあるんですよ? でも……統流君はそれを壊そうとしてるんです。たったの一言で、全てを壊そうとしてるんです。だから――」
「別れよう、吉佐美」
 全ての時が、今まさに、止まった
 言い切った。
 少女の首を、斬らんとす。
「オレ、奏のことが好きなんだ」
 吉佐美と、その母親を……裏切ってやったんだ。源千代も、平野雪音も、藤原彰子も、みんなみんな、裏切ってやったんだ。裏切って、裏切って、彼女たちの目前で吉佐美のか細い首筋に刃を食いこませてやったんだ。
 すると、握り持つ斬首の斧が震えているのが分かった。
「だからといって……」
 今さらになって、その罪悪感が糸を引く。
「お前のことが嫌いになったわけじゃ、ないんだ」
 斧が首肉を断つも、ためらいによる力のロスで骨に当たって制止した。
 何を言ってるんだ。
 心を鬼にして、エグゼキューショナーになりきらなければならないのに。ギロチンのような正確さで楽にしてやらねばならないのに。
 そう。
 最大の穴の存在をすっかり忘れていたんだ。
 吉佐美はオレの恋人であると同時に、奏の友達でもあることを。
 初めてできた、奏にとって大切な存在であることを。
 もしここで吉佐美を捨て置いて、奏と共にすることになったら、二人の仲はどう変わってしまうのだろうか。
「これからもさ、仲良くしてほしいっつーか、そりゃお互い気まずくなるかもしれないけど」
 結局オレはオレだった。
 優柔不断で、格好悪くて、最後の最後まではっきりしない。
「お前と一緒にいたのも、楽しかったしさ」
 もう何を言ってるのか分からなかった。道路を飛び出して、途中で車がやってきたのに気付いても立ち止まってはいけないのに。
 なんで道の真ん中で止まっちまったんだろう。
「――すぎます」
 吉佐美の肩が、震えていた。
「やさしすぎます、統流君は」
 風は相変わらず強く、淡々と制服姿の彼女を貫通していた。
「嫌いだって言ってくれれば諦められたのに。顔なんて二度と見たくないって言ってくれればあなたとの思い出、全部捨てられたのに……。なんで、最後までやさしくしてくれちゃうんですか。なんで、なんで……」
 途切れさせながら、彼女は思いを紡いだ。
「卑怯ですよ。ずるいですよ。これじゃあ別れられないじゃないですか。一方的じゃないですか。私たち、お互いのこと何も知らないんですよ? 統流君の好きな食べ物も、好きなアイドルも、好きな仕草も、癖も、何も知りません。統流君だって、私の魅力、ちっとも分かってません。
 出会って一ヶ月も経ってないんですよ? 付き合い始めて一週間ですよ? そんなすぐに気付くほど、私の魅力は軽々しくありません。親身でも、ひた向きでもないです、もっともっと、すっごい魅力です。
 いつか気付かせてあげます。そうして統流君を後悔させてみせます。だから――」
 別れても別れなくても、奏は傷付くんだ。
 そして、オレも穢れていく。
 何よりこの状況で一番苦しむのは吉佐美だ。
 せめて吉佐美だけでも、救ってやりたかった。
 弱々しい男だから。
 もう全てを投げ捨てたかった。
 吉佐美の、最後の言葉を聞く前に。
「だから……」
 瞬間、世界を全て包み込むような、そんなあたたかくて、やさしい笑顔を浮かべた。
「奏と、憑き合ってあげて下さい」
 全ては、この一言で幕を閉じた。
 何もかもが終わった。
 そう、吉佐美と過ごした七日間が、今終わった。
「……え?」
「別れましょう、統流君」
「いい、のか?」
 頷く吉佐美が、女神のように思えて仕方がなかった。
「ダメですね、私。最後までわがままにはなりきれませんでした。今まで心の中で奏に謝り続けてきたんです。出会ってすぐのときから、奏の気持ち、分かってたんです。統流君のどこに惹かれたんだろうって思って、統流君と触れ合ってきたんです。
 そしたら、かっこいいなって思うようになってきて、そのうち統流君のこと見るとドキドキしてきちゃって……。これが恋なのかなって思ったら胸が苦しくなってしまって、本当に、私って男の子の耐性がありませんね。統流君と付き合いたいって思い始めて、でも奏がいて……。だったら、先取りしちゃおうって思っちゃって……。
 私にはまだ統流君の彼女になる資格なんてないんです。統流君の隣は奏なんです。私は二人を追いかける立場なんです。だからスタートラインに立つときは統流君たちの十歩後ろから走るんです。体力ありますから、すぐ追いついちゃいます。その時になったら、私の魅力にも気付くはずです」
 自分勝手ですよね、と吉佐美は謙遜した。正々堂々戦いたいんです、と理由を添えて。
「それから……」
 吉佐美が続ける。
「統流君にとって奏と付き合うことが今の至福なのだとしたら、それは私の至福でもあります。統流君が嬉しいって思えたとしたら、それは私にとっても嬉しいことなのですから」
 世間から見れば、なんてもったいないことをする男なんだ、と馬鹿にされるだろう。
 でも、それでいい。
 それで世間体の一膜を打ち破ることができたというのであれば。
「いつか私のことを本当に好きになって下さったら、またもう一度付き合って下さい。あの、えと……約束して、くれますか?」
 吉佐美と付き合う前と今とで、オレは何も変わることはなかった。
 それはまた、吉佐美も同じであった。やましさなんて何一つなく、月下に広がる水面のように透明で、澄み切っていて、全てを曝け出していた。
 常に正面を向いていた。
 先の言葉にだって偽りはないのだろう。
「ああ、約束する」
「はい」
「それじゃあ、また明日」
「はい、また明日です」
 今吹く風は、やがて代樹山の木々を撫で、空高く雲高く、もうオレの知らない天の彼方にまで吹き抜いていった。
 これはピリオドなのか、それともカンマなのか……。セミコロンのような、曖昧で気味の悪い締まり。
 なんともオレたちらしい別れだった。


四月三〇日(水)


 昼休み。いつものように屋上でのひとときを過ごす。
「今日、奏いないんですよ。どうしたのかなってメールしたんですけど、返信来ないんです。この前奏風邪ひいてましたし……また、ぶり返してしまったのでしょうか?」
 オレには吉佐美がいる。
「最近、奏の口数が少なかったのは具合が悪かったからですよね? そうですよね」
 違う。
 奏は風邪で休んでいるわけじゃない。
 もしかしたら……もう一生学校へ来ることはないのかもしれない。奏の言葉にはそれ相応の覚悟を芽吹かせていた。
 卑怯だ、と思う。
 卑怯だ。
 吉佐美の地位を奪おうとしているなんて。オレにその共犯者になれと言っているようなものだ。
 逃れることなんてできない。いかなる舵をとったとしても船の側面に大きな傷を残すことになる。
 奏の告白を押しのけ、今を保持し続けるか?
 吉佐美と別れ、奏の思いを受諾するか?
 前者であれば確実に奏との絆は裂け、そして元通りに面向かうことは無くなるだろう。
 後者であれは吉佐美は悲しい顔をするだろう。縋りついてでも別れることに首を大きく横に振ると思う。それだけじゃない。吉佐美を慕ってきた後輩彰子や、共に成長してきた源、平野がどんな顔をするだろうか。憎まれ、恨まれ、疎まれ、蔑まれる。吉佐美はあれほど周囲から愛されているんだ。彼女に対する裏切り行為を誰が許してくれるというんだ。
 世間体との戦いだ。個人の自由だの個の尊重だのが叫ばれ、推進されているにもかかわらず、常に周囲を見渡し――周囲のクウキを肌で感じ取り――出方を窺っている奴が大勢いるんだ。オレみたいに。
 たったの六日間で縁切る輩がどこにいる。前代未聞ってやつが最も恐ろしい。日頃第二位以下でありたい。平凡に憧れてやまない。目立ちすぎないように、陰気すぎないように、ひたすらモブを追求していく。
 そんな輩が自己決断の窮地に立たされたとき、どうするか?
「統流君? どうしたんですか?」
「ん、ああ、いや。別に」
「具合、悪そうですよ? それってもしかして、奏から――」
「うつされたとか言うなよ? うつされてたら奏は元気になってるだろ?」
「そ、そうですよねっ! ……そうですよ」
 窮地に立たされたとき、輩は先延ばしにしようと躍起になる。例えば、今日は奏がいなかったから、吉佐美と別れるのはまだ先でいいやといったふうに。
 オレって野郎は本当にダメな人間だよなあ。


 迷い路の境を歩き続けていた。
 それは軍事境界線のように、とても不安定で、いつどちらかの兵隊から撃ち抜かれてもおかしくはない状態であった。
 どちらかの境界に逃げ込めば緊張は解かれるのだろう。死の間近での束縛も緩まれるのだろう。でも敵がいなくなる事態になることはない。一方の領地に逃げ込めば、他方から恨まれることになるのは必然だからだ。
 歪んだ平等思想とも言うべきか、オレは他方から恨まれるよりも、両方から恨まれていた方がまだ気が楽だった。
 そうやって、迷境を逃げ続けるんだ。


 寝不足と物思いの二連コンボにより、あまりにもあっけなく放課後が来てしまった。午後授業は眠気に限界が到来していたようで、二時限分とホームルームをぶっ通しで熟睡していたらしい。
 目が覚めると既に人影はなかった。大瀬崎ですらいなかった。その代わりなのか、隣の机には缶コーヒーが置かれていた。『朝専用』と主張する奴はまだ温もりが残っている。
 遠慮がちに扉が開く。音を立てないようにしているようだが、ボロくて重い教室のドアはガリガリとレールを引っ掻いた。
「お前、部活じゃないのか?」
 吉佐美だった。外ではとっくに野球部がキャッチボールをしている時間帯だ。合唱部なら二、三度合わせられるというのに。
「はい、部活です。今日も来てくれるんですよね?」
 その声は、ちっとも濁っていなくて。期待というよりかは、確認の問い掛けのようで。昨日のことに何の不満も抱かない様子に、思わず口をつぐんだ。
「統流君?」
 きっと、オレの口から出てくる言葉は廃液のように汚染された、穢れた言葉なのだろう。とても彼女に向かってぶちまけられる言葉ではなかった。
「来て、くれますよね?」
 でも、言わなくちゃいけない。
 苦しいことから逃げるだけじゃあいけないことくらい、分かってるんだから。汚い人間が潔さげに振舞ってちゃいけないんだから。
「オレがいると練習はかどらないだろ?」
「い、いえ、そんなこと……」
「そんなこと? どんなことだよ。オレがいる間に何回歌ったか?」
 段々と語気が荒くなっていく。意識的ではなく、無意識に。徐々に感情の抑制が利かなくなっていく。
 どうしてこんなことを言ってるんだろう。刃物の峰のように、頭は至って冷徹だった。
「お前らさ、コンクールまであと何日だ? 五日だろ? こんなのでいいのかよ?」
「それは……」
「オレがいたら練習の邪魔になるだろ。今日は先帰るぞ」
 カバンを取り立ち上がる。
「ま、待って下さい!」
 空いた腕にしがみ付かれる。そのたわわに熟れた二つの実に挟まれる。衝動に揺れ動くが、内側に押し潰して息をついた。
「統流君がいたって、ちゃんとできます。ですから帰らないで下さい」
「できる保証なんてないだろうが。平野だっているんだ、あいつと一緒になったら――」
「雪音は関係ありません!」
 教室に響く吉佐美の怒声。そしてすぐにごめんなさい、という小さな声が聞こえた。
「とにかく保証なんてない。先帰るぞ」
「なら、一緒に帰ります!」
「何言ってんだよ」
「帰ります。本気です」
 一点の曇りもないそれは、ただならぬ覚悟が見て感じ取れた。源の諦めた笑顔、奏の濡れた髪の毛。
 それでもオレは彼女の腕を振りほどかなければいけないのだろう。理不尽と思われようが、自己中心性の塊と思われようが。
「コンクール、近いんだろ?」
「はい、近いです」
 間近の吉佐美が頷く。さっきから吐息に頬を撫でられている。
「でも、統流君とも、もっともっと近くなりたいんです!」
 こんな近くで。
 彼女がちょっと顔を近けようともすれば唇が触れ合ってしまう。
「十分近いだろ。付き合ってるんだし」
「近くありません!」
 断言し、言い放った。
「距離なんて、初めから縮まってなんかないです。私がこんなに近付いても、気持ちはずっと遠いままじゃないですか。それどころか、少しずつ離れていってませんか?」
「気のせいだろ」
「気のせいなんかじゃ、ありませんよ!」
 空は青く、青く、どこまでも青く、平らかに広がっていた。誰の気分とも無関係に空は山の遥か遠くにまで続いていて、ああもしかしたらこの先の空の下では桜が咲いているのかもしれないなと思ってしまったりもして、それからしばらく稜線を眺めてからようやく、彼女の様子がいつもとは違っていることに気が付いた。
「統流君、私のこと真正面から見つめてくれたこと、ありましたか?」
 そりゃ当然……と、今までを思い返す。吉佐美の顔を見ることはあったが、意識を持ってじっと彼女の口を、鼻を、目を、見ることはなかったのではないだろうか?
 もしかしたらそうなのかもしれない。あの日、吉佐美の家へお邪魔したときだって、彼女のことをしっかり見てやれたかと尋ねられれば、自信を持って頷くことはできない。
「私は、見つめられませんでした。統流君のこと見つめても、目が合ったことはありませんでした。私の見る統流君は、横顔ばっかりなんです!」
 それはどんな気持ちなのだろうか。すぐ側の存在であるにもかかわらず、少しの触れ合いもない。今左腕に感じる吉佐美の温もりでさえ冷ややかに受け取ってしまう自分の精神に、彼女はどんな気持ちでいるんだろう。
「嫌なところがあったら直します。私、統流君好みの彼女でありたいんです。統流君がこうしろって言うんなら、それに従いますから。なんだってします。ですから、ずっと統流君の隣でありたいんです!
 それでもやっぱり、奏のこと、気になりますか? ……いえ、答えないで下さい。もしそうだとしても、私じゃ奏の代わりにはなりませんか? 確かに奏みたいに積極的じゃありません。私は引っ込み思案です。面白い話もできません。つまらない人間です。可愛くもありません。そばかすばっかりです。
 ですが、統流君への思いじゃ、誰にだって負けません。まだ奏みたいに、と……統流って呼べません。でも二文字分多くの気持ちを籠めて、統流君って言ってます。そのくらい統流君のこと、愛しているんです。愛がどういうものを指すのかはまだ分かっていないのかもしれません。もしかしたら一生分からないのかもしれません。でも、奏なんかよりも、ずっとずっと、あなたのことを愛しています!
 それでも……奏の代わりにはならないんですか?」
 吉佐美の気持ちは痛いほど分かる。
 大切な人を失う恐怖。そのことを潜在的に知っていた。どこかでそんな経験をしたんだ。
 同情するとともに、今まで吉佐美を見くびっていたのかもしれない。
 彼女の思いを、どこかアリガチと思っていた自分がいた。そこらへんの彼女がそこらへんの彼氏へ抱く情愛と同等であると知らず見なしていた。
 吉佐美は一つのところに命を懸けられる素質を持っている。読んで字の如く、一所懸命なのだ。
 だからこそ、言ってやりたいことがあった。
「オレはな、お前が一つの物事に頑張って取り組んでる姿に惚れたんだ。今のお前にとって懸命になれるのはオレなんだろう?」
「はい」
 揺るぎない心意を象徴する頷き。
「中学時代のバスケや、オレと付き合う以前の合唱もさ、きっと真剣にやってたんだと思うよ。その情熱がオレに向けられたんだと思う」
「いえ、もっと、もっとです」
「ああそうだろう。お前にとってはそうなんだろう。でもな吉佐美、オレにとっては全く違うものなんだよ」
 そりゃ、吉佐美の慎ましげな行いは好意を感じるし、謙虚な態度は好感を持つ。吉佐美の美点はそれを誰に対してもできるってところなんだ。オレだけでなく、対等に配ってやれるその態度が。
「オレは、何か一つのことに打ち込んでる吉佐美の懸命な姿が好きなんだ。オレだけになってる吉佐美なんて、吉佐美じゃない。そんな堕落してるお前なんて見たくないんだよ」
 素人がバスケを始めて、それで関東を目指して練習を積み重ねてきた吉佐美に惚れたんだ。あんな激しい練習は誰にだってできるわけじゃない。吉佐美だって最初はできなかったけれども、できるようになるまで努力を積み重ねてきた。その努力する姿をこの目で見たかったんだ。徐々に体力が付いてきて、息切れせずに山まで辿れるようになった吉佐美の過程を見続けたかったんだ。ゼロから始まった合唱部が練習を積むに重ねて上達していく様を眺めていたいんだ。金賞なんて取らなくったっていい。銀賞でも銅賞でも参加賞でもいい。努力の証さえ獲得できればそれでいいんだ。
「……わかりました」
 長い、長い沈黙は、彼女の一言で割裂した。
「合唱部、一緒に行きましょう。私頑張っちゃいますから。そしたら奏のことなんて吹っ飛んじゃいます。私の懸命な姿に統流君惚れなおしちゃいますから」
 待て。待ってくれ。
「統流君、来て下さいますか?」
 そもそもお前はなんで奏と比べたがるんだ。
「……統流君?」
 違う。奏じゃないんだ。お前に投影してきたのは奏じゃない。
「統流君、返事をして下さい。統流君!」
 ――統流君っ!
 急に、心の奥底から恐怖が滲み出てきた。にんまりと嘲笑う巨大な翼を持つ堕天使のほほえみ。
 胸に住まう奴が今にも鋭利な爪先で心の臓をえぐるのではないかという不安が爆発的に膨らんで、
「――オレを、その名で呼ぶな!」
 叫んでいた。
 悪魔の根本を絶やすために。紛れもない無意識の状態で。まるで反射反応が今ここで為されているようだった。
 しかし、その言葉は一方で、彼女の全ての努力を無効とする言葉でもあった。
 何せ彼女は、その名前で呼ぶところからスタートを切ったのだから。彼女失格だと自分を謙遜して、恋人らしいことを見つけようと言い出して、それからあれほど時間を掛けて、慌てふためいて、でも確かに言い切った。それだけで至福を得られる、純粋な奴なんだ。
 お前ほど彼氏に尽くす人はいない。
 お前ほど彼女にしたい人はいない。
 でも、お前じゃオレの不安はきっと無くならない。お前といると、不安はますます膨れ上がってしまうんだ。
 だからお前のせいなんかじゃなくて、身勝手な自分のせいだ。自分に根づいてしまった不安の恐怖からだ。
 お前がその名で呼んだときから、オレの知らない大事な人を失くした記憶が蘇ってきて、生きながらの別れが蘇ってきてしまったんだ。
 初めから、オレらは隣り合っちゃいけなかったんだよ。
 不条理だよ。
 不安の根源と出会うことがなければ、お前といつまでも一緒にいられただろうに。奏を失ってもなお、吉佐美に背を支えられ、倒れることはなかっただろうに。
 彼女は大粒の涙を流し、肩を震わせていた。その貧弱な肩は、どれだけの失意や絶望が載せられているのか。全ての行いが水泡に帰するとき、人はどう変貌してしまうのだろうか。
「ごめ、なさ……」
 腕の温もりが遠のいてゆく。廊下を駆け抜ける音がやがて失せてゆく。
 吉佐美を泣かせてしまった。
 こりゃ、藤原彰子に怒られるな。神子元奏にも咎められるかもしれない。
 でも、いいんだ。
 これで迷宮で魔境の路を脱する光を見つけられたんだ。
 ……別れよう。
 その意志は伝わっていたんだと思う。
 だから吉佐美は「あたし」じゃなくて「私」って自称していたんだ。


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